バガヴァッド・ギーターが私たちに指し示す道は、単なる宗教的教義や哲学理論の枠を超え、日々の生活の中で実践可能な、生きた智慧の宝庫であります。とりわけ第三部に詳説されるカルマヨガ、すなわち「行為のヨガ」は、現代社会を生きる私たちにとって、極めて重要な示唆に富んでいます。このカルマヨガの核心とも言える概念が、「放棄(サンニャーサあるいはティヤーガ)」です。しかし、ギーターが説く「放棄」は、一般的に想起されるような、世俗を捨て、活動を一切停止するといった物理的な放棄とは趣を異にするものです。むしろ、ギーターはアルジュナに対し、戦士としての義務(ダルマ)を遂行するよう強く促します。では、ギーターにおける「真の放棄」とは一体何を意味し、それがどのようにして私たちを「心の自由」へと導くのでしょうか。この深遠な問いに対し、ギーターの言葉に耳を傾けながら、丁寧に考察を深めてまいりましょう。
もくじ.
「放棄」という言葉の多層性:誤解されやすい概念の再定義
まず、「放棄」という言葉が持つ多義性について理解を深めることが肝要です。インドの伝統において、「サンニャーサ」という言葉は、しばしば出家遊行者、すなわち家庭や社会的責任を完全に捨て、解脱のみを求めて修行する生き方を指してきました。彼らは特定の衣服をまとい、所有物を最小限にし、托鉢によって生計を立てる。このような外的な放棄の姿は、解脱への道として古くから尊重されてきました。
しかし、バガヴァッド・ギーターは、この伝統的なサンニャーサ観に対し、新たな光を当てます。ギーターの舞台はクルクシェートラの戦場であり、主人公アルジュナは、親族や師と戦わねばならないという過酷な現実に直面し、戦意を喪失し、武器を捨ててしまいます。これはある意味で、行為の放棄、戦士としてのダルマの放棄と言えるでしょう。クリシュナは、このアルジュナの混乱と絶望に対し、行為そのものを放棄するのではなく、行為に対する内的な態度、とりわけ「執着」を放棄することこそが真の道であると説きます。
ギーター第十八章第二節において、クリシュナはティヤーガ(放棄)とサンニャーサ(行為の放棄)について明確に区別して語ります。「賢者たちは、欲望から生じる行為を放棄することをサンニャーサと呼び、すべての行為の結果に対する執着を放棄することをティヤーガと呼ぶ」と。ここでのティヤーガこそが、ギーターが推奨する「真の放棄」の本質であり、それは行為の結果に対する期待や欲望、そして「私が行為している」という行為者意識(カルタ・バーヴァ)を手放すことを意味するのです。
なぜ「執着」が問題なのか:心の不自由の根源
では、なぜギーターはこれほどまでに「執着(サンガあるいはアーサクティ)」を手放すことを強調するのでしょうか。それは、執着こそが私たちの心を縛り付け、苦しみを生み出す根源であると見抜いているからです。
私たちは日々の生活において、様々な行為を行います。仕事、家庭、人間関係、趣味活動など、その種類は多岐にわたります。そして、多くの場合、私たちはそれらの行為の結果に対して何らかの期待を抱きます。仕事であれば成功や昇進、人間関係であれば相手からの好意や承認、趣味であれば上達や満足感などです。この期待そのものが悪いわけではありません。しかし、その期待が過度になり、「こうでなければならない」「こうなってほしい」という強い渇望、すなわち執着へと変わるとき、私たちの心は揺れ動き始めます。
期待通りにいけば一時的な喜びを得るかもしれませんが、期待が裏切られれば、失望、怒り、悲しみ、嫉妬といったネガティブな感情に苛まれます。成功しても、それを失うことへの恐れや、さらなる成功への渇望が生まれ、心の平安は訪れません。つまり、結果への執着は、私たちを感情のジェットコースターに乗せ、常に不安定な状態に置き、心の自由を奪ってしまうのです。
さらに、執着は「私」という自我意識(アハンカーラ)を強化します。「私がこれだけの努力をしたのだから、この結果を得るべきだ」「私の手柄だ」といった思いは、他者との比較や競争心を生み出し、分離感や対立を深めます。この強固な自我意識こそが、真の自己(アートマン)の光を覆い隠し、輪廻のサイクルに私たちを縛り付ける要因の一つとされています。
結果への執着を手放す:ダルマに生きる勇気
ギーターが示す執着からの解放の第一歩は、「行為の結果に対する執着を手放すこと」です。クリシュナは第二章四十七節で、カルマヨガの神髄とも言える有名な言葉をアルジュナに伝えます。「汝の権利は行為そのものにあり、決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはならない。また、無為に執着してもならない」。
