バガヴァッド・ギーターの旅は、私たちを人生の戦場から、自己の内なる深淵へと誘います。第六部「アートマ・サンヤマ・ヨーガ」、すなわち「自己制御のヨーガ」は、その旅路において極めて重要な灯台の役割を果たします。特にこの章で詳述される「瞑想(ディヤーナ)」の教えは、心の喧騒を鎮め、私たちの本質である「真我(アートマン)」との繋がりを回復するための、古来より伝わる叡智の核心に触れるものです。
現代社会において、「瞑想」という言葉はかつてないほど身近なものとなりました。ストレスの多い日常から一時的に離れ、心の安らぎを求める手段として、あるいは集中力を高め、創造性を開花させるためのツールとして、その効果が科学的にも注目されています。しかし、バガヴァッド・ギーターやヨーガ・スートラが説く瞑想は、単なるリラクゼーション技法や能力開発の手段に留まるものではありません。それは、自己の本質を見つめ、輪廻の軛(くびき)から解き放たれ、永遠の至福に至るための、深遠かつ実践的な精神の修練なのであります。
本稿では、バガヴァッド・ギーターにおける瞑想の教えを丁寧に紐解きながら、それがどのようにして私たちの心を静め、真我との繋がりを明らかにするのかを探求します。そして、ヨーガ哲学のもう一つの柱であるパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』との深い関連性に光を当て、両者が示す瞑想の道が、どのように私たちの精神的成長と解放に貢献するのかを考察してまいりましょう。
もくじ.
瞑想とは何か:言葉の海を渡り、心の深淵へ
まず、「瞑想」という言葉そのものが持つ意味合いを深く理解することから始めましょう。サンスクリット語で瞑想は「ディヤーナ(ध्यान, dhyāna)」と呼ばれます。この言葉は、「熟考する」「思いを巡らす」といった意味を持つ動詞の語根「ディヤイ(dhyai)」に由来し、単にぼんやりと座っている状態を指すのではありません。むしろ、意識を特定の対象に継続的に集中させ、その本質を深く洞察しようとする、能動的で知的な心の働きを意味しています。
世の中には様々な瞑想法が存在します。呼吸に意識を集中するもの、マントラ(真言)を唱えるもの、特定のイメージを観想するもの、あるいは身体感覚を注意深く観察するものなど、そのアプローチは多岐にわたります。しかし、これらの多様な形態の根底には、共通する核心的な要素が見出せます。それは、絶え間なく移り変わる思考や感情の波から距離を置き、意識の焦点を定め、自己の内なる静寂の空間へと深く沈潜していく試みです。
バガヴァッド・ギーターが示す瞑想は、まさにこの積極的な心の修練であり、自己の本質を探求する旅路そのものです。それは、外界の刺激や内面の葛藤から一時的に離れ、自らの存在の根源に触れるための聖なる時間です。クリシュナ神は、戦意を喪失し苦悩するアルジュナに対し、この瞑想の道を示すことで、彼が直面する困難の奥にある普遍的な真理へと導こうとします。それは、行為(カルマ)の喧騒から自由になり、内なる神聖さに目覚めるための道程に他なりません。
バガヴァッド・ギーターにおける瞑想の教え:戦場での静寂、内なる神との対話
バガヴァッド・ギーター第六章において、クリシュナは瞑想を実践するための具体的な方法論を、アルジュナに懇切丁寧に説き示します。その教えは、数千年の時を超えて、現代の私たちにも深い示唆を与えてくれます。
まず、瞑想に適した環境についてクリシュナは語ります。「清浄な場所に、あまり高くなく、低すぎもしない、自分の座をしっかりと設けるべきである。それはクシャ草、鹿皮、そして布を順に敷いたものである」(6章11節)。この教えは、瞑想が単なる精神活動ではなく、身体的な環境も重要であることを示唆しています。心と身体は不可分であり、安定した身体的基盤があってこそ、心の集中も深まるのです。現代的に解釈すれば、静かで、清潔で、自分が落ち着ける場所を選ぶことの重要性と言えるでしょう。
次に、坐法と姿勢です。「そこで心を一点に集中し、感覚と思考の働きを制御し、座に坐って、自己の浄化のためにヨーガを修すべきである。身体、頭、首をまっすぐに、動かずに保ち、堅固に坐り、自分の鼻先に視線を定め、他のどこにも目を向けてはならない」(6章12-13節)。背筋を伸ばし、安定した姿勢を保つことは、エネルギーの流れを整え、心の散漫さを防ぐために不可欠です。鼻先に視線を定めるという指示は、外界への注意を遮断し、意識を内側に向けるための具体的な技法です。これは、感覚器官の制御(プラティヤハーラ)の第一歩とも言えます。
