悠久の時の彼方より、私たちのもとへと届けられた人類最古の叡智の宝庫、それがヴェーダ聖典群です。その中でも、ひときわ古く、そしてインド思想の巨大な水脈の源流として燦然と輝くのが『リグ・ヴェーダ』にほかなりません。「リグ」(ṛc)とは「詩句」や「讃歌」を意味し、『リグ・ヴェーダ』は文字通り、神々への奉献と宇宙の神秘を謳い上げた聖なる詩句の集積なのであります。
想像してみてください。文字を持たなかったかもしれない古代のアーリヤの民が、師から弟子へ、親から子へと、一語一句違えることなく、この膨大な詩句群を「声」として伝承してきた姿を。それは単なる情報の伝達ではなく、聖なる音の響き(ヴァーチ)そのものに宇宙的な力が宿ると信じられていたからに他なりません。数千年という気の遠くなるような時間を経て、なおもその原型を色濃く留めているとされるこの「音の遺産」は、人類の記憶の深層に触れるような、ある種の畏怖の念を私たちに抱かせます。
では、なぜ現代に生きる私たちが、この古代の詩篇に耳を傾ける必要があるのでしょうか。それは、現代社会が直面する様々な課題――物質的豊かさの追求と精神的空虚、自然との乖離、人間関係の希薄化――といった問題に対し、『リグ・ヴェーダ』が、素朴でありながらも根源的な視点から、人間存在のあり方や宇宙との関わり方について、深い洞察と問いを投げかけてくるからではないでしょうか。この声の宇宙に分け入ることは、現代人の忘れかけた魂の故郷を探る旅であり、混迷の時代を生き抜くための、新たな羅針盤を見出す試みでもあるのです。本章では、この『リグ・ヴェーダ』の世界を、神々への賛歌と壮大な宇宙創造の物語を中心に、丁寧に読み解いてまいりましょう。
もくじ.
歴史の地平から:リグ・ヴェーダが生まれた時代
『リグ・ヴェーダ』が編纂された正確な年代を特定することは困難ですが、一般的には紀元前1500年から紀元前1000年頃にかけて、インド北西部のパンジャーブ地方(五河地方)を中心とした地域で、アーリヤ系の諸部族によって徐々に形作られていったと考えられています。この「アーリヤ人」という呼称やその起源、インドへの到来の経緯については、かつての「アーリヤ人侵入説」から、より複雑な文化接触や土着民との融合といった視点へと研究が進んでおり、単純な図式で語ることはできません。しかし、彼らがインド亜大陸に新しい言語(ヴェーダ語、サンスクリット語の古形)と文化、そして特有の宗教観念をもたらしたことは確かでしょう。
当時のアーリヤの民は、半農半牧の生活を営み、自然現象の背後に超自然的な力、すなわち神々の働きを感じ取っていました。雷鳴、太陽の運行、暁の輝き、燃え盛る火、そして生命の源である水――これら全てが、畏敬と感謝の対象となり、神格化されていったのです。彼らの社会では、神々との交感を使命とする司祭階級(バラモン)が重要な役割を担っていました。彼らは複雑な祭祀儀礼を執り行い、神々への賛歌を創作し、それを正確に伝承することで、部族の安寧と繁栄を祈願したのです。
また、この時期は、インダス文明(紀元前2600年頃~紀元前1900年頃)が衰退した後であり、この先行する高度な都市文明と『リグ・ヴェーダ』の文化との間にどのような関連があったのかは、依然として大きな謎に包まれています。インダス文明の遺跡からは、後のヒンドゥー教の神々やヨーガの行法を思わせるような印章も発見されており、その思想的影響が皆無であったとは考えにくいでしょう。しかし、『リグ・ヴェーダ』のテキスト自体には、インダス文明を直接的に想起させる記述は乏しく、むしろ自然崇拝を基調とした、より素朴で力強い世界観が展開されています。この古代の信仰と生活の息吹を感じ取ることが、『リグ・ヴェーダ』を理解する上での第一歩となるのです。
神々の饗宴:リグ・ヴェーダに響き渡る賛歌
『リグ・ヴェーダ』を構成する約1028篇の讃歌(スークタ)の大部分は、様々な神々(デーヴァ)への呼びかけ、称賛、そして祈願で満たされています。デーヴァとは、サンスクリット語で「輝く者」を意味し、自然現象の力や特定の宇宙的機能を人格化した存在として捉えられていました。彼らは全知全能の絶対神というよりは、人間のように感情を持ち、時には気まぐれで、供物や賛歌によって機嫌を取り結ぶ必要のある、より身近な存在として描かれています。
賛歌(ストートラ)は、単なる美辞麗句の羅列ではありません。それは、神々への畏敬の念、恩恵への感謝、そして宇宙の秩序(リタ)を維持するための協力を求める、切実な「言葉の捧げもの」でした。その詩的表現は豊かで、大胆な比喩や直喩、そして自然の壮大さを感じさせるスケール感に満ちています。
