瞑想を継続していくことで「苦しみの原因から距離を置く」ことができているのかもしれない

SIQAN

瞑想が好きで、毎日のように静かに座る時間を設けております。(本来、瞑想とは「何かをすること」ではないため、「やる」と表現することには語弊があるかもしれませんが、言葉の便宜上そのようにお伝えすることはご了承ください。)

私がこれほどまでに瞑想という営みに深く惹きつけられたのは、持って生まれた自身の気質に合っていたからだと感じています。仮に「瞑想」という明確な概念に出会わなかったとしても、日々の生活の中で無意識のうちに瞑想的な行為を行っていたはずだと思っています。

実際、私は日常的な散歩を好みますし、かつては毎日のようにランニングを続けていた時期もありました。現在も太陽礼拝や倒立(ハンドスタンド)といった動的ヨガに取り組んでおり、こうしたプロセスそのものを味わう身体的な動きが好きなのだと思います。

瞑想の基本は、ひとえに「ゆるめる」ことに尽きるでしょう。心身を極限までゆるめることができれば、瞑想はある意味でその目的を達成し、終了したと言っても過言ではありません。現代を生きる私たちは、無意識のうちに日々身体を固まらせて生活していますので、意図的に弛緩させることを意識して瞑想の時間を過ごされてみてください。

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現代社会の消費構造と記号からの脱却

私たちが暮らす都会の生活は、非常に情報過多であり、絶えず外部からの刺激に晒される環境にあります。この成熟した資本主義社会において、私たちは単なる「物」や「機能」を消費しているだけではありません。その背後にあるブランド、ステータス、あるいはSNSにおける「いいね」といった「記号」を消費させられている社会問題に直面しています。

このような記号の消費問題は、人間の心身に目に見えない重荷を背負わせ、他者との比較による深い悩みや葛藤を生み出す原因です。絶えず何かを求め、自分に欠けているものを外部から補おうとする消費行動は、際限のない欲望のループを作り出します。だからこそ、そうした巨大なシステムから一旦「降りる」感覚を持つことが不可欠となります。

瞑想を通じて情報を「減らす」「手放す」ことで、重たくなった心と身体を浄化し、軽い自己を取り戻すことができるでしょう。現代思想や身体論においても、外部の価値観に「居着かない(思考や身体を特定の場所に固定させないこと)」重要性がしばしば説かれます。執着を手放し、心身を軽くすることは、現代社会を健やかに生き抜くための不可欠な知恵なのです。

 

遊びの起源と瞑想の共通点

ここで少し視点を変えて、人間の根源的な営みである「遊び」について考えてみたいと思います。文化史的、歴史的な背景を辿ると、遊びの起源は文化の誕生よりも古いとされています。遊びは生存の維持といった実用的な目的を超えたところに存在し、行為そのものを純粋に楽しむ「自己目的性」に最大の特徴があると言えます。

効率や生産性ばかりが求められる現代において、遊びの重要性はかつてないほど高まっています。実は、この遊びの本質と瞑想には深い共通点が存在するのです。どちらも「何かを得るための手段」ではなく、「ただそれを行うこと」自体が充足の世界をもたらします。目的志向を手放し、遊び心を持ってゆるりと過ごす時間は、私たちが生きる力と知恵を育むための豊かな土壌となるはずです。

 

瞑想は「する」ものではなく「起こる」もの

瞑想とは、自らの意志で強引に「する」ものではなく、条件が整った時に自然と「起こる」ものです。何か特別な境地を目指して奮闘する必要はありません。ただ静かに座り、身体をゆるめ、心をゆるめていけばよいのです。

AI(人工知能)が情報を整理するように論理的に定義するならば、瞑想とは「湧き上がる思考に執着せず、ただ観察し、結果として心身が静寂に至る状態」を指します。したがって、「何かをしないこと」こそが瞑想の本質となります。思考をコントロールしようと何かをしてしまうと、それは本来の瞑想状態からかえって遠ざかってしまうでしょう。なので、何かをしないことを実現するには、何かしないことをしようとするのもやめる必要があります。

特定のイメージを使う手法も存在しますが、イメージの世界に過度に埋没してしまい、「あっちの世界」に意識が飛んでしまう危険性もあります。イメージばかりでは瞑想にもなりません。そのため、初心者の方には過度なイメージの活用はあまりお勧めしておりません。考え事が多い方もいらっしゃると思いますが、そうした思考を無理に消そうとするのではなく、そっと脇に置き、ただ座ってみてください。瞑想は考え事をする時間ではなく、湧き上がる思考との距離を置き、重要性を下げるための時間なのです。

 

東洋思想から紐解くつながりの感覚と直観

瞑想が深まってくると、次第に自分以外の大きな何かと「つながっている」という確かな感覚が芽生えてきます。どことつながっているのかと問われれば、明確な言葉で表現するのは難しいかもしれませんね(笑)。宇宙、自然、あるいは潜在意識の奥底など、つながる先の名前はどうでもよいことです。

東洋思想の歴史的背景を紐解くと、古代インドのウパニシャッド哲学には「梵我一如(ぼんがいちにょ:宇宙の根本原理であるブラフマンと、個人の本質であるアートマンが本質的に同一であるとする思想)」という概念があります。また、禅の教えにおける「心身脱落(しんじんだつらく:心と身体の執着から離れ、ありのままの真理に目覚めること)」も、このつながりの感覚に通じるものです。

