もくじ.
第1講:インド哲学への招待 – その多様性と魅力
哲学の森への入り口
私たちの日常は、時に静かな問いを投げかけてきます。「なぜ私はここにいるのだろう?」「幸福とは一体何なのだろうか?」「この尽きることのない不安や苦しみは、どこからやってくるのだろう?」こうした問いは、まるで森の奥深くから響いてくる呼び声のようです。その声に耳を澄ませ、答えを探し求める知的な旅、それが「哲学」と呼ばれる営みです。
世界には、大きく分けて二つの巨大な哲学の森が存在すると言えるでしょう。一つは、古代ギリシャに源流を持つ「西洋哲学」の森。もう一つは、古代インドの広大な大地に根を張る「インド哲学」の森です。どちらの森も、人類が何千年にもわたって培ってきた叡智の宝庫であり、それぞれに異なる風景と魅力を持っています。
西洋哲学が、しばしば世界の構造を解き明かそうとする客観的な探求、つまり「知を愛し求める(フィロソフィア)」営みとして語られるのに対し、インド哲学は、より切実な動機から始まります。それは、生きることそのものに付きまとう「苦(ドゥッカ)」からの解放という、極めて実践的な目的です。それは、書斎で思索に耽るだけのものではなく、私たちの心と身体、そして生き方そのものを変容させるための、生きた智慧の体系なのです。
この講義では、まずインド哲学という広大な森の入り口に立ち、その全体像を眺めてみたいと思います。それは、西洋哲学という見慣れた地図とは異なる、どのような特徴を持つ地図なのでしょうか。どのような道(学派)があり、どこへ向かおうとしているのでしょうか。さあ、深呼吸をして、古代インドの賢者たちが遺してくれた智慧の縁側へ、一緒に腰を下ろしてみましょう。
「観る」ことの哲学 – ダルシャナの世界
まず、「インド哲学」という言葉そのものから考えてみましょう。インドで伝統的に哲学を指す言葉は、サンスクリット語で「ダルシャナ(Darśana)」と言います。この言葉の語源は「見る、観る(dṛś)」という動詞にあり、その名詞形であるダルシャナは「見ること」「観ること」、そしてそれによって得られる「観方」「世界観」「思想体系」を意味します。
ここに、インド哲学の本質が端的に示されています。インド哲学は、単に論理を組み立てて思考する学問(セオリー)ではありません。それは、世界の真理、自己の本当の姿を、自身の心と身体を通して直接的に「観る」ための実践的な道筋なのです。知識(ジュニャーナ)は、必ず実践(クリヤー)と結びついています。ヨーガのポーズ(アーサナ)や呼吸法(プラーナーヤーマ)、瞑想といった身体を伴う修行が、哲学的な探求と不可分である理由がここにあります。それは、頭で理解するだけでなく、全身で、全存在で真理を体感するための技術なのです。
この哲学の出発点にあるのが、先ほども触れた「苦(ドゥッカ)」という極めてリアルな実感です。私たちは、生まれた瞬間から、老い、病み、そして必ず死ぬという避けがたい苦しみを抱えています。愛する人との別れ、欲するものが手に入らない苛立ち、望まない出来事との遭遇。なぜ、私たちの生はこれほどままならないのでしょうか?この根源的な苦しみの原因を突き止め、それを滅するための道を明らかにすること。これこそが、ほとんどのインド哲学の学派に共通する究極の目的なのです。
この切実な問題意識が、インド哲学を机上の空論から遠ざけ、現代に生きる私たちの心にも深く響く、普遍的な力強さを与えていると言えるでしょう。
西洋哲学との比較 – 二つの異なる知のコンパス
インド哲学の特徴をより鮮明にするために、私たちが比較的慣れ親しんでいる西洋哲学と比較してみましょう。両者は、あたかも異なる方角を指し示す二つのコンパスのように、その思考の出発点から目的地まで、多くの点で対照的な姿を見せます。
思考の出発点:「驚き(タウマゼイン)」対「苦(ドゥッカ)」
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、「哲学は驚きから始まる」と述べました。夜空に輝く星々の運行、季節の移り変わり、生命の神秘。そうした世界のあり方に対する素朴な驚きや知的好奇心(タウマゼイン)が、西洋哲学の原動力となりました。「なぜ世界は このように あるのか?」という問いが、存在論や自然学といった学問を発展させたのです。
一方、インド哲学の出発点は、世界に対する「驚き」よりも、むしろ自己の生存に対する「苦しみ」です。なぜ私たちは、この生と死を無限に繰り返す苦しみの輪(輪廻、サンサーラ)から逃れられないのか。この宿命的な苦からの「解放(モークシャ)」を希求する強い動機が、哲学的な探求へと人々を駆り立てました。「いかにして この苦から 解放されるか?」という問いが、インド哲学の中心にどっしりと座っています。
真理へのアプローチ:「論理(ロゴス)」対「直観(プラジュニャー)」
西洋哲学は、伝統的に「理性(ロゴス)」を最も信頼できる道具として用いてきました。言葉と論理を駆使して概念を定義し、体系的な議論を積み重ねることで、客観的で普遍的な真理に到達しようと試みます。プラトンのイデア論からカントの批判哲学、現代の分析哲学に至るまで、その根底には論理的な整合性への強い信頼が流れています。
