生活習慣病(糖尿病・高血圧・脂質異常)についての相談を受けることが増えています。
身体の不調を訴える方の多くは、何か「特効薬」のようなものを探し求めています。
「このサプリを飲めば治る」「このポーズをとれば血糖値が下がる」といった、魔法のような解決策です。
しかし、はっきり申し上げますと、そんなものはありません。
生活習慣病とは、文字通り「生活する習慣」が作り出した結果(カルマ)に過ぎないからです。
ネットで拾ったよく分からない裏技や、高額な健康食品に飛びつく前に、毎日の選択を少し整える方が、はるかに効果的であり、かつヨガ的です。
まずは、以下の10の項目を眺めてみてください。
これは特別な修行ではありません。人間として当たり前の営みを取り戻すためのリストです。
・夜の主食は量と質
・毎日合計8000歩を目安で歩く
・エスカレーターより階段を選ぶ
・お肉より魚
・甘い物はお菓子ではなく果物
・調味料は本物を使い、塩は天然塩に変える
・加工品を極力つかわない
・素材を活かしたシンプルな調理法にする
・食物繊維やたんぱく質などの栄養をしっかり取り入れる
・睡眠は最低7時間を目指す
いかがでしょうか。
地味だと感じたかもしれません。
「映え」もしなければ、誰かに自慢できるようなことでもありません。
しかし、こうした小さな見直しだけで、血糖値の乱高下は減り、血圧も脂質も落ち着いていくものです。
その結果として、無理のない範囲で体重も自然に落ち、検査数値も安定しやすくなります。
消費社会が生み出した「病」
ここで少し、厳しい視点を持ってみましょう。
なぜ現代人は、これほどまでに生活習慣病に悩まされるのでしょうか。
それは私たちが、資本主義という巨大なシステムの中で「消費すること」を強要されているからです。
企業は利益のために、砂糖と添加物たっぷりの加工食品を「手軽で美味しい」と宣伝して売りつけます。
私たちはそれを食べ、身体を壊します。
すると今度は、別の企業が「痩せるためのサプリ」や「健康になるためのジム」を売りつけます。
そして最後には、製薬会社が薬を売るわけです。
マッチポンプのような構造の中で、私たちは搾取され続け、その代償として「生活習慣病」という荷物を背負わされているのです。
コンビニのお弁当や、袋に入ったお菓子をやめ、「素材」を買ってきて自分で料理すること。
それは単なる健康法ではなく、この狂った消費サイクルからの静かなる離脱です。
自分の身体の主導権を、企業から取り戻す行為なのです。
ルッキズムと解剖学の限界
また、ヨガの世界においても、奇妙な現象が起きています。
「痩せて美しくなるために生活習慣を整えましょう」という、ルッキズム(外見至上主義)への迎合です。
鏡を見て一喜一憂し、腹筋が割れていることを誇り、他者からの承認を求める。
これはヨガではありません。ただのエゴの強化です。
生活習慣病を治すのは、インスタグラムで「いいね」をもらうためではなく、あなた自身の命を健やかに全うするためであるはずです。
さらに言えば、解剖学的な知識や、生理学的な数値の改善も、ヨガの最終目的である「サマーディ(三摩地・悟り)」には、実は何の関係もありません。
どれだけ完璧な筋肉を持っていても、どれだけ血液検査の数値が正常でも、心が乱れ、執着にまみれていれば、それはヨガ的には「病んでいる」状態です。
逆に、身体に障害があっても、病を抱えていても、内なる静寂に留まり、すべてを受け入れているならば、その人はヨガを成就しています。
解剖学は、身体という「乗り物」をメンテナンスするためには役立ちます。
しかし、乗り物をピカピカに磨くことが目的になってはいけません。
大切なのは、その乗り物に乗って「どこへ行くか」です。
ささやかな習慣の積み上げが、未来を守る
とはいえ、私たちは肉体を持って生きています。
乗り物が故障ばかりしていては、瞑想に集中することも難しくなります。
だからこそ、最低限のメンテナンスとして、生活習慣を整えるのです。
それは肉体への執着からではなく、肉体が修行の妨げにならないようにするための智慧です。
生活習慣病カイゼンの変化は、派手なイベントではありません。
日々のささやかな習慣の積み上げから始まります。
できる日に、できる分から始めれば十分です。
その一つひとつが積み重なって、あなたの未来の健康を守ってくれます。
そして、健やかな身体があって初めて、私たちはその奥にある「本当の自分」を探求する旅に出ることができるのです。
身体を整えることは、最終的には身体を忘れるための準備なのです。
ではまた。