そして、心の持ち方です。「心安らかに、恐れなく、ブラフマチャリヤ(梵行)の誓いを堅く守り、心を制御し、思考をわたし(クリシュナ)に向け、わたしを最高の目標として専心して坐るべきである」(6章14節)。「ブラフマチャリヤ」とは、一般的に禁欲と訳されますが、ここではより広義に、感覚的な欲望を制御し、エネルギーを精神的な探求に向ける自己規律と解釈できます。そして最も重要なのは、心をクリシュナ、すなわち至高なる実在、宇宙の根源意識に向けることです。瞑想の対象を明確に定めることで、心は彷徨うことなく、一点に集中しやすくなります。
このような瞑想の実践を通して、「常にこのように自己をヨーガに結びつけ、心を制御したヨーギーは、わたしに存する、ニルヴァーナ(涅槃)を究極とする平安に達する」(6章15節)とクリシュナは説きます。瞑想の目的は、絶え間なく揺れ動く心の働き(チッタ・ヴリッティ)を鎮め、真我(アートマン)に心を確立すること。それによって得られるのは、相対的な幸福ではなく、絶対的な平安、すなわち解脱(モークシャ)の境地です。
しかし、アルジュナは私たち現代人の多くが抱えるであろう疑問を率直にクリシュナにぶつけます。「おお、マドゥスーダナ(クリシュナ)よ、あなたが説かれたこの(心の)平等性によるヨーガを、私は(心の)動揺性のゆえに、永続するものとは見なしません。おお、クリシュナよ、心は実に動揺しやすく、激しく、強力で、頑固です。それを制御することは、風を制御するのと同じくらい困難であると、私は考えます」(6章33-34節)。このアルジュナの言葉は、瞑想を試みたことのある人ならば誰しも共感するのではないでしょうか。私たちの心は、まるで荒馬のように奔放で、制御することは至難の業に思えます。
これに対し、クリシュナは絶望することなく、実践的な道を指し示します。「おお、マハーバーホー(強大な腕を持つ者よ、アルジュナ)、疑いなく、心は制御し難く、動揺しやすい。しかし、おお、クンティーの子よ、それは不屈の努力(アビヤーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)によって把握される」(6章35節)。ここに、心の制御という難題に対する、ヨーガ哲学の核心的な答えがあります。「アビヤーサ」とは、繰り返し行う修練、たゆまぬ努力のこと。そして「ヴァイラーギャ」とは、世俗的な欲望や執着から離れること、無執着の精神です。この二つを車の両輪とすることで、初めて心の制御が可能になるのだと、クリシュナは力強く断言します。
真我(アートマン)と繋がるということ:内なる灯火、永遠の輝き
バガヴァッド・ギーターやウパニシャッド哲学が繰り返し説く「真我(アートマン)」とは、一体何なのでしょうか。それは、私たちの肉体や感覚、思考や感情といった、常に変化し移りゆく現象的な自己(ジーヴァ)とは異なる、不滅で、永遠で、純粋な意識の本質です。ヴェーダーンタ哲学の核心には、「アハン・ブラフマースミ(我はブラフマンなり)」「タット・トヴァム・アシ(汝はそれなり)」といったマハーヴァーキヤ(大いなる言葉)があり、個々のアートマンが宇宙の究極的実在であるブラフマンと本質的に同一であることを示しています。
瞑想は、この真我に気づき、それと一体となるための道です。日常生活において、私たちは自己を肉体や心、社会的役割や所有物と同一視しがちです。しかし、これらは全て一時的で、変化するものです。瞑想を通して、私たちはこれらの表面的な自己同一化の層を一枚一枚剥がしていくように、自己のより深い本質へと分け入っていきます。思考や感情が静まり、心の湖面が波立たなくなるとき、その底に眠る真我の光が、おぼろげながらも見え始めるのです。
クリシュナは、ヨーガによって心が完全に制御され、アートマンのうちに安らぐ境地を、「風のない場所に置かれた灯火が揺るがないように」(6章19節)と描写しています。このような心の状態において、ヨーギーは「アートマンによってアートマンのうちに満足する」(6章20節)と言われます。それは、外的なものに依存しない、内発的な喜びと充足感に満たされた境地です。