インド哲学も、もちろん論理を軽視するわけではありません。特に後述するニヤーヤ学派は、極めて精緻な論理学体系を発展させました。しかし、インド哲学において論理は、あくまで真理に至るための一つの手段であり、最終目的地ではありません。多くの学派が目指すのは、言葉や思考を超えた領域で真理を直接的に体感すること、つまり「直観(プラジュニャー)」による叡智です。瞑想によって心の働きが静まり、主観と客観の区別が消え去った境地(三昧、サマーディ)で得られる体験的な知こそが、最高の真理であると考えられているのです。
身体の位置づけ:「心身二元論」対「心身一如」
西洋近代哲学の父と称されるデカルトは、「我思う、故に我あり」という言葉で、精神の優位性を確立しました。彼の思想は、精神と身体を明確に分離する「心身二元論」の土台となり、その後の西洋思想に大きな影響を与えました。この考え方では、身体はしばしば精神が宿るための器、あるいは精神によって操作される機械のように見なされがちです。
これに対し、インド哲学、特にヨーガやタントラの伝統では、心と身体は切り離すことのできない一つのもの(心身一如)として捉えられます。身体は、欲望の源として蔑まれるべきものではなく、むしろ解脱へと向かうための極めて重要な「乗り物」あるいは「道具」です。身体のエネルギー(プラーナ)を整え、感覚を制御し、姿勢を安定させるという身体的な実践を通して、心の状態を直接的に変容させることができると考えられています。私たちの身体は、単なる物質的な塊ではなく、宇宙の縮図であり、智慧が宿る聖なる寺院なのです。縁側で感じる風や太陽の光が、私たちの身体を通して心の状態を変えるように、身体感覚は精神的な目覚めへの扉となります。
時間観:「直線的な時間」対「円環的な時間」
ユダヤ・キリスト教的な世界観に影響された西洋の歴史観は、基本的に「直線的」です。世界は神による天地創造に始まり、イエスの降誕を経て、最後の審判という終末に向かって一度きりのプロセスを進んでいきます。個人の人生も、誕生から死まで一方向に進む、取り返しのつかない旅として描かれます。
対照的に、インド哲学の根底には「円環的な時間」という観念があります。**輪廻転生(サンサーラ)**という思想に象徴されるように、生と死は終わりなきサイクルの一部です。個々の生命は、自らの行い(カルマ)の結果として、何度も異なる生を繰り返すと信じられています。この永遠に続くかのような苦しみのサイクルから抜け出すこと、すなわち「解脱(モークシャ)」こそが、人生の究極的な目標となるのです。この時間観の違いは、死生観、倫理観、そして人生の目的そのものに、根本的な差異をもたらしています。
インド哲学の際立った特徴
西洋哲学との比較を通して、インド哲学の輪郭はよりはっきりと見えてきました。ここで、その際立った特徴をいくつか整理しておきましょう。
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徹底した実践性:哲学は書斎の中の思索に留まらず、ヨーガや瞑想などの具体的な修行を通して、生き方そのものを変容させるための実践的な智慧です。
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解脱(モークシャ)への強い志向:ほとんどの学派が、輪廻の苦しみからの解放という共通の最終目標を掲げています。
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聖典(ヴェーダ)への態度による分類:後述するように、古代インドの聖典であるヴェーダの権威を認めるか否かが、学派を分類する大きな基準となります。これは西洋哲学には見られない独特の分類法です。
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師資相承(グル・シシュヤ・パランパラー)の重視:真理や智慧は、書物からだけでなく、師(グル)から弟子(シシュヤ)へと、人格的な触れ合いを通して直接的に受け継がれるという伝統(パランパラー)を重んじます。知識は、生きた人間関係という共同体の中で血肉化されるのです。
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驚くべき包括性と多様性:互いに矛盾するように見える思想でさえ、完全に排斥するのではなく、異なる段階の真理として位置づけたり、自派の体系内に取り込んだりすることがしばしば見られます。この寛容さが、インド哲学の森を豊かで多様なものにしています。
主な学派の地図 – 多様な真理への道筋
インド哲学の広大な森には、数多くの道、すなわち学派が存在します。伝統的に、これらの学派は、聖典『ヴェーダ』の権威を認めるか否かによって、大きく二つに分類されます。
正統派(アースティカ, Āstika)
ヴェーダの権威を認める学派群で、特に重要なものとして「六派哲学(シャッド・ダルシャナ)」が知られています。これらは二つ一組で論じられることが多く、互いに補完し合う関係にあります。
