ヨガを推奨しております。
ですが、ヨガと聞いてみなさんが思い浮かべるのは、どのような風景でしょうか。
マットの上でポーズをとる姿でしょうか。あるいは、静かに座って瞑想する姿でしょうか。
もちろん、それらもヨガの素晴らしい側面です。
しかし、ヨガの世界には、身体を激しく動かすことも、難しい経典を読み解くことも必要としない、ただ「愛する」ことだけで完成する道があります。
それが「バクティヨガ(Bhakti Yoga)」です。
日本語では「信愛のヨガ」や「献身のヨガ」と訳されます。
現代社会は、論理や効率、そして「自力」で何かを成し遂げることが過剰に求められる時代です。
そんな時代だからこそ、このバクティヨガの教えが、乾いた心に染み渡る慈雨のように、私たちに深い癒しと救いをもたらしてくれるのではないかと感じています。
今日は、最も優しく、そして最も強力なヨガの道、バクティヨガについて、静かにお話ししてみたいと思います。
もくじ.
バクティヨガの意味:神への純粋な愛
「バクティ」という言葉は、サンスクリット語の「バジュ(Bhaj)」を語源とし、「分かち合う」「参加する」「属する」という意味を持ちます。
転じて、神や大いなる存在(イシュワラ)への絶対的な愛、信愛、帰依(きえ)を意味するようになりました。
知識のヨガ(ギャーナヨガ)が「知性」を使って真理に到達しようとするのに対し、バクティヨガは「感情」を使います。
人間が持つ最も強いエネルギーである「愛」の方向性を、個人的な対象(恋人や家族など)から、普遍的な対象(神、宇宙、真理)へと向け変えるのです。
「神」という言葉に抵抗がある方もいるかもしれません。
その場合は、「宇宙の法則」「大自然」「サムシング・グレート(偉大なる何か)」、あるいは「自分の内なる真我」と置き換えても構いません。
自分という小さな存在を超えた、何か大きな力に対して、理屈抜きに心を開き、親愛の情を持つこと。
それがバクティの本質です。
現代人が忘れてしまった「委ねる」という感覚
私たちは普段、「自分で何とかしなければならない」という強いプレッシャーの中で生きています。
キャリアも、健康も、人間関係も、すべて自分の努力とコントロール次第だと思い込まされています。
これは「自力」の世界です。
もちろん努力は尊いものですが、自力だけに頼る生き方は、常に不安と緊張を伴います。
「失敗したら自分のせいだ」「もっと頑張らなければ」という重圧が、私たちを疲弊させます。
バクティヨガは、この「自力」というオールを手放し、「他力」という大きな風に帆を張る生き方です。
「私(エゴ)」がやるのではありません。「神(大いなる力)」が私を通して行ってくれるのです。
これを「イーシュワラ・プラニダーナ(神への祈念・降伏)」と呼びます。
「降伏」というと負けたような響きがありますが、ヨガにおいては「エゴの降伏」を意味します。
小さな自分の計算や執着を手放し、「結果はすべて天にお任せします」と、大いなる流れに身を委ねること。
それは敗北ではなく、宇宙との調和であり、究極の安心感への入り口なのです。
川の流れに逆らって泳ぐのをやめ、仰向けになって空を見上げながら、流れに運ばれていくような感覚です。
バクティヨガの実践法:日常を祈りに変える
では、具体的にどうすればバクティヨガを実践できるのでしょうか。
寺院に行く必要も、特別な儀式を行う必要もありません。
あなたの日常の中に、少しだけ「愛」と「献身」のエッセンスを加えるだけでいいのです。
1. キールタン(歌う瞑想)
神の御名やマントラ(真言)を、メロディーに乗せて繰り返し歌うことです。
「オーム・ナマ・シヴァーヤ」や「ハレ・クリシュナ」など。
意味がわからなくても構いません。音のバイブレーションに身を委ね、声を出し、心を開くこと。
歌うことは、喉のチャクラ(ヴィシュッダ)を開き、溜め込んだ感情を浄化する強力なカタルシス効果があります。