主要な神々とその横顔
『リグ・ヴェーダ』には33柱、あるいはそれ以上の多数の神々が登場しますが、中でも特に重要な神々をいくつか見てみましょう。
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インドラ(Indra):
ヴェーダのパンテオンにおいて最も多くの賛歌(約250篇)が捧げられている、雷霆神にして英雄神です。彼は雷撃(ヴァジュラ)を武器に、宇宙の水を堰き止めていた悪龍ヴリトラを打ち破り、生命の水を解放した武勇で称えられます。また、神聖な飲料ソーマをこよなく愛し、それを飲むことで力を増大させると信じられていました。その性格は豪放磊落、時には傲慢で自己中心的にも描かれますが、アーリヤの民にとっては、外敵からの守護者であり、豊穣と勝利をもたらす頼もしい存在でした。彼の物語は、自然の猛威とそれに対する人間の挑戦、そして生命力の賛美を象徴しているとも言えるでしょう。 -
アグニ(Agni):
「火」を意味するアグニは、インドラに次いで多くの賛歌(約200篇)が捧げられている重要な神です。彼は祭壇に燃え盛る聖なる火であり、人間が捧げる供物を煙に乗せて天上の神々へと届ける使者の役割を担っていました。また、家庭の竈(かまど)の火として家々を守護し、暗闇を照らし、知識の光をもたらす存在としても崇拝されました。アグニは神々と人間界、天と地を結びつける神聖な媒体であり、その炎は宇宙の生命力の象徴とも見なされたのです。 -
ヴァルナ(Varuṇa):
天空神であり、宇宙の根本的な秩序「リタ(Ṛta)」を司る神として、畏敬の念をもって讃えられています。リタとは、自然法則、道徳的秩序、そして祭祀儀礼の正確さをも含む広範な概念であり、ヴァルナはこのリタを維持し、それに背く者には罰を与える厳格な神として描かれます。彼は千の眼を持ち、人間のあらゆる行為を見通すとされ、その賛歌には罪の告白や赦しを請う内容も見られます。後のウパニシャッド哲学におけるブラフマン(宇宙の根本原理)の観念の萌芽をヴァルナの属性に見出す研究者もいます。その存在は、古代インド人の倫理観や宇宙の秩序に対する深い洞察を反映していると言えるでしょう。 -
ソーマ(Soma):
特定の植物(その正体は未だ謎に包まれています)から搾り出される神聖な飲料、およびそれを神格化した存在です。ソーマは神々、特にインドラに活力を与え、人間には不死や詩的霊感、神秘体験をもたらすと信じられていました。ソーマ祭はヴェーダ儀礼の中心的なものであり、その準備から献飲に至るプロセスは、複雑な手順と多くのマントラ(呪文)によって彩られていました。ソーマは、単なる興奮剤ではなく、意識を変容させ、神聖な領域へと誘う触媒として、古代アーリヤ人の精神世界において極めて重要な位置を占めていたのです。
この他にも、暁の女神ウシャス(Uṣas)、太陽神スーリヤ(Sūrya)、風神ヴァーユ(Vāyu)、アスヴィン双神(Aśvinau)など、自然の諸相や人間の営みを反映した多彩な神々が、『リグ・ヴェーダ』の宇宙を豊かに彩っています。これらの神々への賛歌を読むことは、古代の人々が世界をどのように感じ、解釈していたのか、その息遣いに触れる体験となるでしょう。
宇宙創造の深淵を覗く:リグ・ヴェーダの創世神話群
『リグ・ヴェーダ』は、神々への賛歌だけでなく、世界の始まり、宇宙の起源に関する深遠な問いと、それに対する多様なヴィジョンをも含んでいます。これらは主に後期に成立したとされる第10巻に集中しており、後のインド哲学、特にウパニシャッド哲学の思想的源流となる重要な萌芽が見られます。
創造への問い:古代人の抱いた根源的な疑問
「世界はどのようにして始まったのか?」「誰が、何が、この宇宙を創造したのか?」「人間はどこから来たのか?」――これらの問いは、人類が知性を持ち始めた頃から、常に抱き続けてきた根源的な疑問です。『リグ・ヴェーダ』の詩人たちもまた、この壮大な謎に挑み、神話的想像力と哲学的思索を駆使して、様々な創造の物語を紡ぎ出しました。それらは単一のドグマではなく、多様な解釈の可能性を秘めた、探求の軌跡そのものと言えるかもしれません。
ナーサディーヤ・スークタ(無の讃歌、RV X.129):深遠なる「始まり以前」の描写
この讃歌は、その哲学的深さと詩的美しさにおいて、世界中の思想家や詩人たちを魅了し続けてきました。冒頭の数行は、まさに言葉の限界に挑戦するかのような、驚くべき表現で始まります。
「そのとき、無(asat)も無く、有(sat)も無かった。
空界も無く、その向こうの天も無かった。
何が覆っていたのか? どこに? 誰の庇護のもとに?
