他者を許すという行為が、重い扉を開くための鍵であるならば、自分自身を許すという行為は、その扉が存在する館の土台そのものを築き直すような、根源的で、そして時に最も困難な作業かもしれません。私たちは、他者の過ちに対しては寛容になれても、こと自分自身の失敗や欠点、不完全さに対しては、誰よりも厳しい裁判官になってしまいがちです。
「もっとうまくできたはずだ」「なぜあんなことをしてしまったんだ」。このような内なる声は、絶えず私たちを過去の法廷に引きずり出し、有罪判決を下し続けます。この終わりのない自己批判こそ、ヨガ哲学が最も戒める内なる暴力、アヒンサーに反する行いの極致です。他者を許せない心が外向きの毒矢だとすれば、自分を許せない心は、内側から自らの魂を削り続ける見えない刃なのです。
ヨガの八支則には「スヴァディアーヤ(Svādhyāya)」という教えがあります。これは一般に「聖典の学習」と訳されますが、その本質は「自己学習」、すなわち自分自身という最も深遠な書物を読み解くプロセスを指します。このプロセスにおいて重要なのは、自分の長所や美点だけでなく、短所や過ち、見たくない「影」の部分からも目を逸らさずに、ただ客観的に「そうか、私にはこういう側面もあるのだな」と観察することです。失敗は、あなたの価値を貶める証拠ではありません。それは、あなたが学び、成長するために不可欠な、貴重なデータに他ならないのです。武道の世界で、達人が一本取られた負け試合からこそ最も多くのことを学ぶように、私たちの人生もまた、失敗という稽古を通して深まっていくものなのです。
自分を許せない心の根底には、しばしば「完璧でなければならない」という非現実的な信念が潜んでいます。しかし、人間という存在は、本質的に不完全で、発展途上の存在です。完璧な人間などどこにもいません。完璧であろうとすることは、寄せては返す波に「動くな」と命じるような、自然の摂理に反した、空しい努力と言えるでしょう。
自分を許すための具体的な実践として、鏡の前に立つワークがあります。鏡に映る自分自身の目を見つめ、優しい声でこう語りかけてみてください。「よくやってきたね。辛かったね。間違えることもあるよ。でも、私はそんなあなたを全部受け入れるよ。愛しているよ」。最初は気恥ずかしいかもしれませんが、これは驚くほどパワフルな実践です。私たちは、他者からの承認を渇望しますが、本当に求めているのは、自分自身からの無条件の承認なのです。
また、身体的なアプローチも有効です。自己批判が強い時、私たちの身体は無意識に縮こまり、呼吸は浅くなります。胸を張り、肩の力を抜き、深く長い呼吸を繰り返すだけでも、心は少しずつ開いていきます。自分自身を優しく抱きしめるセルフハグも、身体を通して安心感を神経系に直接届けます。ヨガの最後のポーズであるシャヴァーサナ(屍のポーズ)は、まさに究極の自己受容の練習です。そこでは、思考や感情、身体の感覚を一切ジャッジせず、ただ、あるがままに存在することを自分に許可します。
他者を許すことができるようになるためには、まず、自分自身が「許される」という感覚を知らなければなりません。自分に与えたことのないものを、他者に与えることはできないからです。自分を許すという行為は、乾いた大地に水を注ぐようなものです。その大地が潤って初めて、他者への共感や寛容という草花が芽吹き、豊かな人間関係という森が育っていくのです。まずは、あなた自身に、その一滴の許しを与えてください。それは、あなたの世界全体を潤す、すべての始まりとなるでしょう。


