私たちは、幼い頃から「人にやさしくしなさい」「他人の気持ちを考えなさい」と教えられて育ちます。この他者への配慮や思いやりは、社会を円滑に機能させる上で不可欠な、美しい徳目であることは間違いありません。しかし、この教えには、しばしば重要な視点が抜け落ちています。それは、「自分自身」という、最も身近で、最も大切な他者への配慮です。
多くの誠実で真面目な人ほど、「自分に厳しく、他人に優しく」というモットーを内面化し、自分自身をないがしろにしてしまいます。無理な要求を自分に課し、小さな失敗を厳しく責め立て、心と身体が発する疲労のサインを無視し続ける。もし、これと同じことを親しい友人にしたとしたら、それは紛れもない「虐待」と呼ばれるでしょう。なぜ私たちは、他人には決してしないような残酷な仕打ちを、自分自身に対しては平気で、あるいは無意識のうちに行ってしまうのでしょうか。この倒錯した関係性を、私たちは今こそ見つめ直す必要があります。
自己犠牲という名の暴力
自分を犠牲にして他者に尽くす行為は、しばしば「美徳」として賞賛されます。しかし、その自己犠牲が、自己否定や自己嫌悪から発している場合、それは誰の幸福にも繋がりません。自分自身を価値のない存在だと感じているがゆえに、他者からの承認や感謝を得ることでしか、自らの存在価値を確認できない。この構造は、他者との間に不健全な依存関係を生み出し、与える側も受け取る側も、静かに疲弊させていきます。
この根底には、現代社会が押し付ける画一的な「あるべき姿」という神話があります。常に前向きで、生産的で、他者の役に立つ人間でなければならない。この窮屈な理想像に自分を無理やり押し込もうとするとき、私たちはありのままの自分、つまり、弱さも、醜さも、矛盾も抱えた生身の人間としての自分を、否定し、罰するようになります。
私たちは、自分の中に厳しい「内なる批評家」を住まわせ、四六時中、自分の言動を監視させ、少しでも「あるべき姿」から逸脱すれば、容赦ない言葉で罵らせるのです。「なぜもっと頑張れないんだ」「だからお前はダメなんだ」と。この内なる声は、私たちのエネルギーを奪い、挑戦する意欲を削ぎ、生きる喜びを枯渇させていきます。これは、目に見えない、しかし最も深刻な形の「暴力」と言えるでしょう。
「アヒンサー(非暴力)」を自分に向ける
ヨガの哲学において、すべての実践の土台となる最も重要な教えは、「アヒンサー(Ahimsa)」、すなわち「非暴力」です。これはヤマ(禁戒)の第一項目であり、他のすべての教えは、このアヒンサーを実践するためにある、と言っても過言ではありません。
多くの人は、アヒンサーを「他者を傷つけないこと」と解釈します。もちろんそれは正しいのですが、ヨガの叡智は、その非暴力の対象に「自分自身」をも含めることを、明確に要求します。自分自身の心と身体に対して、暴力を振るわないこと。これこそが、アヒンサーの、そしてあらゆる精神的実践の、本当の始まりなのです。
仏教においても、「慈悲」の教えは、まず自分自身を慈しむことから始まると説かれます。自分が満たされていない状態では、他者に対して真の慈しみを持つことはできないからです。枯れた井戸からは、誰も水を汲むことはできません。まず、自分自身の内なる井戸を、慈愛と許しで満たしてあげること。そうして溢れ出たものが、自然な形で他者へと流れ出していく。これこそが、「自利利他(じりりた)」という、健全で持続可能な関係性のあり方です。
自分を大切にすることは、決して利己的な行為ではありません。それは、他者と、そして世界と、より良い関係を築くための、最も基本的な責任なのです。
自分自身と和解するための実践
では、私たちはどのようにして、「他人にしたくないこと」を自分にしない、というアヒンサーの実践を、日常に取り入れていけばよいのでしょうか。
第一歩は、「気づく」ことです。自分が無意識のうちに、どのような言葉で自分を責めているのか。どのような無理を自分の身体に強いているのか。その声や行動に、まるで他人のことのように、客観的な注意を向けてみることです。瞑想やジャーナリングは、この内なる対話を可視化するための、優れたツールとなります。
次に、自分自身の心と身体が発する「声」に、真摯に耳を傾ける練習を始めましょう。「疲れた」「休みたい」「それはやりたくない」。これらの声は、わがままなのではなく、あなたの生命が発している、正直で切実なサインです。そのサインを無視し続けるのではなく、まずはただ、受け止めてあげる。「そうか、疲れているんだね」と。この受容の態度が、自己との信頼関係を再構築する基礎となります。
そして、意識的に自分をケアする時間を、スケジュールの中に確保することです。それは、ヨガマットの上で深く呼吸をする時間かもしれませんし、好きな音楽を聴きながら散歩をする時間かもしれません。重要なのは、それを「ご褒美」や「息抜き」としてではなく、生きていく上で不可欠な「メンテナンス」として位置づけることです。
友人から相談を受けたとき、あなたならきっと、温かい言葉をかけ、その人のありのままを受け入れ、休むことを勧めるでしょう。今日から、その同じ優しさを、世界で一番あなたに近い存在である、あなた自身に向けてあげてください。完璧ではない自分、弱い自分、失敗する自分を、そっと抱きしめてあげること。その静かな和解の中にこそ、真の強さと、揺るぎない心の平和が育まれていくのです。