この感覚が研ぎ澄まされているときは、非常に直観力に優れ、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)も頻発するようになります。科学的な観点からも、瞑想は脳のデフォルト・モード・ネットワーク(何もしていない時に働く脳の回路)の過剰な活動を鎮め、脳疲労を軽減する効果があることが確認されています。頭の中のノイズが消えることで、集合的無意識の大掃除が行われ、本来持っている直観が働きやすくなるメカニズムです。

日常の中でふと「どうもこっちの道じゃないな」という違和感を覚えることが増えていきます。それはまるで、長袖のシャツの下で、肌着が捲り上がって気持ちが悪いような、身体的な違和感として現れます。人間の身体は非常に優秀なセンサーであり、頭で論理的に考えるよりも先に、身体が正解を知っていることが多いのです。

逆に、「どうもこっちの方が清々しい感じがするから、こちらを選択しよう」という感覚も鋭くなります。すっきりする感覚、腑に落ちる感覚がより明確にわかるようになってくるわけです。この微細な身体の声を聴く感覚を育てるために、瞑想は極めて有効なアプローチとなります。

以前、仏教関連の修行をされている方が「瞑想をしていると仏さんとつながるのだよ」と仰っていました。しかし、常に仏さんと繋がりっぱなしの覚醒状態では、現実世界のビジネスや日常生活は少しやりにくいかもしれません。だからこそ、多くの人は無意識のうちに欲やエゴを強くし、あえて「繋がらない生活」を選ぶことで、この社会に適応している側面もあるように思います。

 

瞑想は向こうからやってくる

瞑想は、良質な睡眠と同じように「向こうからやってくる」ものです。私たちは、瞑想が訪れるための環境や準備を整えることしかできません。呼吸法(プラナヤマ)を行ったり、ゆったりとした服装に着替えたり、静かな空間を作ったりといった物理的な準備を行うのみです。

あとは、来るに任せる姿勢が大切になります。早く瞑想状態に入ろうと力んだり、焦ったりする必要は全くありません。セルフトランサーフィン(現実をコントロールし望む人生を歩むための概念モデル)において「振り子の法則」が示唆するように、過度な重要性を持たせたり執着したりすると、かえって望む結果から遠ざかってしまいます。力みがあると瞑想はやってこないため、徹底的に力みを外していきましょう。だからこそ、ゆるめることがすべての入り口となるのです。

 

身体をゆるめるという準備

全身を弛緩させることで、深いリラックス状態が訪れます。リラックスすること自体が瞑想のゴールではありませんが、瞑想状態に入るためにはリラックスが不可欠な条件です。ラジオのチューニングを合わせるかのように、心身の周波数を整えていきましょう。

身体を軽く揺するのもよいですし、ヨーガ・スートラに記された八支則(ヨガの深淵に至るための8つの実践段階)におけるアーサナ(坐法・ポーズ)を実践するのも素晴らしい準備となります。セルフマッサージをして筋肉のこわばりを解くこともよろしいかと思います。こうした物理的なアプローチから始め、徐々に気持ちをゆるめる方向へとシフトしていくのが理想的です。

また、何事も楽な気持ちで取り組むことが大切です。仏教には抜苦与楽(ばっくよらく:苦しみを抜き去り、安楽を与えるという慈悲の教え)という言葉がありますが、自分自身を苦しめずに、楽に実践することもまた重要となります。苦しい修行のような形では継続が難しく、無駄な力みを生むだけです。

「足るを知る」精神で、今ここにある状態を受け入れ、ゆるめてゆるめて楽にやっていきましょう。最初は形から入っても全く問題ありません。吐く息とともに、全身の細胞から不要な力をリリースしていくイメージを持ってみてください。

 

終わりに:継続していくことで命の根っこを伸ばす

木は、太陽が照りつける晴れの日に枝葉を伸ばします。しかし、雨が降る暗い日には、地中深くへと根を伸ばすのです。これは誰かに教わった話ですが、人間の成長や内観のプロセスにおいても非常に腑に落ちる比喩だと感じています。

自己探求としての瞑想は、まさにこの「命の根っこ」を地中深くへと伸ばしているようなイメージがあります。瞑想を始めたからといって、すぐに目に見える劇的な成果が現れるとは限りません。基本的には、長いプロセスの中で少しずつ変化が見えてくる性質のものです。

表面的な枝葉を飾るのではなく、土台となる根をしっかりと伸ばす行為こそが瞑想の真髄なようです。皆様の命の根っこは、しっかりと伸びているでしょうか。瞑想の習慣を持ち、波動やオーラと呼ばれる生命力が整っている人は、年齢を重ねても若々しく、身軽で軽い人であるとよく言われます。

まずは、1日5分でも静かに座る習慣を持つことから始めてみましょう。根っこは急激には伸びないため、少しずつの継続が何よりも力を持ちます。この日々の瞑想を通して、自身の根っこが伸びている、グングンと見えない土の中に生えていっている。そうした感覚が掴めるようになれば、瞑想という時間はとても楽しく、豊かなものに変わっていくはずです。

情報社会の喧騒から離れ、日常の中に余白を作る瞑想を、ぜひご自身のペースでやってみてください。また、日本で一番簡単な瞑想会と称しまして「SIQAN瞑想会」も定期的に開催しております。ご興味のある方は、まずはこうした瞑想会から気軽に体験されるのも面白い第一歩となるでしょう。スケジュールは当サイトよりご確認いただけます。

 



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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、ENQAN(ヨガ)、JIQAN(内観)、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。