禅 – 実践と体験

ヨガを学ぶ

「禅」という言葉を聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。凛とした空気の漂う禅寺、枯山水の庭、黒い衣をまとった僧侶、あるいは、ただひたすらに坐る姿かもしれません。私たちの心に浮かぶ禅のイメージは、どこか静謐で、日常の喧騒から遠く離れた特別な世界のものであることが多いように感じます。しかし、禅とは果たして、そのような限られた場所や人々だけのものでしょうか。

ヨーガと禅の探究をテーマとするこのサイトにおいて、「禅」を取り上げることは、きわめて自然な流れと言えるでしょう。ヨーガが身体と呼吸を通して自己の内側へと深く分け入っていく実践であるように、禅もまた、坐ること(坐禅)を中心とした実践を通して、私たち自身の本質、そしてこの世界のありようを探求する道です。両者は源流こそ異なれど、目指す頂や、その過程で得られる気づきにおいて、深く響き合うものがあるように思われます。

現代社会は、情報が洪水のように押し寄せ、常に「何か」を追い求め、効率や成果を重視する傾向が強いように感じられます。そのような時代にあって、禅が持つ「ただ、ある」「今、ここ」に意識を向ける姿勢は、新鮮な驚きとともに、現代人の心に静かな波紋を広げているのかもしれません。スティーブ・ジョブズが禅に傾倒した話は有名ですが、それも単なるエピソードとしてではなく、現代的な生き方や創造性と禅との間に、無視できない繋がりがあることを示唆しているように思えます。

しかし、禅はそのシンプルさゆえに、あるいはその深遠さゆえに、誤解されやすい側面も持っています。「無になること」が目的であるとか、「悟り」という特別な境地に至らなければ意味がない、といった考えです。また、ヨーガの実践者にとっては、身体的なアプローチの違いや、思想的な背景の差異に戸惑うこともあるかもしれません。

この記事では、禅という広大で奥深い世界について、その歴史的・思想的背景を踏まえつつ、核心となる「実践」と、それによってもたらされる「体験」に焦点を当てて考察を深めていきたいと考えます。単なる知識の解説に留まらず、禅が私たちの日常や自己理解にどのような光を投げかけてくれるのか、ヨーガとの対話も視野に入れながら、共に探求していく旅を始めたいと思います。これは、完成された地図ではなく、未知なる領域への入り口を示す、ささやかな試みです。

 

禅の源流:インドから東アジアへ、そして日本へ

禅の直接的な起源は、一般に6世紀初頭にインドから中国へ仏教を伝えたとされる菩提達磨(ぼだいだるま)に求められます。しかし、その思想と実践の源流は、さらに古く、仏教そのものの創始者である釈迦(ブッダ)にまで遡ることができます。

釈迦が悟りを開いたのは、菩提樹の下での深い瞑想(禅那、dhyāna)の実践を通してであったと伝えられています。苦しみの原因を探求し、その滅却への道を模索する中で、釈迦は心を静め、自己と世界の真実を洞察するための方法として、瞑想を重視しました。初期仏教における瞑想は、戒律(倫理的な生活)、定(精神集中)、慧(智慧)という三学の重要な柱の一つであり、心の動揺を鎮め、物事をありのままに見る智慧(prajñā)を獲得するための不可欠な実践と位置づけられていたのです。ヨーガにおける「ヨーガ・スートラ」が説く八支則(アシュターンガ・ヨーガ)においても、ディヤーナ(静慮、禅那)は高度な精神的段階として示されており、インド古来の瞑想文化の系譜をうかがい知ることができます。

このインドで生まれた瞑想を重視する仏教の流れが、シルクロードを経て中国へと伝わります。達磨は、「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」という言葉に象徴されるように、経典の文字や言葉による教え(教)とは別に、師から弟子へと直接、心をもって伝えられるもの(禅)を強調したとされます。これは、文字や理論による理解だけでなく、実践を通した直接的な体験(悟り)を最重要視する姿勢を示しています。

中国において禅は、土着の思想である道教(老荘思想)や儒教と相互に影響を与え合いながら、独自の発展を遂げました。道教の「無為自然」(作為なく、あるがままに任せる)の考え方は、禅の「ただ坐る」「あるがままを受け入れる」という姿勢と響き合い、禅の思想形成に深く関わったと考えられています。こうして、中国禅宗として確立され、唐代から宋代にかけて、臨済宗(りんざいしゅう)や曹洞宗(そうとうしゅう)など、多様な宗派が生まれていきました。