そこに、深く測り難い水(ambhas)があったであろうか?」
(RV X.129.1 筆者訳)
この「無も有も無かった」という表現は、私たちの日常的な二元論的思考を超えた、絶対的な原初の状態を示唆しています。そこには、光も闇も、死も不死も存在しませんでした。しかし、完全な空虚ではなく、「唯一なるもの(タッド・エーカム Tat Ekam)」が、自己の内部に秘められた熱(タパス tapas)によって、風なく自ずから呼吸していたと詩人は語ります。
そして、この「唯一なるもの」の内に、最初の種子として「欲望(カーマ kāma)」が生じたとされます。このカーマは、単なる性的な欲望ではなく、存在への意志、創造への根源的な衝動として解釈されます。賢者たちは、このカーマのうちに「有と無の繋がり」を見出したと詩は続けます。
しかし、この讃歌の最も衝撃的な部分は、その結びにあります。
「誰が真実に知るであろうか? 誰がここで宣言するであろうか?
それがどこから生まれたのか? この創造はどこから来たのか?
神々さえも、この世界の創造の後である。
それならば、誰がそれがどこから現れたかを知るであろうか?この創造がどこから現れたのか、
それが創造されたのか、されなかったのか。
最高天にいます、その監視者(adhyakṣa)のみが、おそらくそれを知るであろう。
あるいは、彼も知らないのかもしれない。」
(RV X.129.6-7 筆者訳)
創造主とされる神々でさえ、創造の後に出現したのなら、真の起源を知ることはできない。そして、宇宙の最高監視者とされる存在でさえ、本当に知っているかどうかは分からない、というのです。これは、宇宙の究極的な起源に対する、驚くほど謙虚で、かつ徹底した不可知論的態度を示しています。このナーサディーヤ・スークタは、後のウパニシャッド哲学におけるブラフマン探求の原点ともなり、人間の知性の限界と、それを超えた神秘への畏敬の念を、私たちに強く印象づけます。
プルシャ・スークタ(原人プルシャの讃歌、RV X.90):宇宙的巨人の解体と万物の生成
ナーサディーヤ・スークタが抽象的・哲学的な創造論であるのに対し、プルシャ・スークタは、より具体的で神話的な宇宙創造のヴィジョンを提示します。「プルシャ(Puruṣa)」とは「人間」や「原人」を意味し、この讃歌では、千の頭、千の眼、千の足を持つ、宇宙全体を覆い尽くすほどの巨大な存在として描かれます。
この讃歌によれば、神々がこの原初のプルシャを犠牲として解体供犠(ヤジュニャ yajña)に付した結果、宇宙の万物が生み出されたとされます。
「(神々が)プルシャを分割したとき、いくつの部分に分けたであろうか?
彼の口は何であったか? 彼の両腕は何であったか?