真我との繋がりが深まるにつれて、私たちは苦悩の本質的な原因である無知(アヴィディヤー)と、それに伴う執着や嫌悪から解放されていきます。生と死のサイクル、喜びと悲しみの波を超えた、永遠の至福(アーナンダ)がそこにはあります。自己の同一性が、限定された個としての「私」から、宇宙的な広がりを持つ普遍的な「私」へと変容していくのです。これは、自己という小さな殻を破り、無限の大海に溶け込むような、壮大な意識の拡大体験と言えるでしょう。
ヨーガ・スートラとの共鳴:心の科学の体系、八支の道
バガヴァッド・ギーターが詩的かつ哲学的な対話を通して瞑想の道を照らし出すのに対し、聖仙パタンジャリによって編纂された『ヨーガ・スートラ』は、ヨーガの理論と実践を体系的かつ科学的に解説した、まさに「心の科学の教科書」と呼ぶべき経典です。両者は異なる時代背景と表現形式を持ちながらも、その核心において深く共鳴し合っています。
『ヨーガ・スートラ』は、ヨーガを「チッタ・ヴリッティ・ニローダハ(चित्तवृत्तिनिरोधः, citta-vṛtti-nirodhaḥ)」(1章2節)、すなわち「心の作用(働き、様態)の止滅」と定義します。この心の作用を制御し、最終的に止滅させるための実践的なステップとして、有名な「アシュターンガ・ヨーガ(अष्टाङ्गयोग, aṣṭāṅgayoga)」すなわち「八支則」が提示されます。それは、ヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)、アーサナ(坐法)、プラーナーヤーマ(調息)、プラティヤハーラ(制感)、ダーラナー(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(三昧)という八つの段階から構成されています。
この八支則において、「ディヤーナ(瞑想)」は第七番目の段階として位置づけられています。それは、第六段階である「ダーラナー(集中)」、すなわち意識を一つの対象に意図的に留める状態が、より自然に、途切れることなく持続する状態を指します。そして、ディヤーナが深まり、瞑想者と瞑想対象、そして瞑想行為そのものの区別が消え、対象と完全に一体化する境地が、最終段階である「サマーディ(三昧)」です。このダーラナー、ディヤーナ、サマーディの三つを合わせて「サンヤマ(संयम, saṃyama)」(綜制)と呼び、これによって対象の本質が完全に明らかになるとされています。
バガヴァッド・ギーターにおける瞑想の教えは、このヨーガ・スートラの八支則と多くの点で響き合っています。
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アーサナ(坐法): ギーターの6章11-13節で説かれる、安定した快適な坐法は、ヨーガ・スートラが「スティラ・スカム・アーサナム(स्थिरसुखमासनम्, sthirasukhamāsanam)」(2章46節)、すなわち「安定して快適なものが坐法である」と定義するアーサナの概念と一致します。身体的な安定が心の安定に不可欠であるという認識は共通です。
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プラーナーヤーマ(調息): ギーターでは、プラーナーヤーマの具体的な技法については詳細に触れられていませんが、6章10節で「孤独な場所に住み、常に自己をヨーガに結びつけ、思考と自己を制御し、欲望なく、所有欲なく」とあるように、心の制御と密接に関連する呼吸の調和は、瞑想の前提として暗に示唆されていると言えるでしょう。ヨーガ・スートラでは、プラーナーヤーマは心のヴェールを取り除く手段として明確に位置づけられています(2章52節)。
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プラティヤハーラ(制感): ギーター6章24-25節では、「欲望から生じる全ての願望を完全に放棄し、心によって感覚の集まりをあらゆる方面から完全に制御し、知性によって堅固に保持された心によって、徐々に静止に達すべきである。心をアートマンのうちに確立し、何も考えてはならない」と説かれています。これは、感覚器官が外界の対象に向かうのを引き戻し、意識を内面に向けるプラティヤハーラ(2章54節)の実践そのものです。