日本へ禅が本格的に伝わったのは、鎌倉時代です。栄西(えいさい、ようさい)は臨済宗を、道元(どうげん)は曹洞宗を伝え、それぞれ武士階級や貴族、そして庶民へと広まっていきました。特に、武士階級は、生死と隣り合わせの状況において精神的な支柱を求め、禅の持つ、動じない心、決断力、そして「今、ここ」に集中する実践を重視しました。このことは、後の日本の武道(剣道、弓道など)の精神性に大きな影響を与えたと言えるでしょう。

さらに禅は、特定の宗派の教義に留まらず、日本の文化全体に深く浸透していきます。茶道における「一期一会」の精神や、侘び寂びの美意識、華道における自然との対話、水墨画や俳句に見られる余白や省略の美、枯山水に象徴される庭園芸術など、日本の精神文化の根幹をなす多くの領域に、禅的な思考様式や感性が息づいているのを見出すことができます。それは、形や言葉になる以前の、物事の本質を捉えようとする姿勢、あるいは、日常の所作の中に真理を見出そうとする眼差しと言えるかもしれません。このように、禅はインドに源を発し、中国で独自の発展を遂げ、日本においてさらに深く文化に根差した、東洋思想の重要な潮流の一つなのです。

 

禅の核心にあるもの:言葉を超えた真実へ

禅の教えの中心には、先に触れた「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」という四つの句が凝縮されています。これは、禅が何を大切にし、何を目指しているのかを理解する上で、非常に重要な鍵となります。

不立文字(ふりゅうもんじ): 文字や言葉に頼らない、という意味です。経典や教義はもちろん重要ですが、それらはあくまで「月を指す指」であって、「月」そのものではありません。言葉による理解は、概念的な理解に留まりやすく、真実そのものを直接体験することには限界がある、という禅の基本的な立場を示しています。

教外別伝(きょうげべつでん): 言葉で教えられる教え(教)の外に、別に伝えられるものがある、ということです。それは、師から弟子へと、心から心へと、言葉を介さずに直接伝えられる体験的な智慧や境地を指します。これは、体験を伴わない知識だけでは不十分であるという、実践重視の姿勢の現れです。

直指人心(じきしにんしん): 直接、人の心を指し示す、という意味です。回りくどい説明や比喩ではなく、私たちの心、その本質そのものを直接的に見つめることを促します。私たちが普段「自分」だと思っている意識や思考の奥にある、本来の心のありよう(仏性)に気づくことの重要性を示唆しています。

見性成仏(けんしょうじょうぶつ): 自己の本性(仏性)を見れば、そのままで仏である、という意味です。特別な人間になったり、超能力を得たりすることが「成仏」なのではなく、自分自身の本来の性質、清浄で曇りのない心(仏性)に気づくこと、それ自体が悟り(仏)である、と説きます。これは、私たち一人ひとりが、本来的に尊い存在であるという、根本的な肯定のメッセージとも言えるでしょう。

これらの思想の根底には、仏教の基本的な概念である「空(くう、Śūnyatā)」の理解があります。「空」とは、虚無や何もないということではありません。すべての事物や現象は、固定的な実体(自性)を持たず、相互依存の関係性(縁起)によって成り立っている、という真理を指します。私たちが「私」と呼んでいるものも、固定的な実体ではなく、様々な要素(身体、感覚、思考、感情など)が一時的に集まって機能している状態に過ぎない(無我、anātman)。この「空」の理解は、私たちが抱えがちな執着(物、地位、自己イメージなど)から解放されるための鍵となります。なぜなら、執着の対象には固定的な実体がないことを知れば、それにとらわれる必要がなくなるからです。

このような禅の核心思想を体現するための実践方法として、中国で発展したのが、臨済宗における「公案(こうあん)」と、曹洞宗における「黙照禅(もくしょうぜん)」です。

公案とは、師が弟子に与える、論理や常識では解決できないような問い(例えば、「隻手の声を聞け」「父母未生以前の本来の面目如何」など)です。弟子は、この問いに対して、頭で考えて答えを出すのではなく、全身全霊で参究し、思考の限界を超えたところにある直観的な気づき(見性)を得ることを目指します。これは、私たちの分別知(物事を分けて考える知性)を打破し、言葉以前の次元へと導くための、いわばショック療法のような側面を持っています。

