私たちは、静かな夜にふと空を見上げ、無数の星々が織りなす壮大なタペストリーを前にするとき、根源的な問いに心を揺さぶられることがあります。「この世界は、どこから来たのだろうか?」「始まる前は、いったい何があったのだろうか?」と。この問いは、古代の森で火を囲んだ賢者から、現代の宇宙物理学者に至るまで、人類が抱き続けてきた普遍的な探求心の現れと言えるでしょう。
現代科学は、この問いに対して「ビッグバン」という一つの壮大な物語を提示してくれます。極小の一点から始まった爆発的な膨張が、時間と空間、そして私たちが知るすべての物質を生み出したのだと。それは、観測と計算によって裏付けられた、極めて論理的で美しいモデルです。
しかし、人類は科学という言語を獲得する遥か以前から、この世界の始まりについて、異なる形で語り継いできました。それは、論理や数式ではなく、詩と神話、そして深い瞑想的な洞察を通して語られる、もう一つの「創造の物語」です。特に、古代インドの叡智の宝庫であるヴェーダ聖典は、私たちが当たり前だと思っている「存在」そのものの根源を、息をのむほど哲学的で、深遠な筆致で描き出しています。
それは 마치、私たちが縁側に腰を下ろし、庭の草木が風にそよぐ音に耳を澄ませる体験に似ています。縁側は、家という「内なる秩序」と、自然という「外なる混沌(あるいは、人知を超えた秩序)」が接する、曖昧で豊かな空間です。そこでは、内と外、自己と世界、日常と非日常の境界線がゆるやかに溶け合います。
この章では、ヴェーダの賢者(リシ)たちが聞き取った、世界の始まりの物語を紐解いていきましょう。それは、縁側から遥か彼方の宇宙の夜明けを、そして私たち自身の意識の奥底に眠る原初の静寂を、同時に垣間見るような、神秘的な旅となるはずです。
ナーサディーヤ・スークタ:言葉が沈黙する場所
リグ・ヴェーダの数ある讃歌の中でも、ひときわ異彩を放ち、後世のインド思想に絶大な影響を与えた詩があります。それは第10巻129番目の讃歌、「ナーサディーヤ・スークタ」、通称「無の讃歌」あるいは「創造の讃歌」として知られるものです。この詩は、世界の始まりを説明するというよりも、始まり以前の「名状しがたい状態」を描写することで、私たちの思考をその限界点へと導き、言葉が意味をなさなくなる深淵へと誘います。
この讃歌は、古代の賢者たちが論理を組み立てて創作したものではなく、深い瞑想状態の中で宇宙そのものから「聞き取った」とされるシュルティ(天啓)の極致です。だからこそ、そこには人間的な作為を超えた、圧倒的な響きが宿っているのです。
讃歌は、衝撃的な否定の言葉から始まります。
「そのとき、無(asat)も有(sat)もなかった。」
(nāsad āsīn no sad āsīt tadānīṃ)
これは、単に「何もなかった」と言っているのではありません。もしそうであれば、「無があった」と言うだけで十分でしょう。リシは、「無(アサット)」すらも存在しなかった、と語るのです。私たちが世界を認識するための最も基本的な対立概念、「有るか、無いか」という二元論そのものが、まだ生まれていなかった状態。私たちの思考は、この最初のたった一行で、足場を失い、途方に暮れてしまいます。それは、概念という物差しが通用しない、絶対的な原初の状態です。
詩は、この徹底的な否定を続けます。
「空界も、その向こうの天空もなかった。
何が覆っていたのか? どこに? 誰の庇護のもとに?