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サーンキヤ学派 (Sāṃkhya):世界の成り立ちを、純粋な精神原理である「プルシャ(神我)」と、根源的な物質原理である「プラクリティ(自性)」という二つの実在から説明する、厳密な二元論です。「世界は何からできているのか?」という問いに答えます。
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ヨーガ学派 (Yoga):サーンキヤ学派の理論的な枠組みを土台とし、心の作用をコントロールして止滅させる(チッタ・ヴリッティ・ニローダ)ことによって解脱に至るための、具体的な実践方法を説きます。パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』がその根本経典です。「どうすれば心を静め、解放されるのか?」という実践的な問いに応えます。
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ニヤーヤ学派 (Nyāya):正しい知識を獲得するための論理学と認識論を探求します。「どうすれば正しく知り、誤謬から逃れられるのか?」という問いを突き詰め、精緻な推論の形式を確立しました。
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ヴァイシェーシカ学派 (Vaiśeṣika):世界は原子(パラマーヌ)から構成されるとする原子論を展開し、存在する全てのものをカテゴリー(パダールタ)に分類して分析しました。「世界を構成する究極の要素は何か?」という問いに答える、自然哲学的な学派です。
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ミーマーンサー学派 (Mīmāṃsā):ヴェーダの中でも特に祭祀(カルマ・カーンダ)に関する部分の正しい解釈と実践を追求します。「ヴェーダに記された儀礼(ダルマ)は、なぜ、どのように行うべきか?」という問いに答え、聖典の絶対的な権威を擁護しました。
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ヴェーダーンタ学派 (Vedānta):ヴェーダの最終部分であるウパニシャッドの哲学(ジュニャーナ・カーンダ)を基礎とし、「宇宙の根本原理(ブラフマン)と個人の本質(アートマン)の関係は何か?」という究極の問いを探求します。後のインド思想に最も大きな影響を与え、シャンカラの不二一元論など、様々な下位学派を生み出しました。
異端派(ナースティカ, Nāstika)
ヴェーダの権威を認めず、バラモン教の伝統的な儀式主義を批判した学派群です。
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仏教 (Buddhism):ゴータマ・ブッダによって開かれ、「いかにして苦を滅するか?」という問いに対し、縁起、四諦、八正道といった実践的な教えを説きました。アートマン(我)という恒常的な実体の存在を否定(無我)した点が、正統派との大きな違いです。
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ジャイナ教 (Jainism):マハーヴィーラを始祖とし、「いかにして魂を物質的なカルマの束縛から解放するか?」という問いに対し、徹底した非暴力(アヒンサー)と苦行を説きます。
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チャールヴァーカ派 (Cārvāka):順世派とも呼ばれる唯物論の学派です。知覚できるものだけが実在するとし、霊魂や来世、カルマの法則を全て否定しました。「人生の目的は、現世での快楽を追求すること以外にないのではないか?」という、他の学派とは全く異なるラディカルな問いを投げかけました。
智慧の縁側から始まる旅
ここまで、インド哲学という広大で多様な森の地図を、大まかに広げてきました。西洋哲学との比較を通してその独自性を浮き彫りにし、様々な学派がどのような問いを立て、どのような道を歩もうとしたのかを概観しました。
インド哲学は、決して遠い過去の難解な思想体系ではありません。それは、私たちが日々直面する苦しみや不安、そして幸福への渇望に、時代を超えて応えようとする、生きた智慧の宝庫です。それは、世界の「外側」から客観的に分析するだけでなく、私たち自身の「内側」から世界との関わり方を変容させようとする、深遠なアプローチを提示してくれます。
この講義を皮切りに、私たちはこれから一歩ずつ、この智慧の森の奥深くへと分け入っていきます。古代の賢者たちが縁側に座って交わした対話に耳を傾けるように、リラックスして、しかし真摯な気持ちで、この旅を共に続けていきましょう。あなたの心と身体が、この旅を通して、新たな風景と出会うことを願ってやみません。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。