一方、黙照禅は、道元が提唱した「只管打坐(しかんたざ)」に代表されるように、「ただひたすらに坐る」ことを重視します。何か特定の目的(悟りを得る、心を静めるなど)のために坐るのではなく、坐ること自体がすでに悟りの実践であり、仏の姿であると考えます。坐禅中に現れる思考や感情にとらわれず、ただその現れと消滅を静かに見守り(黙)、自己と世界の真実の姿が自ずから明らかになる(照)のを待つ。そこには、一切の計らい(目的意識や期待)を捨て、ただ「今、ここ」の現実に徹するという、徹底した受容の姿勢があります。

臨済の公案も、曹洞の只管打坐も、アプローチは異なりますが、目指すところは共通しています。それは、私たちの思考や概念によって曇らされた自己の本質(仏性)に目覚め、世界の真実をありのままに体験すること、すなわち「見性」です。それは、言葉や論理を超えた、直接的で全体的な理解なのです。

 

禅の実践:坐禅という静かなるダイナミズム

禅の中心的な実践は、何と言っても「坐禅(ざぜん、Zazen)」です。坐禅とは、文字通り「坐って行う禅」であり、特定の姿勢と呼吸法を用いて、心を静め、自己と向き合うための基本的な修行法です。しかし、禅における坐禅は、単なるリラクゼーション法や精神統一のテクニックではありません。それは、禅の核心思想を身体を通して体験し、自己変容を促すための、きわめて能動的でダイナミックな実践なのです。

坐禅を行う上で基本となるのが、「調身(ちょうしん)」「調息(ちょうそく)」「調心(ちょうしん)」という三つの要素です。

調身(姿勢を調える):

坐禅の姿勢は、安定性と覚醒を両立させることが重要です。一般的には、坐蒲(ざふ)と呼ばれるクッションの上に坐り、足を組みます。組み方には、両足を腿の上に乗せる「結跏趺坐(けっかふざ)」と、片足だけを乗せる「半跏趺坐(はんかふざ)」があります。足が組めない場合は、椅子に坐るなど、無理のない姿勢で行うことも可能です。大切なのは、骨盤を立て、背筋を自然に伸ばし、頭のてっぺんが天を突くような感覚を持つことです。顎を軽く引き、目は半眼(半分閉じた状態)で、視線は1メートルほど前方の床に自然に落とします。手は、法界定印(ほっかいじょういん)と呼ばれる組み方(左の手のひらを上に向け、その上に右の手のひらを重ね、両手の親指の先を軽く触れ合わせる)をし、下腹部の前に置きます。この安定した姿勢は、身体的な緊張を解き放ち、同時に心が弛緩しすぎないように支える土台となります。身体を調えることは、心を調えるための第一歩なのです。

調息(呼吸を調える):

姿勢が調ったら、次に呼吸に意識を向けます。坐禅における呼吸は、深く、静かで、自然な腹式呼吸が基本です。意識的にコントロールしようとするのではなく、吸う息、吐く息が自然に行われているのを、ただ静かに感じます。特に、吐く息に意識を集中させると、心が落ち着きやすいと言われています。呼吸の数を数える「数息観(すそくかん)」や、ただ呼吸の出入りに意識を随わせる「随息観(ずいそくかん)」などの方法もありますが、いずれも目的は、呼吸を通して「今、ここ」の瞬間に意識を繋ぎ止めることです。呼吸は、常に現在にしか存在しない、私たちの生命活動の最も基本的なリズムです。そのリズムに意識を合わせることで、過去への後悔や未来への不安といった思考の渦から離れ、現在の静寂へと立ち返ることができるのです。

調心(心を調える):

