もくじ.
はじめに:古代人の眼差しと宇宙の息吹
現代に生きる私たちは、世界をどのように捉えているでしょうか。科学的な知識によって、天体の動きは物理法則で説明され、季節の移ろいは地球の公転と地軸の傾きによって解明されています。私たちは、世界の仕組みを「知って」います。しかし、その知識は時として、世界から神秘のヴェールを剥ぎ取り、私たちと自然との間に一枚の透明な壁を作ってしまうことがあるのかもしれません。
それでは、遥か古代、紀元前1500年頃のインド・アーリヤ人たちは、どのような眼差しで世界を見つめていたのでしょうか。彼らが残した最古の聖典『リグ・ヴェーダ』を紐解くと、そこには驚きと畏敬に満ちた世界観が広がっています。毎朝、東の空から太陽が昇り、夜には月や星々が寸分の狂いもなく天空を巡る。雨季が訪れれば川は溢れ、大地を潤し、やがて豊かな実りをもたらす。この壮大で規則正しい自然の営み。それは彼らにとって、決して「当たり前」のことではありませんでした。その背後には、何か計り知れない偉大な「秩序」が存在している。彼らはそう直感したのでした。
この宇宙全体を貫き、森羅万象を生かしめている根源的な秩序、その調和した動きそのものを、彼らは「リタ(ṛta)」と呼びました。本稿では、この「リタ」という古代インド哲学の核心的な概念を深く掘り下げていきます。そして、この宇宙的・自然的な秩序であったリタが、なぜ、そしてどのようにして、後のインド思想の根幹をなす「ダルマ(dharma)」という社会的・人間的秩序の概念へと変遷していったのか、その壮大な思想の旅路を辿ってみたいと思います。それは、古代の人々が宇宙と、そして自らの生き方と、いかに真摯に向き合っていたかを理解する旅であり、翻って現代の私たちが失いかけている世界との繋がり方を再発見する旅にもなるはずです。
リタとは何か:宇宙を支える見えざる法則
「リタ」は、サンスクリット語の動詞「ṛ(動く、適合する、行く)」に由来する言葉です。その語源が示すように、リタは静的な「法則」というよりも、むしろ「正しく整然とした動き」や「調和のとれた運行」といった、ダイナミックなニュアンスを持っています。それは、宇宙の根本原理であり、万物が従うべき真理であり、道徳的な秩序の基盤でもありました。
『リグ・ヴェーダ』の讃歌の中では、リタは様々な形で立ち現れます。
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自然界におけるリタ:最も分かりやすいリタの現れは、自然現象の規則性です。太陽の昇降、昼夜の交代、季節の循環、河川が常に海へと向かって流れること。これらすべてがリタの働きによるものとされました。「リタの道(ṛtasya panthāḥ)」という表現がしばしば使われますが、これは太陽が毎日通る天空の道筋などを指し、宇宙の運行がリタという軌道の上を正確に進んでいることを示唆しています。それは、今日の私たちが「自然法則」と呼ぶものに近いですが、より生命的で、意志を持った秩序として捉えられていた点が大きく異なります。
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神々とリタの関係:興味深いことに、ヴェーダの神々でさえも、このリタを超越する存在ではありませんでした。むしろ、神々はリタに従い、それを守護する役割を担っていました。特に天空神ヴァルナは、「リタの守護者(ṛtasya gopa)」と呼ばれ、リタの監督者として重要な位置を占めます。ヴァルナは天にあって、地上の人々の行いを見通し、リタに背く者、すなわち嘘をつく者や不正を働く者(アンリタ anṛta を行う者)に罰を与えるとされました。太陽神スーリヤもリタの道を運行し、暁の女神ウシャスもリタに従って毎朝現れます。神々がその力を発揮できるのも、彼らがリタという宇宙の根本秩序と調和しているからこそなのです。神ですら従うこの秩序は、ヴェーダの世界観において、神々をも超えた至高の原理であったことが窺えます。
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儀式(ヤジュニャ)におけるリタ:ヴェーダ時代の人々にとって、儀式(ヤジュニャ)は極めて重要な意味を持っていました。それは単なる神々への祈りや供物の奉納ではありません。儀式とは、宇宙におけるリタの働きを、地上において模倣し、再演することでした。祭壇に火(アグニ)を灯し、定められた手順で供物を捧げ、マントラ(讃歌)を正確に唱える。この一連の行為は、宇宙の秩序を地上で再確認し、その維持に積極的に貢献する営みだったのです。火神アグニは、人間から神々へ供物を運ぶ使者であり、天上のリタを地上にもたらす媒体と考えられました。したがって、儀式を正しく執り行うことは、リタを強化し、世界の調和を保つために不可欠な人間の責務とされたのです。
