私たちは、物心ついた時から「何かをすること(Doing)」によって自らの価値を証明するよう、静かに、しかし絶え間なく促される社会に生きています。より良い成績を取ること、より高い地位に就くこと、より多くの富を築くこと。ToDoリストを一つずつ消していく達成感に酔いしれ、常に次の目標へと駆り立てられる。まるで、止まったら負けだとでもいうかのように、私たちは走り続けています。この絶え間ない「行為」の連鎖の中に、果たして本当の安らぎや充足はあるのでしょうか。
ヨガの叡智は、この現代的な価値観に、静かなカウンターを提示します。それは、「何をするか」以上に、「いかに在るか(Being)」が重要であるという、根源的な視点の転換です。あなたの価値は、達成したことのリストの長さで測られるのではなく、今この瞬間の、あなたの心の状態そのものによって輝くのだと。
この「在り方」を重視する思想は、カルマヨガの教えに最も深く現れています。カルマヨガとは、一般的に「行為のヨガ」と訳されますが、その本質は、行為の結果に対する執着を一切手放し、行為そのものに全神経を集中させる実践です。例えば、誰かのために食事を作るという行為があったとします。「美味しくできたか」「感謝されるだろうか」といった結果への期待や不安は、すべて手放す。ただ、野菜を切る感触、立ち上る香り、調理の音、そのプロセスの一つ一つに心を込めて、丁寧に関わる。その時のあなたの「在り方」が、穏やかで、愛に満ちていれば、その行為はすでに完成されたヨガなのです。結果がどうであれ、その行為を通してあなたの内なる世界は調和し、その波動は静かに周囲へと広がっていきます。
日本の禅の思想家、道元が説いた「只管打坐(しかんたざ)」もまた、このDoingからBeingへのシフトを雄弁に物語っています。「ただ、ひたすらに座る」。そこには、「悟りを得るために」とか「心を静めるために」といった目的、つまり未来への期待(Doing)が存在しません。座ること自体が目的であり、座ること自体が悟りの顕現(Being)である、と彼は説きました。この思想は、私たちの日常生活のあらゆる場面に応用できます。皿を洗うという行為を、「汚れたものをきれいにする」というタスク(Doing)としてではなく、「皿を洗うという今この瞬間の体験(Being)」として捉え直す。水の冷たさ、洗剤の泡、陶器の滑らかな感触。そこに完全に没入する時、単調な家事労働は、瞑想的な実践へと昇華されるのです。
このような在り方への転換は、一見すると、努力を放棄する怠惰な態度のように思えるかもしれません。しかし、これはむしろ、より高度な稽古であると言えます。なぜなら、私たちは無意識のうちに「Doing」の引力に強く囚われているからです。その引力から自由になり、意識的に「Being」へと舵を切るには、繊細な自己観察と勇気が必要です。
武道における「型」の稽古は、このプロセスを見事に体現しています。初心者はまず、師の動きを正確に模倣すること(Doing)から始めます。その段階では、動きはぎこちなく、意味もよく分かりません。しかし、何千回、何万回と反復するうちに、その「型」が身体に染み込み、意識せずとも自然に動けるようになります。その時、修行者の意識は「正しく動くこと」から解放され、相手との間合いや呼吸、その場の気配といった、より微細な次元(Being)へと開かれていくのです。行為の反復(Doing)を通して、身体が変容し、それに伴って心の在り方(Being)が調えられていく。ヨガのアーサナも全く同じです。ポーズの完成形を目指す(Doing)のではなく、ポーズの中で深く呼吸し、身体の隅々に意識を行き渡らせる(Being)。その時、アーサナは単なる体操ではなく、動く瞑想となるのです。
引き寄せの法則を語る際にも、この視点は不可欠です。どんなにポジティブなアファメーションを唱え(Doing)、ビジョンボードを作成しても(Doing)、あなたの心の奥底にある「在り方(Being)」が欠乏感や不安に満ちていれば、現実はその「在り方」の方に引き寄せられてしまいます。宇宙は、あなたの言葉や行動以上に、あなたの存在そのものが放つ周波数に応答するからです。
今日、何か一つの行為を、「Doing」から「Being」へと意識を切り替えて実践してみてください。それはコーヒーを淹れる一杯の時間でも、通勤電車に揺られる数分間でも構いません。行為の先にある結果を一旦忘れ、今この瞬間の体験そのものに、全身全霊で浸ってみる。そこにこそ、忙しい日常の中で失われがちな、静かで満ち足りた喜びの源泉が隠されていることに、あなたは気づくでしょう。あなたの存在そのものが、すでに完璧なのだということを。