これは、行為の成果や報酬を一切気にするな、という意味ではありません。むしろ、行為を行う際の動機を、結果への期待から切り離し、その行為自体が持つべき本来の意義、すなわち「ダルマ(義務、本質、宇宙的秩序)」に置くことを教えています。学生であれば学ぶことがダルマであり、教師であれば教えることがダルマ、そして戦場に立つアルジュナにとっては、クシャトリヤ(戦士階級)としてのダルマを全うすることが求められます。
自分のダルマに集中し、見返りを期待せずに行為を行うとき、心は結果の変動に一喜一憂することなく、平静を保つことができます。成功しようが失敗しようが、それは神の采配、あるいは宇宙の法則に委ねる。このような態度は、一見すると無責任に聞こえるかもしれませんが、実は深い信頼と勇気の上に成り立つものです。私たちはコントロールできない未来の結果に心を奪われるのではなく、今この瞬間、自分に与えられた役割を誠実に、心を込めて果たすことに全力を注ぐ。そこにこそ、行為のヨガの真髄があるのです。
この「結果への不執着」は、現代社会においても極めて実践的な智慧です。例えば、仕事において、私たちはしばしば成果主義や競争に晒されます。しかし、結果ばかりを追い求めていると、プロセスを楽しむことを忘れ、プレッシャーやストレスに押しつぶされかねません。ギーターの教えは、結果を完全に無視するのではなく、最善を尽くした後は、その結果をあるがままに受け入れる心の強さを持つことを教えてくれます。それは、諦めとは異なり、内なる静けさを保ちながら、次の一歩を踏み出すためのエネルギーを与えてくれるでしょう。
「私が行為する」という意識の変容:真の行為者は誰か
結果への執着を手放すことと並んで重要なのが、「行為者意識(カルタ・バーヴァ)」、すなわち「私が行為している」という思い込みを手放すことです。私たちは通常、自分の意志で考え、判断し、行動していると信じています。しかし、ギーターは、この「私がやっている」という感覚こそが、執着を生み、私たちを束縛する大きな要因であると指摘します。
ギーターの思想的背景には、サーンキヤ哲学の影響が見られます。サーンキヤ哲学では、宇宙の根本原理として、純粋意識であるプルシャ(真我)と、物質的・現象的なエネルギーであるプラクリティ(自性)を想定します。プラクリティは、サットヴァ(純粋性、調和)、ラジャス(活動性、激情)、タマス(暗黒性、惰性)という三つのグナ(属性、様態)から構成され、私たちの心身の働きや外界の現象は、すべてこの三つのグナの相互作用によって生じると考えられます。
私たちの行為もまた、この三つのグナの影響下にあるとギーターは説きます。第三章二十七節には、「プラクリティのグナによって、あらゆる行為は行われる。しかし、自我意識に惑わされた魂は、『私が行為者である』と思い込む」とあります。つまり、私たちが行っていると感じる行為は、実はプラクリティのグナの力によって動かされており、真の自己であるアートマン(プルシャに相当)は、それらの行為に直接関与しない、純粋な観照者であるというのです。
この教えは、私たちの自己認識に大きな転換を迫るものです。「私が行為者ではない」とすれば、行為の責任はどうなるのか、という疑問も生じるでしょう。しかしギーターは、行為の責任を放棄することを勧めているわけではありません。むしろ、自我意識から発する利己的な動機や結果への執着を離れ、より大きな視点、例えば神への奉仕として、あるいは宇宙のダルマの一部として行為を行うことを促します。
行為者意識を手放すとは、自分自身を道具として捉え、より高次の力(神、宇宙の意志、ダルマなど)が自分を通して働いているのだと認識することです。このような意識の変容は、行為に伴う個人的なプライドや罪悪感、過度の責任感から私たちを解放し、心を軽やかにします。それは、あたかも川の流れに身を任せるように、自然な流れの中で、為すべきことを為していくという、しなやかで力強い生き方へと繋がるのです。
真の放棄がもたらす心の自由:サマドヴァ(心の平静)とブラフマニルヴァーナ(梵涅槃)
では、このように結果への執着と行為者意識を手放した「真の放棄」は、私たちに何をもたらすのでしょうか。ギーターは、それが究極的な「心の自由(モークシャ、ムクティ)」、そして「心の平静(サマドヴァ、シャーンティ)」であると明言します。
