優しさや思いやりは、人間が持つ最も美しい徳性の一つです。特に、他者の感情を自分のことのように感じられる繊細な共感力(エンパシー)は、深い人間関係を築く上で欠かせない能力でしょう。しかし、この美徳もまた、バランスを失うと、自らを蝕む刃となり得ます。他者の悲しみの沼に共に沈み、他者の怒りの炎で共に焼かれ、他者の不安の嵐に共に飲み込まれてしまう。そんな経験に心当たりはないでしょうか。
ヨガの叡智は、この「共感疲れ」に陥りがちな私たちに、極めて重要な視点を提供します。それは、「慈悲(コンパッション)」と「共感(エンパシー)」は似て非なるものである、という識別知(ヴィヴェーカ)です。そして、その二つを分かつのが、健全な「境界線(バウンダリー)」の存在なのです。
仏教には「慈悲喜捨(じひきしゃ)」という四つの徳目(四無量心)があります。「慈」は相手の幸福を願う心、「悲」は相手の苦しみを取り除きたいと願う心、「喜」は相手の喜びに共に喜ぶ心。ここまでは、私たちが考える「共感」に近いかもしれません。しかし、決定的に重要なのが第四の「捨(しゃ)」、サンスクリット語で「ウペッカー」です。これは「平静」や「平等」と訳され、他者の幸不幸に過度に心を乱されず、冷静な智慧をもって相手と向き合う心の状態を指します。相手の苦しみに引きずり込まれるのではなく、安定した足場で、そっと手を差し伸べる力。これこそが、真の慈悲の姿なのです。
考えてみてください。もし、溺れている人を助けようとして、自分も一緒にパニックに陥り、溺れてしまったら、元も子もありません。助けるためには、まず自分自身がしっかりと岸に立っている必要がある。他者の感情の嵐に対して、あなたがその安全な「岸」となるためには、あなた自身の感情と他者の感情との間に、明確な境界線を引くことが不可欠です。
この境界線は、相手を突き放す冷たい壁ではありません。むしろ、あなたと相手の両方を守り、より建設的な関係を可能にする、しなやかで透明な膜のようなものです。この膜を通して、あなたは相手の感情を「理解」し、「思いやる」ことはできますが、それを自分の内側に無防備に取り込み、自分のものとして体験することはありません。「これはあなたの感情、これは私の感情」という健全な区別があるからこそ、あなたは感情の渦に巻き込まれることなく、相手のために何ができるかを冷静に考え、行動することができるのです。
これは、ヨガの八支則におけるアヒンサー(非暴力)の、極めて繊細な実践でもあります。私たちは、自分自身を他者のネガティブな感情から守る権利と責任があるのです。自分を犠牲にして相手に尽くすことは、一見、美しい自己犠牲に見えるかもしれませんが、長い目で見れば、自分自身に対する暴力であり、エネルギーを枯渇させ、結果的に誰の助けにもなれなくなるという、共倒れの関係性を生み出します。
引き寄せの法則の観点から言えば、この境界線の重要性は火を見るより明らかです。あなたの現実は、あなたの波動(感情の周波数)が創り出します。もしあなたが、常に周囲の人の不安や怒り、悲しみに同調し、自分の感情の周波数を下げてしまっているとしたら、あなたの人生には、さらなる不安や怒りを引き寄せる出来事が顕現しやすくなるでしょう。自分の波動を高く、クリアに保つことは、望む現実を創造するための絶対条件です。それは利己的な行為ではなく、あなたが最高の自分でいることによって、結果的に周囲にも良い影響を与えるための、最も責任ある態度なのです。
では、どうすれば健全な境界線を築けるのでしょうか。
まず、自己観察(スヴァディアーヤ)から始めます。誰かと話しているとき、自分の心や身体にどんな変化が起きるかに気づくこと。「なんだか重苦しくなってきたな」「これは相手の不安が伝わってきているのかもしれない」と、客観的に認識するだけでも、同化を防ぐ第一歩になります。
次に、視覚化のテクニックも有効です。自分自身が、光の卵や透明なカプセルに包まれているのをイメージする。この光のバリアは、愛やポジティブなエネルギーは通しますが、あなたのためにならないネガティブなエネルギーは、優しく跳ね返してくれます。
そして、勇気を出して「No」と言うこと、自分のための時間を聖域として確保することも重要です。他者の要求にすべて応える必要はありません。あなたが休むこと、自分を満たすことは、誰かのためにエネルギーを蓄えるための、大切な仕事なのです。
他者の痛みに寄り添うことと、その他者の痛みを自分のものとして背負うことは違います。あなたは、相手の感情の責任を取ることはできません。あなたにできるのは、自分自身の心の平和を保ち、その穏やかで安定した場所から、愛と思いやりの手を差し伸べることだけ。それこそが、あなたと世界の両方にとって、最も癒しとなる関わり方なのです。