深く測り知れない原初の水は、存在しただろうか?」
空気、空、水といった、世界の構成要素が一つ一つ否定されていきます。それは、私たちが想像力を働かせようとする先から、その足場を次々と取り払っていくかのようです。そして、詩はさらに根源的な領域へと踏み込んでいきます。
「そのとき、死もなければ、不死もなかった。
夜と昼との標(しるし)もなかった。」
死と不死、夜と昼。これらは、生命と時間を規定する、私たちの存在の根幹をなす対立項です。それらさえも存在しなかった。時間がまだ流れ始めていない、永遠とも瞬間ともつかない、静止した領域。そこは、生と死のサイクルを超越した、完全な未分化の世界です。
では、そこには本当に「何一つ」なかったのでしょうか。もしそうなら、そこから何かが生まれるはずがありません。リシは、この完全な否定の闇の中に、一つの微かな光を灯します。
「かの唯一者(Tad Ekam)が、自らの力(svadhā)によって、風なく呼吸していた。
それ以外には、何ものも存在しなかった。」
「かの唯一者」。それは、神々の名でもなく、特定の属性を持つ存在でもありません。ただ「タット・エカム(それ、一つなるもの)」としか呼ばれない、名付けようのない根源的な実在です。この「唯一者」は、「風なく呼吸していた」と表現されます。風、すなわちプラーナ(生命の息吹)さえも存在しない静寂の中で、他に依存することなく、自らの内在的な力によって、まるで呼吸するかのように存在していた。これは、後のウパニシャッド哲学における宇宙の根本原理ブラフマンの思想を、遥かに予感させる、驚くべき洞察です。活動も静止も超えた、存在そのものの純粋な状態が、ここに示唆されているのです。
この未分化な「唯一者」から、どのようにして多様な世界が立ち現れてきたのでしょうか。讃歌は続けます。
「初めに、闇が闇に覆われていた。
すべては見分けのつかない原初の海(salila)であった。
空虚に覆われた胎芽、それが、熱(タパス)の力によって一つ、生まれた。」
原初の状態は、光のない、闇が闇を覆うような状態であり、すべてが溶け合った「原初の海」であったとされます。その中から、「唯一者」が「熱(タパス)」の力によって一つの存在として顕現します。この「タパス」は、単なる物理的な熱ではありません。それは、苦行や瞑想によって生じる内的な熱、精神的な集中力、創造の意志そのものを意味します。つまり、根源的な実在が、自らを創造しようとする意志の熱によって、最初の顕現を遂げた、というのです。
そして、この「唯一者」の内に、最初の欲望が芽生えます。
「初めに、意欲(kāma)がそれの上に生じた。
それは、思考(manas)の最初の種子であった。
賢者たちは、心のうちに探求し、有(sat)の絆を無(asat)のうちに見出した。」
「カーマ(意欲、欲望)」が、創造の最初の原動力となります。これは、後の仏教で説かれるような克服すべき煩悩としての欲望とは異なり、世界を生み出すための根源的なエネルギー、宇宙的な衝動として捉えられています。この創造の意志が、思考の最初の種子となり、世界が分化していくきっかけとなったのです。
しかし、この壮大な創造のプロセスを語り進めてきた詩は、最後に驚くべき転回を見せ、すべてを再び深い謎の中へと還していきます。
「誰が真実に知ろうか? 誰がここで宣言できようか?
