現代を生きる私たちにとって、「ヨガ」という言葉は驚くほど身近な存在となりました。朝の光が差し込むスタジオで、あるいは静かな自室のマットの上で、私たちはポーズ(アーサナ)をとり、呼吸を整え、心の静けさを求めます。ヨガはフィットネスであり、美容法であり、ストレス解消のツールでもあります。しかし、その多様な姿の奥には、数千年という時を超えて受け継がれてきた、深く、広大な精神の海が広がっていることをご存知でしょうか。
私たちが今日実践するヨガの起源は、古代インドの壮大な精神文化の源流、すなわち「ヴェーダ」の叡智と分かちがたく結びついています。ヨガは、ある日突然、誰か一人の天才によって発明されたものではありません。それは、ヴェーダの時代から連綿と続く、人間と宇宙、そして自己の本質をめぐる探求の旅路そのものであり、その過程で磨き上げられてきた実践的な知の結晶なのです。
この章では、ヨガの起源をヴェーダの時代まで遡り、その思想的な系譜を丁寧に紐解いていきます。それは、単なる歴史の解説にとどまりません。私たちがマットの上で行う一つひとつの動き、一つひとつの呼吸に、いかに壮大な物語と哲学が宿っているのかを感じていただくための、時空を超えた旅へのご招待です。
もくじ.
「ユジュ」という言葉の響き:ヴェーダ聖典におけるヨガの原風景
ヨガの起源を探る旅は、まず「ヨガ(Yoga)」という言葉そのものの語源から始まります。この言葉は、サンスクリット語の動詞の語根「ユジュ(yuj)」に由来します。この「ユジュ」には、「軛(くびき)をつける」「結びつける」「結合する」「統合する」といった多様な意味が込められています。
古代インドの風景を想像してみてください。力強い馬が引く戦車があり、御者はその馬たちを手綱で巧みに操り、目的地へと向かいます。この時、馬と戦車を結びつけている木製の道具が「軛」です。馬の荒々しい力を制御し、一つの方向へと統合する。「ユジュ」という言葉の最も原初的なイメージは、このような具体的な行為の中にありました。
この「ユジュ」という言葉は、ヴェーダ聖典の中でも最古層に位置する『リグ・ヴェーダ』に、すでに何度も登場します。しかし、ここでの使われ方は、現代の私たちがイメージする「心身を鍛える修行」とは少し趣が異なります。『リグ・ヴェーダ』における「ユジュ」は、主に神々を祭る儀式(ヤグニャ)の文脈で用いられました。祭官(バラモン)たちは、神々への賛歌(マントラ)を唱え、供物を火に捧げることで、人間と神々、そして天と地を「結びつけ」ようとしたのです。彼らは自らの精神を「ユジュ」し、つまり集中させ、儀式を正確に執り行うことで、宇宙の秩序(リタ)と調和しようと試みました。
ここには、後のヨガの核心となる要素の萌芽が見られます。それは**「制御」と「統合」**という概念です。荒々しい馬を制御するように、散漫になりがちな自らの心を制御する。そして、バラバラな要素を一つの目的に向かって統合する。ヴェーダの祭官たちが、神聖な儀式を滞りなく行うために必要としたこの精神的な集中力と自己制御の技術こそ、後のヨガ哲学が発展していくための、肥沃な土壌となったのです。彼らは、身体を動かすアーサナこそ行いませんでしたが、マントラの正確な詠唱や、複雑な儀式の手順を寸分違わず遂行する中で、自らの意識を「軛につないで」いたと言えるでしょう。
内なる宇宙への旅立ち:ウパニシャッド哲学とヨガの変容
ヴェーダ時代の後期になると、インドの思想界に大きな転換が訪れます。それまで重視されていた、神々への外面的な儀式や祭祀中心主義から、人々の関心は次第に自己の内面へと向かっていきました。この内省的な思索の成果が凝縮されたものが、『ウパニシャッド』として知られる一連の哲学的文献群です。
ウパニシャッドの賢者たちは問いかけます。「宇宙の根本原理(ブラフマン)とは何か?」「私という存在の本質(アートマン)とは何か?」そして、彼らは驚くべき結論に達します。宇宙のすべてを生み出す根源的な実在であるブラフマンと、個々人の中に存在する純粋な自己であるアートマンは、本質において同一である、という「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の思想です。