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ダーラナー(集中): ギーター6章13節の「鼻先に視線を定め」や、6章14節の「思考をわたし(クリシュナ)に向け」という教えは、意識を特定の対象に集中させるダーラナー(3章1節)の段階に相当します。一つの対象に心を留める訓練が、ディヤーナ(瞑想)へと繋がっていくのです。
このように、バガヴァッド・ギーターとヨーガ・スートラは、表現方法や強調点に違いはあれど、心の働きを鎮め、真我を認識し、最終的には解脱に至るというヨーガの究極目標と、そのための瞑想を中心とした実践体系において、深いレベルで一致していることがわかります。ギーターが信仰(バクティ)の要素を前面に出しながらも行為(カルマ)と知識(ギャーナ)のヨーガを統合するのに対し、スートラはより分析的かつ心理学的なアプローチを取りますが、両者は互いに補完し合い、ヨーガの全体像をより豊かに描き出していると言えるでしょう。
現代における瞑想の実践と意義:心のオアシスを築き、本質に還る旅
情報が洪水のように押し寄せ、絶え間ない刺激と変化に晒される現代社会において、私たちの心は疲弊し、本来の静けさを見失いがちです。このような時代だからこそ、バガヴァッド・ギーターやヨーガ・スートラが説く瞑想の智慧は、かつてないほどの重要性を持っています。
瞑想の実践は、現代科学によってもその様々な効果が確認されています。ストレスホルモンの低減、血圧の安定、免疫機能の向上、集中力や記憶力の改善、感情コントロール能力の向上など、心身両面にわたる恩恵が報告されています。これらは確かに素晴らしい効果であり、瞑想を始める動機として十分なものです。しかし、ヨーガ哲学の観点から見れば、これらの効果はあくまで副次的な産物、旅の途中で手に入る美しい花のようなものに過ぎません。瞑想の真の目的は、これらの現象的な利益を超えた、自己の本質の認識、すなわち真我の実現と、それによる永遠の自由と至福の獲得にあります。
日常の中で瞑想を実践することは、決して難しいことではありません。ギーターが示すように、静かな場所を選び、快適な姿勢で坐り、まずは数分間、自分の呼吸に意識を向けることから始めてみましょう。思考が浮かんできても、それを追いかけたり、判断したりせず、ただ静かに観察し、再び呼吸に意識を戻す。このシンプルな繰り返しが、心の筋肉を鍛え、内なる静寂の空間を少しずつ広げていきます。
ここで一つ、私たちが陥りがちな誤解を解いておく必要があります。瞑想は、現実から逃避するための手段ではありません。むしろ、瞑想を通して養われる心の強さ、洞察力、そして内なる平安は、私たちが日々の現実により効果的に、そしてより慈愛深く向き合うための力を与えてくれます。自己という存在を、限定された個人の枠組みから解き放ち、より大きな生命の流れ、宇宙的な文脈の中で捉え直す視点を与えてくれるのです。それは、自己中心的な視点から脱却し、他者や世界との一体感を育むための、静かな革命とも言えるでしょう。
結論:静寂の彼方へ、永遠の呼び声に導かれて
バガヴァッド・ギーターの第六部「アートマ・サンヤマ・ヨーガ」が示す瞑想の道、そしてヨーガ・スートラが体系化した心の科学は、数千年の時を超えて、私たちに普遍的な智慧を語りかけています。それは、心の動揺を鎮め、私たちの本質である真我と深く繋がり、真の自由と幸福に至るための、確かな道しるべです。
アルジュナが戦場でクリシュナの教えに耳を傾けたように、私たちもまた、日々の喧騒の中で、内なる声に耳を澄ませる時間を持つことが大切です。瞑想は、そのための最も強力で、最も身近な手段の一つです。それは、特別な才能や道具を必要とせず、ただ静かに坐り、自己の内面と向き合う意志さえあれば、誰にでも開かれている道なのです。
この章で学んだ瞑想の教えを心の糧とし、バガヴァッド・ギーターが示すさらなる深遠な真理へと、共に歩みを進めてまいりましょう。内なる静寂の彼方には、私たちが探し求めてきた永遠の安らぎと、無限の可能性が広がっているのですから。その呼び声に導かれ、自己探求の旅を続ける勇気を持ち続けたいものです。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。