彼の両腿、両足は何と呼ばれたであろうか?彼の口はバラモン(司祭階級)となった。
彼の両腕はラージャニヤ(武人・王侯階級)となった。
彼の両腿はヴァイシャ(庶民階級)となった。
彼(の足)からシュードラ(隷属階級)が生じた。」
(RV X.90.11-12 筆者訳)
このように、プルシャの口からは司祭階級(バラモン)、両腕からは武人・王侯階級(ラージャニヤ、後のクシャトリヤ)、両腿からは庶民階級(ヴァイシャ)、そして両足からは隷属階級(シュードラ)という、インドのヴァルナ制度(四姓制度)の起源が説明されます。この部分は、社会秩序を神話的に正当化するイデオロギーとして機能したという解釈も可能ですが、同時に、宇宙全体が一つの生命体(プルシャ)であり、その各部分が相互に関連し合って全体を構成しているという、壮大な有機的宇宙観を提示しているとも言えるでしょう。
さらに、プルシャの心からは月が、眼からは太陽が、口からはインドラとアグニが、呼吸からは風(ヴァーユ)が生まれ、臍からは空界が、頭からは天界が、両足からは大地が、耳からは方角が生じたと語られます。ヴェーダ聖典自体も、このプルシャの犠牲から生まれたとされています。このプルシャ・スークタは、宇宙と人間、そして社会が、一つの聖なる犠牲を通じて結びついているという、ヴェーダ思想の重要なテーマを力強く表現しています。
ヒラニヤガルバ・スークタ(黄金の胎児の讃歌、RV X.121):唯一なる創造主への問い
この讃歌は、「カ(ka)なる神に、我々は供物を捧げるべきか?」というリフレインが印象的な詩です。「カ」とは「誰」を意味する疑問詞であり、特定の神格を指すのではなく、唯一にして至高の創造主、生命の源であり、宇宙の支柱である「黄金の胎児(ヒラニヤガルバ Hiraṇyagarbha)」への問いかけとなっています。この讃歌には、後のブラフマー神(創造神)や、唯一絶対の神格への信仰へと繋がるような、一神教的な傾向の萌芽が見られるとも指摘されています。
これらの創造讃歌は、それぞれ異なるアプローチを取りながらも、宇宙の起源という壮大なテーマに対する古代インド人の深い関心と、その探求の多様性を示しています。彼らは、単一の答えに安住することなく、様々な角度からこの謎に光を当てようと試みたのです。
リグ・ヴェーダの響きが現代に伝えるもの
『リグ・ヴェーダ』は、単なる古代の宗教文献にとどまらず、人類の知的・精神的遺産の宝庫として、現代に生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。
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言葉の力(ヴァーチ Vāc)への信仰:
『リグ・ヴェーダ』において、言葉は単なるコミュニケーションの道具ではなく、創造的な力を持つ聖なる存在(ヴァーチ女神)として神格化されていました。マントラの正確な詠唱は、宇宙の秩序を維持し、神々を動かす力を持つと信じられていました。この「言葉の力」への信仰は、後のマントラ・ヨーガや、言葉の真理性を追求するインドの言語哲学へと繋がっていきます。現代社会において、言葉が軽んじられ、誤解や対立を生むことも少なくない中で、言葉の持つ本来の重みと創造性について再考させられます。 -
自然との一体感:
『リグ・ヴェーダ』の神々は、その多くが自然現象や自然力の人格化であり、古代の人々が自然に対して抱いていた畏敬の念と、自然との深いつながりを示しています。環境破壊が進み、人間が自然を支配の対象と見なしがちな現代において、自然を聖なるものとして捉え、それと共生しようとした古代の叡智は、エコ・フィロソフィーの先駆けとして、私たちに重要な視点を提供してくれるでしょう。 -
人間存在の根源への問いかけ:
「我々は何者か」「どこから来て、どこへ行くのか」「宇宙の真理とは何か」。これらの問いは、『リグ・ヴェーダ』、特に後期の哲学的讃歌において繰り返し探求されています。それは、人間が抱く普遍的な問いであり、哲学の夜明けを告げる響きとも言えるでしょう。 -
神話の多義性:
『リグ・ヴェーダ』の神話や物語は、一つの固定的な解釈に収斂されるものではありません。それは豊かな象徴性に満ち、時代や文化を超えて、新たな意味や解釈を生み出し続ける力を持っています。テクストとの対話を通じて、私たち自身の内なる声に耳を澄ませることを促してくれるのです。 -
リグ・ヴェーダからウパニシャッドへ:
『リグ・ヴェーダ』に見られる宇宙の根源への問い、唯一なる実在への希求、そして自己の内面への眼差しは、後のウパニシャッド哲学において、さらに深く、体系的に探求されることになります。『リグ・ヴェーダ』は、インド哲学の壮大な旅路の出発点であり、その後の思想展開を理解するための不可欠な鍵となるのです。
おわりに:リグ・ヴェーダという鏡に映る私たち
『リグ・ヴェーダ』を読むという行為は、数千年の時を超えて、古代の詩人たちの息吹に触れ、彼らが抱いた宇宙への驚嘆と、人間存在の神秘への問いを追体験することに他なりません。それは、あたかも古い鏡を覗き込むように、現代社会の喧騒の中で見失いがちな、私たち自身の根源的な姿や、宇宙との繋がりを映し出してくれるかもしれません。
古代の叡智は、決して過去の遺物ではなく、現代社会が抱える課題に対して、新たな視座や解決のヒントを与えてくれる生きた知恵の泉です。『リグ・ヴェーダ』の世界を探求することは、自己と宇宙の関係性を再構築し、より豊かで意味のある人生を歩むための一助となるでしょう。
この探求の旅は、これで終わりではありません。『リグ・ヴェーダ』の深淵は、まだまだ多くの秘密と叡智を秘めており、私たちをさらなる探求へと誘い続けます。どうぞ、ご自身の心と知性をもって、この声の宇宙の奥深くへと分け入っていってください。そこに、あなただけの発見と、魂を揺さぶるような感動が待っていることを、心より願っております。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