執着から解放された心は、もはや外界の状況や出来事に振り回されることがありません。成功に有頂天になることも、失敗に打ちひしがれることもなく、常に内的な安定と調和を保つことができます。これは、第二章四十八節で「ヨーガとは心の平静(サマドヴァ)である」と説かれている境地そのものです。苦楽、損得、勝敗といった二元的な対立を超越し、あらゆる状況を平静な心で受け止める。この不動の心の状態こそ、真の放棄が生み出す貴重な果実なのです。
さらに、ギーターは、このような生き方を実践する者が到達する境地として、「ブラフマニルヴァーナ(梵涅槃)」という言葉を用います(第五章二十四、二十五節など)。これは、ブラフマン(宇宙の根本実在、至高の意識)との合一によって得られる、完全な解放と至福の状態を指します。行為を行いながらも、その行為や結果に束縛されず、常に内なる真我(アートマン)とブラフマンの同一性を認識している状態です。
この心の自由は、単なる消極的な無感動や無関心とは異なります。むしろ、執着というフィルターが取り除かれることで、世界をより明確に、ありのままに捉えることができるようになります。自己中心的な欲望から解放されることで、他者への深い共感や慈悲の心が自然に湧き起こり、真に利他的な行為が可能となるのです。それは、個人的なエゴの束縛から解き放たれ、宇宙的な意識と調和して生きる、広大で豊かな心の境地と言えるでしょう。
真の放棄の実践:日常生活におけるギーターの智慧
バガヴァッド・ギーターが説く「真の放棄」は、決して山に籠もる修行者だけのものではありません。それは、日々の生活の中で、仕事や家庭、人間関係といった具体的な場面において実践されてこそ、その真価を発揮します。
例えば、仕事においてプレゼンテーションを任されたとしましょう。結果への執着があれば、「失敗したらどうしよう」「評価されなかったら…」といった不安に苛まれ、本来の力を発揮できないかもしれません。しかし、ギーターの教えに従い、「自分のダルマは最善の準備をして誠実に伝えることだ。結果は天に任せよう」と心に定めるならば、余計なプレッシャーから解放され、落ち着いて取り組むことができるでしょう。
人間関係においても同様です。相手に何かを期待しすぎると、その期待が裏切られたときに深く傷つきます。しかし、「相手の反応は相手のものであり、私がコントロールできるものではない。私はただ、誠実に、思いやりを持って接しよう」と考えるならば、関係性はより健全で自由なものになるはずです。
「私が行為している」という意識を手放すことも、日々の小さな実践から始めることができます。例えば、料理をするとき、美味しい料理を作ろうという結果への期待や、「私が作っている」という自負を手放し、ただ食材と向き合い、調理という行為そのものに集中する。あるいは、掃除をするとき、部屋を綺麗にしたいという結果だけでなく、掃除という行為を通して、空間と自分自身を浄化しているのだと感じる。このように、日常のあらゆる行為を、執着を手放す訓練の場と捉えることができるのです。
瞑想やマインドフルネスの実践も、この「真の放棄」の感覚を養う上で非常に有効です。呼吸に意識を集中し、次々と湧き起こる思考や感情を、ただ観察し、手放していく。このプロセスは、結果への期待や行為者意識から距離を置き、内なる静けさと繋がるための訓練となります。
結論:行為の只中に見出す、揺るぎない心の自由
バガヴァッド・ギーターが示す「真の放棄」の道は、行為を否定するのではなく、行為に対する私たちの内的な態度を根本から変革することを目指します。それは、物理的な所有物や社会的地位を捨てること以上に困難な、心の執着を手放すという、内なる革命です。
結果への期待や「私がやっている」という自我意識から解放されたとき、私たちの行為は、苦しみを生み出す束縛ではなく、自己成長と世界への貢献のための自由な表現となります。日々の生活のあらゆる場面が、ダルマを実践し、心を浄化し、真我の光を輝かせるための神聖な機会となるのです。
この道は、決して平坦なものではありません。長年培ってきた心の習慣を変えるには、不断の努力と気づき、そして何よりもクリシュナがアルジュナに示したような、普遍的な智慧への深い信頼が必要です。しかし、その先に待つのは、どんな状況にも揺らぐことのない心の平静と、何ものにも代えがたい「心の自由」です。バガヴァッド・ギーターは、その壮大な魂の旅路において、時代を超えて私たちを導き続ける、永遠の灯台と言えるでしょう。この深遠な教えを胸に、私たち一人ひとりが、日々の行為を通して、真の放棄を実践し、心の自由へと歩みを進めることができますよう、心から願っております。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。