それがどこから生まれ、この創造がどこから来たのかを。
神々さえ、この世界の創造の後に現れたのだ。
ならば、それがどこから生じたのかを、誰が知ろうか?」
これは、徹底した知的謙虚さの表明です。創造の秘密を解き明かしてきたかに見えたリシは、突如として「本当に知っている者などいるのだろうか?」と問いかけます。神々でさえ、創造のプロセスが始まった後に生まれたのだから、その起源を知ることはできない。ならば、人間ごときに何が分かるだろうか、と。
「この創造がどこから生じたのか、あるいは彼がそれを創造したのか、しなかったのか。
最高の天にいるその監視者、彼のみが知っている。
あるいは、彼さえも知らないのかもしれない。」
宇宙のすべてを見通しているはずの最高の監視者(おそらくは後の創造神のこと)でさえ、その真実を知っているかどうかは分からない、というのです。これは、ドグマ(教義)を打ち立てるのではなく、探求の扉を開け放つための言葉です。ヴェーダの叡智は、安易な答えを与えることをしません。代わりに、私たち自身が問い続け、自らの内側でその答えを探求するようにと、静かに促しているのです。ナーサディーヤ・スークタは、宇宙論であると同時に、私たちの認識の限界を示し、それを超えた領域へと心を向かわせるための、壮大な瞑想の手引きと言えるでしょう。
ヒラニヤガルバ・スークタ:黄金の胎児の誕生
ナーサディーヤ・スークタが、言葉の及ばない抽象的な領域から世界の始まりを描いたのに対し、同じリグ・ヴェーダ第10巻には、より具体的で、神話的なイメージに満ちた創造の物語も収められています。それが、第121番目の讃歌「ヒラニヤガルバ・スークタ」、すなわち「黄金の胎児の讃歌」です。
この讃歌は、混沌とした原初の水の中から、光り輝く「黄金の胎児(ヒラニヤガルバ)」として創造主が誕生する様を、力強く歌い上げます。
「太初に、黄金の胎児が現れた。
彼は生まれたとき、万物の唯一の主であった。
彼は、この大地と、かの天空を支えた。
我々は、いかなる神に供物を捧げようか?」
ナーサディーヤ・スークタの「唯一者」が、ここでは「ヒラニヤガルバ」という、より具体的なイメージを持って現れます。「胎児」というメタファーは非常に豊かです。それは、まだ形を成してはいないが、無限の可能性を内に秘めた生命の始まりを象徴します。そして、それが「黄金」に輝いているのは、神聖さ、不滅性、そして叡智の光を宿していることを示しています。
この黄金の胎児は、生まれた瞬間に万物の主となり、天と地を支え、宇宙に構造と秩序をもたらします。混沌とした状態から、最初の「主権者」が誕生することで、世界は安定した存在となるのです。
讃歌全体を通して繰り返される「我々は、いかなる神に供物を捧げようか?(kasmai devāya haviṣā vidhema)」というリフレインは、この讃歌の鍵となります。一見すると、「どの神に捧げればよいのか?」という問いのように見えますが、サンスクリット語の文法を深く見ると、「カ(Ka)」という言葉自体が、後の時代に創造神プラジャパティ(万物の主)を指す名前としても使われることから、「カという神に、我々は供物を捧げよう」という賛美の宣言として解釈することもできます。この問いかけと賛美が一体となったリフレインは、聞き手を儀式的な空間へと引き込み、創造主への畏敬の念を掻き立てるのです。
この讃歌は、黄金の胎児がもたらした秩序を次々と歌い上げます。
「生命を与え、力を与える者。その戒めを、すべての神々が敬う。
その影は不死であり、その影は死である。」
彼は、生命力の源であり、神々さえも従う秩序(戒め)の制定者です。そして、彼の存在は「不死」と「死」という対立する概念を同時に内包しています。これは、彼が生命のサイクルそのものを司る、超越的な存在であることを示しています。
「雪を頂いたこれらの山々の偉大さを、彼の力によって宣言する。
人々が海と呼ぶものは、川と共に、彼の力によるという。」
山々や海、川といった自然界の壮大な景観もまた、この黄金の胎死の力によって存在しているとされます。彼は宇宙の構造だけでなく、地上のすべての存在の創造主でもあるのです。