坐禅において最も難しく、また最も重要なのが、心を調えることです。しかし、禅における「調心」とは、思考を無理に止めたり、心を無にしようとしたりすることではありません。坐っていると、様々な思考、感情、記憶、感覚が浮かんでは消えていきます。それらは、あたかも空を流れる雲のようなものです。禅では、これらの心の働き(雑念)を敵視したり、無理に抑えつけようとしたりしません。むしろ、それらが現れることを許し、ただ「ああ、考えが浮かんだな」「感情が動いたな」と客観的に気づき、深追いせず、判断せず、ただ静かに見送ります。雲が空を妨げないように、思考や感情も、本来の静かな心(仏性、空)を妨げるものではない、という気づきです。この「ただ気づいている」状態、判断や反応を差し挟まずに観察する態度こそが、禅的なマインドフルネス(気づき)であり、調心の核心です。

初心者が坐禅を始めると、足の痛み、眠気、そして次から次へと湧き上がる雑念に悩まされることが少なくありません。しかし、大切なのは、「うまく坐ろう」「無になろう」と焦らないことです。痛みを感じれば「痛みがあるな」と気づき、眠くなれば姿勢を正し、雑念が湧けば「雑念が湧いたな」と気づいて、再び呼吸や姿勢に意識を戻す。この繰り返しそのものが、坐禅の実践なのです。「失敗」という概念は、坐禅にはありません。ただ、気づき、そして坐り続けること。その粘り強い実践の中に、禅の深みが隠されています。

さらに、禅の実践は坐禅だけに限定されるものではありません。道元は「威儀即仏法(いぎそくぶっぽう)、作法是宗旨(さほうぜしゅうし)」と述べ、日常生活の立ち居振る舞いすべてが仏法の実践であると説きました。掃除、料理、食事、労働といった日常の営み(作務、さむ)もまた、禅の重要な修行です。目の前の作業に心を集中させ、一つ一つの動作を丁寧に行う。その中で、私たちは坐禅中と同じように、「今、ここ」に在ること、そして自己と世界の繋がりを体験することができるのです。「歩く禅」(経行、きんひん)も、ゆっくりとした歩行の中で、足裏の感覚や身体の動き、周囲の環境への気づきを深める実践です。このように、禅は、静中の工夫(坐禅)と動中の工夫(日常の営み)の両輪によって、私たちの生全体を修行の場へと変容させていく可能性を秘めているのです。

 

禅の体験:言葉では捉えきれないもの

禅の実践を続けていくと、私たちはどのような「体験」をするのでしょうか。「悟り(さとり、Satori)」や「見性(けんしょう)」といった言葉が、禅の目指す究極の体験として語られることがあります。しかし、これらの言葉は、しばしば誤解を招きやすいものです。何か超常的な能力を得たり、人格が劇的に変化したりするような、派手な出来事を想像してしまうかもしれません。

もちろん、禅の歴史の中には、深い坐禅の果てに、自己と世界の認識が根底から覆るような劇的な体験(大悟)をしたとされる禅僧たちの記録も存在します。しかし、禅の体験は、必ずしもそのような特別な出来事だけを指すのではありません。むしろ、日常のささやかな瞬間の中に、禅的な気づきや体験は潜んでいると言えるでしょう。

坐禅を続けていると、ふと、思考の波が静まり、心が澄み渡る瞬間が訪れることがあります。その時、私たちは、普段は意識していなかった周囲の音(風の音、鳥の声、遠くの車の音)や、自身の呼吸の微かな響き、身体の感覚などを、驚くほど鮮明に感じることがあります。それは、思考というフィルターを通さずに、世界を直接的に体験している状態と言えるかもしれません。「私」という中心的な視点が薄れ、自己と世界の境界が曖昧になり、ただ「あるがまま」の現実が、静かに、しかし豊かに立ち現れてくる。このような体験は、言葉で表現しようとすると、その本質がこぼれ落ちてしまうような、繊細で深遠な性質を持っています。

また、禅の実践は、「今、ここ」への集中力を養います。過去への後悔や未来への不安といった、私たちを絶えず悩ませる思考のループから抜け出し、現在の瞬間に意識を留める訓練です。この「今、ここ」に完全に在るという体験は、深い安らぎと充実感をもたらします。何かに追われる感覚から解放され、ただ目の前にある現実を、そのまま受け入れることができるようになる。これは、現代社会で注目されている「マインドフルネス(Mindfulness)」の概念とも深く関わっています。マインドフルネスとは、一般に「現在の瞬間に、判断を加えず、意図的に注意を払うこと」と定義されますが、その源流には仏教、特に禅の瞑想実践があることは明らかです。禅の実践を通して培われる「気づき」の力は、日常生活のあらゆる場面で、私たちの心のあり方をより穏やかで、明晰なものへと変容させていく可能性を秘めています。