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リタとサティヤ(真理):リタは、道徳的な領域にも深く関わっていました。リタはしばしば「サティヤ(satya)」、すなわち「真理」や「真実」という言葉と対で語られます。サティヤは、単に事実として正しいということだけではなく、「真実を語ること」「誠実であること」という倫理的な意味合いを含みます。リタという宇宙の真理と調和した生き方とは、サティヤを実践すること、つまり、嘘偽りのない誠実な生き方をすることに他なりませんでした。嘘や偽り、不正を意味する「アンリタ(anṛta)」は、リタの対極にあり、宇宙の秩序を乱し、世界の調和を破壊する行為として厳しく戒められました。ヴァルナ神がアンリタを罰するのは、それが宇宙の根本原理に対する裏切りだからです。
このように、リタは自然、神々、儀式、道徳という、世界のあらゆる領域を貫く、包括的で根源的な秩序の概念でした。それは、古代インドの人々が、自分たち人間もまた、この壮大な宇宙のハーモニーの一部であるという、深い一体感の中に生きていたことを物語っています。
思想の変遷:なぜリタはダルマにその座を譲ったのか
このようにヴェーダ思想の中心にあったリタですが、ウパニシャッド期を経て、叙事詩や法典が編纂される時代になると、その言葉は徐々に影を潜め、代わりに「ダルマ(dharma)」という概念が思想の中心へと躍り出てきます。この思想的変遷は、インド社会と世界観の大きな変化を反映しており、非常に興味深いプロセスです。
なぜ、宇宙的秩序であったリタは、人間的・社会的秩序であるダルマにその座を譲る必要があったのでしょうか。いくつかの要因が考えられます。
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社会構造の変化:ヴェーダ初期の社会は、比較的素朴な部族社会であったと考えられます。しかし、時代が下るにつれて、農耕が定着し、社会はより複雑化・階層化していきます。特に、バラモン(祭司)、クシャトリヤ(王侯・武人)、ヴァイシャ(庶民)、シュードラ(隷民)という四つのヴァルナ(階級)から成る社会制度が確立されると、人々の関心は、壮大な宇宙の秩序よりも、この社会の中でいかに生きるべきか、という具体的な規範へと移っていきました。宇宙の法則であるリタは、個人の具体的な行動指針を示すにはあまりにも壮大で、抽象的すぎたのです。
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思想の焦点の移行:ウパニシャッド期(紀元前800年頃~)になると、哲学的な思索の関心は、外界の神々や宇宙の秩序から、人間の内面へと向けられるようになります。「私とは何か(アートマン)」、「宇宙の根源とは何か(ブラフマン)」という問いが哲学の中心テーマとなり、儀式の外面的な正しさよりも、内面的な知恵(ジュニャーナ)による解脱(モークシャ)が重視されるようになりました。この内面化のプロセスの中で、宇宙的なリタは、より人間一人ひとりの生き方に関わるダルマという概念へと再編成されていったと考えられます。
「ダルマ」は、サンスクリット語の動詞「√dhṛ(支える、維持する、保つ)」に由来し、「定め」「法」「義務」「正義」「道徳」「属性」など、文脈によって極めて多様な意味を持つ言葉です。その根源的な意味は、「世界と社会を支えるもの」であり、この点ではリタの思想を受け継いでいると言えます。しかし、リタとダルマには明確な違いがあります。
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普遍性から個別性へ:リタが全宇宙に等しく適用される普遍的な秩序であったのに対し、ダルマは個人の立場や状況に応じてその内容が変化する、個別的・具体的な規範です。特に、ヴァルナ(階級)とアーシュラマ(学生期、家住期、林住期、遊行期という人生の段階)に応じて、それぞれが果たすべき固有の義務、すなわち「スヴァダルマ(svadharma)」が定められました。例えば、クシャトリヤのダルマは国を守り戦うことであり、バラモンのダルマはヴェーダを学び儀式を執り行うことです。