ナーサディーヤ・スークタが、哲学的な思索を通して、静かに、そして懐疑的に世界の起源を探求したのに対し、ヒラニヤガルバ・スークタは、力強い信仰と賛美を通して、人格的な創造主の偉大さを高らかに歌い上げます。この二つの讃歌は、ヴェーダ思想が持つ両極端、すなわち深遠な哲学的懐疑と、燃えるような神々への信仰心の両面を見事に示していると言えるでしょう。
混沌から秩序へ:宇宙の法則「リタ」の確立
ヴェーダの宇宙観において、混沌から秩序への移行を理解する上で、欠かすことのできない重要な概念があります。それが「リタ(Ṛta)」です。
リタとは、宇宙の根本的な秩序、法則、あるいは真理を意味する言葉です。それは、太陽が東から昇り西に沈むといった天体の運行、季節が規則正しく巡ること、川が海に向かって流れるといった自然界の不変のサイクルを司る力です。同時に、リタは人間社会における道徳的な秩序や、祭祀(ヤグニャ)が正しく執り行われるための儀礼的な秩序をも含んでいます。
原初の状態、すなわち混沌とは、このリタがまだ確立されていない、あるいは見出されていない状態です。したがって、ヴェーダにおける「創造」とは、単に物質を生み出すことだけでなく、この宇宙的秩序であるリタを確立し、世界全体に行き渡らせるプロセスを意味します。
インドラやヴァルナといった神々は、このリタの守護者としての役割を担います。例えば、雷神インドラは、混沌の象徴である蛇ヴリトラを打ち倒し、塞き止められていた原初の水を解放することで、生命と秩序を世界にもたらした英雄神として讃えられます。この神話は、混沌に対する秩序の勝利を象徴的に物語っているのです。
また、言葉(ヴァーチ)や祭祀(ヤグニャ)も、リタを確立し維持するために不可欠な要素です。リシたちが唱えるマントラ(讃歌)は、単なる神への呼びかけではなく、それ自体がリタの力を持ち、宇宙の調和を保つための創造的なエネルギーを秘めていると考えられていました。同様に、火の祭壇で行われるヤグニャ(供犠)は、この宇宙的な創造のプロセスを地上で再現し、神々と人間が協力してリタを維持するための、極めて重要な実践だったのです。
このように、ヴェーダの世界観では、世界は一度創造されて終わりなのではありません。それは、神々と人間が、言葉と儀式を通して、絶えず混沌の力に抗い、宇宙の秩序(リタ)を維持し続けなければならない、ダイナミックなプロセスとして捉えられていたのです。
結び:内なる宇宙の夜明け
ヴェーダが描く、原初の混沌から秩序への壮大な物語。それは、遥か彼方の宇宙の始まりを語るだけでなく、鏡のように、私たち自身の内なる世界の物語を映し出しています。
私たちの心もまた、時に雑念や不安、未分化な感情が渦巻く「混沌とした海」のようです。ヨガや瞑想の実践は、まさにこの内なる混沌と向き合う旅と言えるでしょう。静かに座り、呼吸に意識を向けるとき、私たちは思考の嵐が少しずつ静まり、その奥にナーサディーヤ・スークタが語るような、思考以前の静寂な「唯一者」の気配を感じることがあります。アーサナ(ポーズ)を通して、ばらばらだった身体の各部を統合し、そこに一本の軸(秩序)を見出すとき、私たちは自らの内に「黄金の胎児」がもたらすような、安定した力と調和を生み出しているのです。
ナーサディーヤ・スークタが教えてくれる「知らないのかもしれない」という知的謙虚さは、情報が氾濫し、誰もが安易な答えを求める現代において、極めて重要な羅針盤となります。すべてを分かったつもりになるのではなく、「分からない」という豊かさの中に留まり、問い続ける姿勢。それこそが、真の叡智への扉を開く鍵なのかもしれません。
縁側に座り、内なる静寂と外なる世界のざわめきの両方を感じるように。ヴェーダの創造神話は、私たちに、存在の根源にある名状しがたい混沌と、そこに立ち現れた生命の秩序の両方に、深く思いを馳せることを許してくれます。この壮大な物語は、単なる古代の神話ではありません。それは、今この瞬間も、私たち自身の内で、そしてこの宇宙で、繰り返され続けている、生命の創造のドラマそのものなのです。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