この思想的転換は、ヨガの発展に決定的な影響を与えました。「外なる祭壇」に火を焚いて神々と繋がるのではなく、「内なる祭壇」、すなわち自分自身の身体と心を探求することで、宇宙の真理に到達できるという道が拓かれたのです。この内面への探求を可能にするための、実践的な方法論として「ヨガ」が明確にその姿を現し始めます。
この時代のヨガの姿を、極めて象徴的に描き出しているのが『カタ・ウパニシャッド』に登場する有名な「戦車の比喩」です。
「アートマン(真我)を戦車の主と知り、身体をまさに戦車と知れ。
理性(ブッディ)を御者と知り、心(マナス)をまさに手綱と知れ。
感官(インドリヤ)を馬と呼び、その対象世界を馬の道と呼ぶ。」
(『カタ・ウパニシャッド』1.3.3-4)
この比喩は、驚くほど精緻にヨガの構造を解き明かしています。私たちの身体は、真我(アートマン)という主人を乗せて人生の道を走る「戦車」です。そして、その戦車を引くのは、見たい、聞きたい、味わいたいといった欲望に駆られて暴走しがちな五つの感官(インドリヤ)という「馬」。この暴れ馬を制御するのが、思考や感情が渦巻く**「心(マナス)」という「手綱」**であり、その手綱を握り、馬たちを正しい方向へと導くのが、**冷静な判断力である「理性(ブッディ)」という「御者」**なのです。
もし御者が眠っていたり、手綱をしっかりと握っていなければ、馬たちは好き勝手な方向に走り出し、戦車は道から外れて転覆してしまうでしょう。これは、私たちが感覚的な快楽や欲望に振り回され、人生の目的を見失ってしまう状態を指します。
逆に、優れた御者が手綱を巧みに操り、馬たちを完全に制御しているならば、戦車は主人が望む目的地、すなわち輪廻からの解放(モークシャ)という究極の境地へと到達することができます。この「御者が手綱で馬を制御する」という行為こそが、ウパニシャッドにおける「ヨガ」なのです。それは、感覚器官を外界から引き離し(後のプラティヤハーラ)、心を一点に集中させ(ダーラナー)、理性の力で自己の内なる本質へと向かう、極めて意識的な実践でした。
さらに『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド』に至っては、より具体的なヨガの実践法が記述されています。
「体を真っ直ぐに保ち、胸と首と頭を高く立て、感官を心とともに内に入れよ。賢者はブラフマンという舟によって、全ての恐るべき流れを渡るであろう。」(2.8)
ここでは、安定した坐法(アーサナ)、感覚の制御(プラティヤハーラ)、そして呼吸の調整(プラーナーヤーマ)を示唆する記述が見られ、ヨガが単なる観念ではなく、身体を伴った体系的な修行法として確立しつつあったことが明確に読み取れます。
実践哲学の体系化:ヴェーダの叡智と『ヨーガ・スートラ』の統合
ウパニシャッドの時代に内面的な探求の道として確立されたヨガは、紀元後4〜5世紀頃、聖賢パタンジャリによって『ヨーガ・スートラ』という形で見事に体系化されます。この経典は、現代に至るまでヨガ哲学の最も重要な根本経典として、すべてのヨガ実践者の指針となっています。
パタンジャリは、ヴェーダから続くウパニシャッドの哲学的基盤、特に「輪廻からの解脱」という目標を受け継ぎつつ、そこにサーンキヤ哲学という緻密な世界分析の枠組みを取り入れました。そして、解脱へと至るための具体的かつ普遍的な実践の階梯として「ヨガの八支則(アシュターンガ・ヨーガ)」を提示したのです。
この八支則は、まさにヴェーダ以来の叡智の集大成と言えます。
-
ヤマ(禁戒) と ニヤマ(勧戒):非暴力、正直、不盗、禁欲、不貪といった社会倫理や、清浄、知足、苦行といった自己に対する規律は、ヴェーダの宇宙的秩序(リタ)や個人の社会的義務(ダルマ)の思想を継承しています。ヨガが単なる個人的な修行ではなく、社会や他者との調和の中に成り立つものであることを示しています。
-
アーサナ(坐法) と プラーナーヤーマ(調息法):『シュヴェーターシュヴァタラ・ウPニシャッド』にも見られた、身体と呼吸を整える実践です。心を静めるための土台として、安定して快適な身体の状態を作り出すことが重視されます。
-
プラティヤハーラ(制感)、ダーラナー(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(三昧):これらはまさに『カタ・ウパニシャッド』の戦車の比喩で描かれた、内面への旅路そのものです。感覚という馬を外界から引き離し、心という手綱を一点に集中させ、ついには御者である理性も静まり、戦車の主である真我そのものが現れる境地へと至るプロセスが、段階的に示されています。