しかし、禅における体験は、単なる心理的な効果やストレス軽減に留まるものではありません。その根底には、「自己とは何か」「世界とは何か」という、より根源的な問いへの探求があります。坐禅を通して自己の思考や感情を客観的に観察し続ける中で、私たちは、普段「私」だと思っているものが、実は固定的な実体ではなく、絶えず変化し続ける現象の集合体に過ぎないのではないか、という気づき(無我)に至ることがあります。この気づきは、自己中心的な視点からの解放を促し、他者や世界に対するより深い共感や慈悲の心を育む土壌となります。

「悟り」とは、何か特別な境地に到達することではなく、むしろ、このような「ありのままの現実」に対する曇りのない認識、あるいは、自己と世界の真実に対する目覚めである、と禅では考えられます。それは、一度きりの到達点というよりは、深まり続けるプロセスであり、日常の中での小さな気づきの積み重ねの中に、その萌芽を見出すことができるでしょう。例えば、道を歩いていてふと目に留まった道端の花の美しさに心を奪われる瞬間、あるいは、誰かの言葉に深く共感し、心が通い合ったと感じる瞬間。そのような時、私たちは一時的に「私」という殻を忘れ、世界と一体になるような感覚を味わうことがあります。これもまた、広義の禅的な体験と言えるかもしれません。

禅の体験は、本質的に個人的なものであり、言葉で完全に説明することは困難です。なぜなら、それは言葉や論理が生まれる以前の、直接的な経験の領域に属するものだからです。「不立文字」の教えが示すように、言葉は体験を指し示すことはできても、体験そのものになることはできません。だからこそ、禅は知識や理論だけでなく、実践と体験を何よりも重視するのです。静かに坐り、呼吸を感じ、現れては消える思考や感情を見守る。その地道な実践の先に、言葉を超えた静かな、しかし確かな変容の体験が待っているのかもしれません。

 

現代における禅:ヨーガとの対話、そして日常への架け橋

情報化が進み、変化のスピードが加速する現代社会において、禅の持つ価値は、ますます重要性を増しているように思われます。ストレスや不安、心の渇きを感じる人々が、禅やマインドフルネスに関心を寄せるのは、ある意味で必然的な流れなのかもしれません。

現代における禅の意義の一つは、私たちに「立ち止まる」時間と空間を提供してくれることです。常に外部からの刺激に晒され、効率や成果を求められる日常の中で、意識的に外界との接続を断ち、自己の内面へと深く沈潜する坐禅の時間は、現代人にとって貴重な「内なる休息」となり得ます。それは単なる休息ではなく、自己を見つめ直し、心のバランスを取り戻すための、積極的な営みです。

また、禅の思想は、近年注目を集める「ミニマリズム」の考え方とも深く響き合います。ミニマリズムは、単に物質的な所有物を減らすことだけでなく、情報、人間関係、思考といった、目に見えないものも含めて、過剰なものを手放し、本当に大切なものに焦点を当てる生き方を目指します。禅が説く「足るを知る」の精神や、執着を手放すことの重要性は、まさにミニマリスト的な価値観と重なります。私たちは、物質的な豊かさや外部からの評価によってではなく、自己の内なる静けさや充足感によって、真の豊かさを見出すことができるのではないか。禅は、そのような問いを私たちに投げかけます。

さて、このサイトのテーマであるヨーガとの関係性において、禅はどのような位置づけになるのでしょうか。ヨーガ、特に瞑想を重視するラージャ・ヨーガや、その基礎となるハタ・ヨーガの実践者にとって、禅は非常に親和性の高い探求の道と言えるでしょう。

ヨーガも禅も、**身体性(Embodiment)**を重視する点で共通しています。ヨーガのアーサナ(坐法、体位)は、単なる身体的なエクササイズではなく、心身のバランスを整え、内なる気づきを深めるための手段です。禅の坐禅における調身(姿勢)も同様に、安定した身体の土台が、心の静寂と覚醒を支えることを理解しています。身体感覚への繊細な注意は、両者に共通する重要な要素です。

