スマートフォンの通知音に、ビクッと身体が反応してしまうことはありませんか?
信号待ちのたった30秒の間に、手持ち無沙汰で画面をスクロールしていませんか?
あるいは、映画を倍速で見ないと「時間がもったいない」と感じてしまう焦燥感。
私たちは今、かつてないほどの「刺激中毒」の只中にいます。
強い味付けの料理しか美味しく感じられないように、強い情報の刺激がないと、自分が生きている感覚すら希薄になってしまっているのです。
EngawaYogaでは、あえて「退屈な時間」を推奨しております。
なぜなら、この刺激の波に呑まれたままでは、私たちは永遠に自分自身に出会うことができないからです。
今回は、現代病とも言えるこの「刺激中毒」について、ヨガ哲学と社会批評の視点から、少々批判的に、しかし愛を持って論じてみたいと思います。
もくじ.
現代人を蝕む「刺激中毒」とは何か
まず、言葉を定義しておきましょう。
「刺激中毒」とは、脳がドーパミン(快楽物質)の即時的な報酬を求め続け、静寂や何もしない時間を「苦痛」や「退屈」として拒絶してしまう状態を指します。
これは個人の意志が弱いから起きるのではありません。
現代の資本主義社会、とりわけアテンション・エコノミー(注意経済)が、私たちの「注意力」を商品として奪い合うように設計されているからです。
テクノロジー企業は、脳科学を駆使して、私たちがスマホから目を離せない仕組みを作り上げました。私たちは、知らないうちにそのラットレースに参加させられているのです。
なぜ私たちは刺激を求め続けるのか:5つの批判的理由
なぜ、これほどまでに私たちは静寂を恐れ、刺激を求めてしまうのでしょうか。その背景には、現代社会特有の病理が潜んでいます。ここに5つの理由を挙げます。
1. 「空白」への根源的な恐怖(パスカル的課題)
17世紀の哲学者パスカルは「人間の不幸などというものは、部屋にじっとしていられないことから起こる」と喝破しました。私たちは、思考の空白を恐れています。静かになると、将来の不安や過去の後悔、あるいは「自分は何者か」という実存的な問いが浮かび上がってくるからです。それらと直面する恐怖から逃れるために、私たちは手軽なエンターテイメントという「麻酔」を打ち続けているのです。
2. 資本主義による「不足感」の植え付け
市場原理は、私たちが「満たされている」と困ります。満足した人はモノを買わないからです。ですから、常に「新しい情報」「新しい体験」「新しい商品」という刺激を提示し、「これを知らないあなたは遅れている」「これを持たないあなたは不完全だ」と囁きかけます。この終わりのない欠乏感が、次なる刺激への渇望を生み出しています。
3. ドーパミン・ループの奴隷化
ショート動画やSNSの「いいね」は、予測不能な報酬として脳に強烈なドーパミンを放出させます。これはギャンブルと同じ中毒性を持っています。脳は「もっと、もっと」と要求し、より強い刺激でないと満足できない身体になっていきます。これはもはや、自律神経の暴走と言っても過言ではありません。
4. 身体感覚の麻痺(ディスクレパンシー)
頭(思考)ばかりが肥大化し、身体の微細な感覚を感じ取る能力が著しく低下しています。身体の声が聞こえないため、「疲れている」のか「退屈している」のかの区別さえつきません。感覚が鈍麻しているため、激しい音楽や強い光、過激な言葉といった「強い刺激」で叩かないと、何も感じられなくなっているのです。
5. エゴによる「ドラマ」への執着
私たちのエゴ(自我)は、常に自分が主人公であるドラマを求めています。トラブル、悲劇、論争、激しい感情の起伏。これらはエゴにとっての大好物です。平和で何事もない日常は、エゴにとっては「死」に等しい。だからこそ、ネット上の炎上や他人のゴシップという刺激的なドラマを摂取し、自分があたかも重要な存在であるかのように錯覚しようとするのです。
現代ヨガが陥る罠:ヨガまでもが「刺激」になっていないか
ここで、ヨガ業界に対しても批判的な視座を持たねばなりません。
本来、刺激中毒の解毒剤であるはずのヨガが、現代では逆に「新たな刺激」として消費されている側面があるからです。
-
大音量の音楽の中で動くヨガ
-
極度の発汗や筋肉痛を「達成感」とするヨガ
-
難易度の高いポーズをSNSで披露するためのヨガ
これらは、交感神経を極限まで高める行為であり、本質的には「刺激の追求」です。
もちろん、入り口としては素晴らしいものです。身体を動かす喜びは何物にも代えがたい。
しかし、もしヨガを終えた後に「あースッキリした!さあ、次の仕事だ!」と、エナジードリンクを飲んだような高揚感だけを求めているのであれば、それは刺激中毒のループから抜け出せていない可能性があります。
それは「ヨガ」というよりは、「ヨガの皮を被ったエンターテイメント」かもしれません。
本来のヨガは、もっと地味で、退屈で、静かなものです。
ヨガ哲学が教える解決策:「プラティヤハラ」と「退屈」の復権
ヨガの経典『ヨガ・スートラ』には、八支則という教えがあります。その第5段階に「プラティヤハラ(制感)」という概念があります。
これは、外に向かっている五感のアンテナを内側に引き込み、外部からの刺激を遮断する実践のことです。
亀が手足を甲羅の中に引っ込めるように、私たちも情報の奔流から意識を引き剥がさなくてはなりません。
そのための特効薬が、あえて「退屈すること」です。
1. 退屈こそが、回復への扉
何もしないで座っていると、最初はソワソワします。「スマホを見たい」「何か生産的なことをしなきゃ」という禁断症状が出ます。
しかし、そのザワザワを超えた先に、凪のような静寂が訪れます。
刺激がない状態に脳が慣れた時、初めて副交感神経が優位になり、本当の意味での回復が始まります。
2. 「微細なもの」を味わう感性を取り戻す
刺激中毒から抜けると、味覚が変わります。ジャンクフードではなく、素材の味がわかるようになります。
同じように、人生の味わい方も変わります。
派手なイベントがなくても、吸う息の温度、畳の感触、窓から入る風の音だけで、深い充足感を感じられるようになります。
これこそが、ヨガが目指す「サントーシャ(知足)」の境地です。
3. シャヴァーサナの練習
ヨガの最後に行うシャヴァーサナ(屍のポーズ)は、単なる休憩ではありません。
「意図的に何もしない」という高度な練習です。
思考を手放し、肉体の重みを預け、ただ「在る」ことだけに寛ぐ。
これは、生産性と刺激を強要する現代社会に対する、静かなるレジスタンス(抵抗)でもあります。
終わりに:情報の海から、縁側へ上がろう
私たちは、情報の海で溺れかけています。
泳ぐのをやめたら沈んでしまうという強迫観念に駆られ、必死に手足を動かし続けています。
しかし、本当は溺れてなどいないのかもしれません。ただ、陸に上がればいいのです。
EngawaYogaが提案するのは、その「陸」としての縁側です。
ここでは、通知音は鳴りません。
誰かと比較する必要もありません。
ただ座り、ぼんやりと庭を眺める。
「ああ、退屈だな」と感じる。
その「退屈」こそが、あなたの脳と心を癒やす、最高の薬となるのです。
今日一日、少しだけスマホを遠くに置いてみませんか。
そして、自分自身の呼吸という、最も身近で、最も退屈で、しかし最も生命力に溢れたリズムに耳を傾けてみてください。
刺激を手放した手の中にだけ、本当の安らぎは舞い降りてくるのですから。
ではまた。