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天上的秩序から地上的実践へ:リタが神々によって守護される天上的な秩序であったのに対し、ダルマは人間が主体的に「実践」し、「維持」すべき地上的な秩序としての性格を強めます。もちろん、ダルマの根拠は天上の神々や聖典に求められましたが、その遂行の責任は個々の人間に委ねられました。『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』といった偉大な叙事詩は、まさにこのダルマを巡る人々の葛藤や苦悩を描いた物語に他なりません。特に有名な『バガヴァッド・ギーター』では、親族と戦うことをためらう主人公アルジュナに対し、クリシュナ神がクシャトリヤとしてのスヴァダルマを全うすることの重要性を説きます。ここで「ダルマとは何か」という問いは、極めて深刻な実践的課題として突きつけられるのです。
このようにして、宇宙の壮大なハーモニーであったリタは、社会を支え、個人の生き方を規定するダルマという、より具体的で実践的な概念へと姿を変えていきました。それは、思想が天から地へ、宇宙から人間へと降りてきたプロセスとも言えるでしょう。
ダルマのその先と、リタの遺産
ダルマの概念は、その後さらに発展し、人々の生活の細部にわたる規範を定めた『マヌ法典』などの法典(ダルマ・シャーストラ)として成文化されていきます。また、インドから生まれた仏教においても、釈迦の教えそのものが「ダンマ(法)」(パーリ語。サンスクリット語のダルマに相当)と呼ばれ、中心的な概念となりました。
では、ダルマの台頭によって、リタの思想は完全に消え去ってしまったのでしょうか。そうではありません。ダルマという概念の深層には、常にリタという宇宙的調和への憧憬が、地下水脈のように流れ続けています。個人が自らのスヴァダルマを誠実に実践することは、単に社会的な義務を果たすだけでなく、それを通じて宇宙全体の秩序(リタ)の維持に貢献することだと考えられていたからです。個人の倫理的な生き方が、宇宙のハーモニーと分かちがたく結びついている。この壮大な世界観こそ、リタがダルマに残した最も重要な遺産なのです。
結論:リタが現代に語りかけるもの
私たちは今、リタという遥か古代の概念から、何を学び取ることができるでしょうか。
一つは、自然との共生という視点です。環境破壊が地球規模の課題となっている現代、私たちは自然を支配し、利用する対象として捉えがちです。しかし、リタの思想は、自然を生命的な秩序を持つ存在として捉え、人間もその一部であるという謙虚な姿勢を教えてくれます。縁側で感じる風のそよぎ、木々の葉音、太陽の温もり。その一つひとつが、リタという宇宙の大きな呼吸の現れだと感じることができたなら、私たちの自然への態度は自ずと変わってくるのではないでしょうか。
二つ目は、身体感覚との接続です。私たちの身体もまた、心臓の鼓動、呼吸のリズム、細胞の新陳代謝といった、精緻なリタ(秩序)によって生かされています。ヨガのアーサナやプラーナーヤーマの実践は、まさにこの身体の内に宿るリタと、宇宙のリタとを再び結びつけ、調和させる試みと解釈することができます。ポーズの安定と呼吸の静けさの中に、私たちは宇宙の秩序との一体感を取り戻すことができるのです。
三つ目は、「当たり前」への感謝です。毎日、何事もなく陽が昇り、夜が訪れること。蛇口をひねれば水が出ること。私たちの日常は、無数の「当たり前」という奇跡の上に成り立っています。リタの思想は、これらの当たり前が、実は宇宙の偉大な秩序によって支えられているのだという畏敬の念を思い出させてくれます。それは、日常の中に潜む豊かさと感謝を再発見する眼差しです。
そして最後に、リタからダルマへの変遷は、私たちに**「自分の役割」と「宇宙」との関係**を問いかけます。私たちが社会の中で果たすべき役割(ダルマ)は、決して孤立したものではなく、より大きな生命の網の目の一部です。自分の仕事や家庭での役割を誠実に果たすことが、巡り巡って世界全体の調和に貢献している。そう考えることで、日々の営みに新たな意味と尊厳を見出すことができるかもしれません。
リタからダルマへ。それは、古代インド思想が宇宙から人間へとその焦点を移していった、思考の成熟のプロセスでした。しかし、その根底に流れる「世界は調和した秩序に満ちている」という信頼感は、現代に生きる私たちが見失いがちな、最も大切な感覚かもしれません。リタの思想に耳を傾けることは、科学的知識の向こう側にある、世界の生命的な息吹を再び感じ取り、私たち自身の生が壮大な宇宙のハーモニーの一部であることを思い出すための、貴重な旅となるでしょう。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。