呼吸への意識も、ヨーガと禅を結びつける重要な鍵です。ヨーガのプラーナーヤーマ(調息法)は、生命エネルギー(プラーナ)をコントロールし、心を制御するための洗練された技術体系です。禅における調息もまた、呼吸を「今、ここ」への錨として用い、心を静め、集中力を高めるための基本的な実践です。呼吸を通して、私たちは自己の最も根源的な生命活動と繋がり、思考の喧騒から離れることができます。

そして、意識のコントロールと観察は、ヨーガのディヤーナ(静慮、瞑想)と禅の坐禅(特に調心)において、核心的なテーマとなります。心の働き(思考、感情、記憶)に気づき、それにとらわれずに客観的に観察する能力は、ヨーガにおいても禅においても、自己理解と解放への道筋として重視されます。ヨーガ・スートラが説く「チッタ・ヴリッティ・ニローダハ」(心の作用の止滅)と、禅が目指す「無心」や「平常心」は、表現こそ異なりますが、心の波立ちから解放された、静かで明晰な意識状態という共通の方向性を示唆しているように思われます。

もちろん、ヨーガと禅の間には、歴史的背景や思想的ニュアンス、実践の細部において相違点も存在します。例えば、ヨーガ哲学におけるアートマン(真我)とブラフマン(宇宙原理)の一致(梵我一如)という考え方と、仏教(禅)における無我(anātman)や空(śūnyatā)の思想は、表面的には異なるように見えるかもしれません。しかし、両者が目指しているのは、究極的には、苦しみからの解放、自己の本質の覚知、そして世界の真実との一体化という、普遍的な人間の願いであると言えるのではないでしょうか。ヨーガのサマーディ(三昧)と禅の悟り(見性)は、異なる言葉で語られる、同じ山の頂なのかもしれません。

ヨーガの実践者が禅を探求することは、自身のプラクティスに新たな視点と深みをもたらす可能性があります。逆に、禅の実践者がヨーガの身体的なアプローチを取り入れることで、心身の統合がより深まるかもしれません。両者は互いに補完し合い、私たちの自己探求の旅を豊かにしてくれる、二つの信頼できる道しるべとなり得るのです。

 

おわりに:終わりなき探求の始まり

禅とは何か。この問いに対する答えは、言葉による定義の中には見出しにくいのかもしれません。禅は、特定の宗教や宗派の枠を超えた、人間が本来的にもつ「気づき」の能力を磨き上げ、自己と世界の真実を探求するための、洗練された実践体系であり、生き方そのものであると言えるでしょう。

その道は、静かに坐ることから始まります。姿勢を調え、呼吸を感じ、現れては消える心の働きを、ただ静かに見守る。その地道な実践を通して、私たちは、日常の喧騒の中で見失いがちな、内なる静寂と繋がり直すことができます。そして、その静寂の中から、これまで気づかなかった自己の姿や、世界の新たな側面が見えてくるかもしれません。

禅の体験は、劇的な悟りの瞬間だけではありません。日常生活の中で、ふとした瞬間に感じる安らぎ、目の前の作業への没入、他者への共感、あるいは、ただ「今、ここ」に在ることの確かさ。そのようなささやかな気づきの積み重ねが、私たちの人生を少しずつ、しかし確実に豊かにしていくのではないでしょうか。

ヨーガの実践者にとっても、禅の視点や実践は、新たな発見と深化の機会を与えてくれるはずです。身体、呼吸、意識という共通のテーマを通して、両者は互いに響き合い、私たちの探求をより多角的で奥深いものにしてくれるでしょう。

この記事は、禅という広大な海への、ほんの小さな入り口を示したに過ぎません。真の理解は、知識を得ることだけではなく、自ら実践し、体験することの中にしかありません。もし、あなたが禅の世界に少しでも心を動かされたなら、ぜひ、静かに坐る時間を作ってみてください。難しく考える必要はありません。ただ、呼吸と共に、「今、ここ」に在ることから始めてみてはいかがでしょうか。

禅の探求は、どこか遠い場所にある特別なゴールを目指すものではなく、私たち自身の日常の中に、そして自己の内側に、無限に広がる可能性を発見していく、終わりなき旅なのです。その旅路が、あなたにとって実り多いものとなることを願っています。

 

 

ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。

 

 


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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。