このように、『ヨーガ・スートラ』は、ヴェーダの祭官が求めた自己制御の精神、ウパニシャッドの賢者が説いた内観の哲学、そしてサーンキヤ学派の論理的な分析を、一つの実践的なシステムとして統合した、驚くべき達成なのです。
身体性の再発見:ハタ・ヨーガとヴェーダの身体観の響き合い
ここまで見てきたように、初期のヨガ、特に『ヨーガ・スートラ』におけるヨガは、主として心の働きを止滅させるための瞑想的な修行でした。アーサナも、瞑想のために長く快適に坐るための坐法が中心であり、身体は心の働きを制御するための「道具」ではあっても、それ自体が探求の主役ではありませんでした。
しかし、中世(10世紀以降)になると、タントラ思想の強い影響のもと、「ハタ・ヨーガ」と呼ばれる新しい潮流が登場します。ハタ・ヨーガは、アーサナやプラーナーヤーマ、そして浄化法(シャットカルマ)といった身体的な技法を積極的に用いることで、身体の内に眠る根源的な生命エネルギー「クンダリニー」を覚醒させ、解脱を目指すことを特徴とします。
ここで、身体はもはや心を収めるための単なる器や、克服すべき束縛の源ではありません。身体は、宇宙のすべてが凝縮された「小宇宙(ミクロコスモス)」であり、悟りのための最も重要な「道具」であり、神が宿る「聖なる寺院」として、その価値を再発見されるのです。
一見すると、この身体性を重視するハタ・ヨーガは、瞑想を主とする古典ヨガとは異なる流れのように思えるかもしれません。しかし、その根底には、やはりヴェーダから続く思想が深く流れています。
例えば、ハタ・ヨーガの中心概念である「プラーナ(生命エネルギー)」は、もともとヴェーダ聖典において「生命の息吹」として言及されていたものです。また、身体を小宇宙と見なす思想も、ウパニシャッドにおいて、人体の各部位と自然界の要素(目と太陽、呼吸と風など)を対応させる思考のうちに、その原型を見出すことができます。
ハタ・ヨーガは、ヴェーダやウパニシャッドの叡智を否定したのではなく、むしろそれを、より実践的かつ身体的なレベルで再解釈し、誰もが体感できる形に体系化したものと捉えることができるでしょう。ヴェーダの祭官が儀式を通して宇宙と調和しようとしたように、ハタ・ヨーガの実践者は、アーサナとプラーナーヤーマを通して、自らの身体という小宇宙の内に、大宇宙との調和を見出そうとするのです。
結論:ヴェーダの響きは、現代のヨーガマットの上にも
私たちの旅は、ヴェーダの壮大な宇宙観から始まり、ウパニシャッドの内なる探求を経て、パタンジャリによる体系化、そしてハタ・ヨーガによる身体性の再発見へと至りました。この数千年にわたる壮大な旅路こそが、現代のヨガの背景に広がる、豊かで深遠な世界です。
ですから、私たちがマットの上で一つのアーサナをとる時、それは単なるストレッチではありません。『カタ・ウパニシャッド』の賢者が説いたように、私たちは自らの身体という戦車に乗り、感覚という馬を制御し、理性という御者になるための訓練をしています。
深く、そして穏やかな呼吸に意識を向ける時、私たちはただ酸素を取り込んでいるだけではありません。ヴェーダの時代から生命の根源として崇められてきたプラーナという宇宙的エネルギーを、自らの内に感じ、巡らせているのです。
そして、シャヴァーサナ(亡骸のポーズ)で全てを大地に委ね、静寂の中に身を置く時、私たちは、梵我一如という究極の真理、すなわち「大いなるすべて」と「個である私」が一つであるという、古代の叡智の響きに、ほんの少しだけ触れているのかもしれません。
ヨガの起源を知ることは、私たちの実践をより深く、意味豊かなものに変えてくれます。それは、古代の賢者たちとの、時空を超えた対話です。あなたのヨーガマットの上にも、ヴェーダの神々への賛歌が、ウパニシャッドの師弟の対話が、そして宇宙の真理を探求し続けた無数の人々の祈りと願いが、静かに響いているのです。その声に耳を澄ませる時、あなたのヨガは、単なるエクササイズから、真の自己へと至る、聖なる探求の道となるでしょう。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