上手く歌おうとする必要はありません。ただ、神へのラブレターのように、心を込めて歌うのです。
2. プージャ(儀式・供養)
祭壇に花や光、香を捧げる行為です。
これも形式にとらわれる必要はありません。
例えば、毎朝のコーヒーを飲む前に、心の中で「この一杯を、私の内なる神に捧げます」と唱えてから飲む。
料理を作るとき、「愛する人たちの健康のため、そしてこの食材の命に感謝して」と祈りながら作る。
すべての行為を、自分(エゴ)のためではなく、大いなるものへの捧げ物(プラサード)として行うのです。
すると、単なる家事や仕事が、神聖な儀式へと変わります。
3. ジャパ(マントラを唱える)
数珠(マーラー)を使い、マントラを108回繰り返し唱える瞑想です。
思考が過去や未来へ彷徨いそうになるたびに、マントラの音に意識を戻します。
それは、暴れる心を神という杭に繋ぎ止めるような練習です。
4. ヴァンダナム(礼拝)
自分以外の存在の中に、神を見ることです。
家族にも、同僚にも、道端の草花にも、嫌いな人にさえも、その奥底には同じ「生命の輝き(アートマン)」が宿っています。
「ナマステ」という挨拶は、「私の内なる神が、あなたの内なる神に礼拝します」という意味です。
すべての存在に敬意を払い、愛を持って接すること。これが最も実践的で、最も難しいバクティヨガかもしれません。
バクティがもたらす効果:孤独からの解放
バクティヨガを深めていくと、私たちは決して一人ではないということに気づかされます。
現代社会の病の一つに、強烈な「孤独感」があります。
SNSでどれだけ繋がっても埋まらない、根源的な寂しさ。
それは、私たちが「ソース(源)」から切り離されているという錯覚から来ています。
バクティは、その切れた回路を再び繋ぎ直します。
自分は大いなる存在の一部であり、常に愛され、守られ、導かれているという感覚。
「親鳥の羽の下にいる雛」のような、絶対的な安心感を取り戻すことができます。
すると、不安や恐れ、嫉妬や憎しみといった、エゴから生まれるネガティブな感情が、朝日に溶ける霧のように消えていきます。
愛で満たされた心には、もはやそれらが存在するスペースがないのです。
エゴの消滅と、無条件の愛
愛には二種類あります。
一つは「条件付きの愛」です。「私を愛してくれるなら愛する」「得になるなら愛する」。これは商取引であり、エゴの愛です。
もう一つは「無条件の愛(プレマ)」です。
太陽が善人にも悪人にも等しく光を注ぐように、ただ愛するから愛する。見返りを求めない純粋な愛。
バクティヨガが目指すのは、この無条件の愛です。
最初は神への愛から始まりますが、最終的には「愛する者(信者)」と「愛される者(神)」の境界線さえも消滅します。
私自身が愛そのものになる。
これがヨガのゴールである「サマディ(三摩地・合一)」です。
「私はいない、ただ愛があるだけ」
この境地に至ったとき、人生は苦しみの海から、至福のダンスへと変わります。
終わりに:愛することからはじめよう
難しく考える必要はありません。
まずは、あなたの身の回りにあるもの、人、自然を、大切に思うことから始めてみてください。
空の青さに感動すること。
道端の花の美しさに足を止めること。
大切な人の笑顔に感謝すること。
その瞬間、あなたの胸の真ん中(アナハタ・チャクラ)が温かくなるのを感じるはずです。
その温かさこそが、バクティの種です。
理論や知識で頭がいっぱいになってしまった時は、思い出してください。
最強のヨガは、マットの上ではなく、あなたのハートの中にあるということを。
愛する力さえあれば、私たちはいつでも、どこからでも、真理へと到達することができるのです。
縁側で日向ぼっこをするように、大いなる愛の光に、ただ身を委ねてみましょう。
ではまた。


