断捨離に逃げない

365days

ヨガを推奨しております。
よく「ヨガと断捨離はセット」のように語られることがあります。
確かに、ヨガには「アパリグラハ(不貪)」という教えがあり、不要なものを手放すことは大切です。
しかし、最近の風潮を見ていると、少し気になることがあります。
それは、「捨てること」自体が目的化し、さらには現実からの「逃避」になってしまっているケースがあるのではないか、ということです。

今日は少し厳しい視点かもしれませんが、ヨガの本質から見た「断捨離」について、そして「捨てれば幸せになれる」という幻想について、静かにお話ししてみたいと思います。

 

「捨てる快感」という新たな依存

現代社会はモノと情報で溢れかえっています。
その圧迫感から逃れたくて、多くの人が断捨離に救いを求めます。
部屋がスッキリする。心が軽くなる。
それは間違いなく素晴らしい体験です。
しかし、ここに落とし穴があります。

「捨てる」という行為には、ある種のドーパミン的な快感が伴います。
コントロールできない現実社会(仕事や人間関係)の中で、唯一「自分の意志でコントロールできる領域」が部屋の中だからです。
モノをバッサリと切り捨てることで、自分が強くなったような、人生を掌握したような万能感を得てしまうのです。

するとどうなるか。
今度は「捨てるもの探し」が始まります。
家族の持ち物が目につき始め、「なんでこんな無駄なものを持っているの?」とイライラし始める。
自分の心の平穏のために始めたはずが、いつの間にか「捨てない他者」を攻撃するようになってしまう。
これは、ヨガで言う「ヒムサ(暴力)」になってしまっていないでしょうか?
執着を手放すはずが、「持たないこと」への執着(新たなエゴ)を生んでしまってはいないでしょうか?

 

「何もない部屋」はゴールの風景ではない

ヨガが目指すのは、「何もない部屋で暮らすこと」ではありません。
もしそれがゴールなら、刑務所の独房が最も悟りに近い場所ということになってしまいます。

ヨガが目指すのは、「モノがあろうがなかろうが、私の心の平穏は揺るがない」という境地です。
モノに埋もれていても、心は自由でいられるか。
逆に、何もない空間にいても、心は満たされていられるか。
外部環境(外側の世界)に依存せず、内側の静寂を保てるかどうかが問われているのです。

断捨離をして部屋を綺麗にすることは、あくまで「整えやすくするための方便(手段)」に過ぎません。
それを目的にして、「部屋さえ片付ければ人生が変わる」「これさえ捨てれば私は変われる」と期待するのは、外部への依存です。
それは「この壺を買えば幸せになれる」というのと、構造としてはあまり変わりません。

 

関係性からの断捨離という「逃げ」

さらに深刻なのは、モノだけでなく「人間関係の断捨離」という言葉が安易に使われていることです。
「嫌な人は切りましょう」「波長が合わない人とは距離を置きましょう」
自己防衛として必要な場合ももちろんあります。
しかし、少しでも不快なものをすぐに「デトックス」「ブロック」として排除し続ける態度は、自分自身の成長の機会を奪うことにもなりかねません。

ヨガ哲学には「タパス(苦行・熱)」という概念があります。
これは、摩擦熱に耐えて変容するという意味です。
自分と異なる他者、面倒な人間関係、思い通りにならない現実。
それらとの摩擦の中にこそ、自分自身のエゴを削り落とし、魂を磨くための砥石(といし)があるのです。

気に入らないものをすべて「断捨離」して、自分にとって都合の良いイエスマンや心地よいモノだけに囲まれた「無菌室」のような世界を作ること。
それは一見快適かもしれませんが、それは本当に「生きている」と言えるでしょうか?
それは孤独な王様になることであって、ヨガが目指す「調和(ワンネス)」とは逆の方向かもしれません。

 

カオスの中に座る勇気

本当の断捨離とは、物理的にモノを捨てること以上に、「モノへの執着心」を捨てることです。
そして、「現実を自分の思い通りにコントロールしたい」という欲求を捨てることです。

部屋が散らかっていても、家族がガラクタを集めていても、上司が理不尽でも。
「ああ、今はそうなんだな」と、まずはあるがままを受け入れること。
すぐに排除しようとせず、そのカオス(混沌)の中に、ただ静かに座ってみること。

逃げずに、そこに座る。
すると、不思議なことに、モノや他者が発していた「ノイズ」が、自分の中を素通りしていくようになります。
「捨てなきゃ!」と力んでいた手が緩み、自然と「あ、これはもう役目を終えたな」と、静かに手放せる時が来ます。
それが、ヨガ的な「アパリグラハ(手放し)」です。
意志の力で無理やり引き剥がすのではなく、熟した果実が木から落ちるように、自然と離れていくのです。

 

捨てても残るもの、それが「あなた」

極論を言えば、すべてを捨てても、最後に一つだけ捨てられないものが残ります。
それは「あなた自身(意識)」です。
場所を変えても、持ち物を変えても、人間関係を変えても、あなた自身の心の癖(カルマ)が変わっていなければ、また同じようなモノが集まり、同じようなトラブルが起きるでしょう。

だから、外側を断捨離する前に、まずは内側を見つめる時間を持つことです。
瞑想をして、自分の中にある「不安」や「見栄」、「寂しさ」といった、モノを溜め込ませていた根本原因に気づくこと。
その心のゴミを掃除することこそが、本質的な断捨離です。

断捨離に逃げないでください。
モノを減らすことだけに救いを求めないでください。
大切なのは、どんな環境にあっても、自分の中心にくつろいでいられる「強さ」と「しなやかさ」を育むことです。

モノがあってもいいし、なくてもいい。
人がいてもいいし、いなくてもいい。
「どちらでも大丈夫」
そう言える自分になった時、あなたは本当の意味で自由になれるのです。

ではまた。



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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、ENQAN(ヨガ)、JIQAN(内観)、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。