行動を推奨しております。
なぜなら、行動だけが「心配」という実体のない霧を晴らす唯一の風だからです。
私たちは日々、膨大な量の心配事を抱えて生きています。
「失敗したらどうしよう」「人になんて言われるだろうか」「準備はこれで十分だろうか」
そうやって思考を巡らせている時間は、一見すると問題を解決しようとしている「真面目な時間」のように思えます。
しかし、厳しいことを申し上げますと、それは単なるエネルギーの停滞です。
悩んでいる時、私たちは前に進んでいるのではなく、同じ場所で足踏みをして、地面に深い穴を掘っているだけかもしれません。
ヨガや東洋思想、そして現代の量子力学的な世界観(トランサーフィンなど)の視点から見ると、心配とは「過剰ポテンシャル」を生み出し、望む現実を遠ざける最大の要因となります。
今日は、なぜ私たちは心配してしまうのか、そしてどうすればその重荷を下ろして、軽やかに最初の一歩を踏み出せるのかについて、少し深く、そして静かに語り合いたいと思います。
もくじ.
心配の正体とは「過剰な重要性」である
そもそも、なぜ心配という感情が湧き上がるのでしょうか。
そのメカニズムを解き明かす鍵は、「重要性」という概念にあります。
リアリティ・トランサーフィンという思想体系では、私たちが対象に対して過度な意味や意義を与えた時、「過剰ポテンシャル」というエネルギーの歪みが発生すると説いています。
例えば、近所のコンビニに新聞を買いに行くとします。
この時、「道中で転んだらどうしよう」「新聞が売り切れていたら私の人生は終わりだ」と心配して足がすくむ人はまずいません。
なぜなら、そこには「重要性」がないからです。ただ、買いに行き、手に入れる。それだけの行為です。
しかし、これが「人生をかけたプレゼン」や「運命の人への告白」になった途端、私たちは動けなくなります。
対象を重要視しすぎているからです。
「絶対に失敗できない」「これがダメなら全て終わりだ」と、その出来事に過剰な重みを与えてしまっています。
この偏ったエネルギーのバランスをとろうとして、平衡力という力が働き、結果として「失敗」や「停滞」という形でバランスを取り戻そうとする現象が起こります。
心配とは、あなたがその対象を「重く」しすぎているというサインです。
重要性を下げなさい、というアラートなのです。
物事の価値を下げるということではありません。
「まあ、どうなっても大丈夫だろう」「なるようになるさ」という、ある種の軽やかさを持つこと。
重要性をゼロに近づけた時、障害物は消え去り、行動は「コンビニに行く」のと同じくらいシンプルなものになります。
思考は「過去」か「未来」にしか存在できない
ヨガ哲学の観点からも見てみましょう。
ヨガの根本経典『ヨーガ・スートラ』では、心の作用(チッタ・ヴリッティ)を止滅させることがヨガであると説かれています。
私たちが「心配」している時、心はどこにあるでしょうか。
間違いなく、「今、ここ」にはいません。
過去の失敗の記憶を反芻しているか、まだ来ぬ未来の災厄を妄想しているかのどちらかです。
「思考」というものは、構造的に「今」を捉えることが苦手です。
思考は常に比較し、分析し、予測する機能だからです。
つまり、考えれば考えるほど、私たちは「今」という唯一の実在から乖離していきます。
これが「迷い」の正体です。
一方で、「行動」は常に「今、ここ」でしか行えません。
手を動かす、足を前に出す、呼吸をする。
これらはすべて現在進行形の営みです。
だからこそ、行動した瞬間に心配は消えるのです。
身体を動かすことによって強制的に意識が「今」に引き戻され、未来への妄想(心配)が入る隙間がなくなるからです。
「案ずるより産むが易し」という言葉は、単なる精神論ではなく、意識の所在を「思考(未来)」から「身体(現在)」へとシフトさせるための、極めて実践的なメソッドなのです。
準備をしすぎると動けなくなるパラドックス
真面目な人ほど、入念な準備をします。
リスクを洗い出し、対策を練り、完璧な計画を立てようとします。
しかし、準備に時間をかければかけるほど、行動へのハードルは高くなっていきます。
なぜなら、準備そのものが「重要性」を積み上げる行為だからです。
「これだけ準備したのだから、失敗は許されない」
そうやって自分で自分を追い込んでしまいます。
また、情報を集めすぎると、私たちは「できない理由」を見つける達人になってしまいます。
「不況だから」「競合が多いから」「自分には才能がないから」。
脳は変化を嫌う臓器ですから、現状維持(ホメオスタシス)のために、もっともらしい言い訳を次々と提示してきます。
準備はそこそこでいいのです。
見切り発車で構いません。
走りながら考える、あるいは、走り出してから必要な装備を拾っていく。
そのくらいの「遊び感覚」が必要です。
人生は厳粛な試験会場ではなく、実験場であり、遊び場なのです。
失敗しても命までは取られませんし、そもそもヨガ的な視点で見れば、失敗という概念すら存在しません。
あるのは「経験」というデータだけです。
霊的な「流れ」を信頼するということ
ここで少し、スピリチュアルな側面にも触れておきましょう。
「自分でなんとかしなければ」と強く思っている時、私たちは「エゴ(自我)」の力だけで世界と戦っています。
これは非常に疲れる生き方です。
小さなボートを、自分の腕力だけで必死に漕いで、川の流れに逆らっているようなものです。
心配しないで行動するとは、「流れ(フロー)」を信頼することでもあります。
ヨガではこれを「イーシュヴァラ・プラニダーナ(神への祈念・委ねること)」と呼びます。
特定の神様を信じろということではありません。
自分を超えた大きな力、宇宙の摂理、あるいは生命の大きな流れといったものを信頼し、そこに身を委ねる感覚です。
「私が」行動するのではなく、「私を通して」行動が起こる。
執着を手放し、結果を天に任せて、ただ目の前の行為に没頭する。
『バガヴァッド・ギーター』における「カルマ・ヨガ(行為のヨガ)」の教えです。
自分ひとりでコントロールしようとするから不安になるのです。
「まあ、大いなる何かがうまいことやってくれるだろう」と、どこかで腹を括る。
すると、不思議なことに「外的意図」と呼ばれる力が働き始め、思いもよらないサポートや偶然(シンクロニシティ)が起こり始めます。
自分で漕ぐのをやめた時、川の流れがボートを海へと運んでくれるのです。
小さな一歩が「現実」を変えるトリガーになる
では、具体的にどうすればいいのでしょうか。
答えはシンプルです。
「考える前に行動する」こと。
そして、その行動を「バカバカしいほど小さくする」ことです。
いきなり大きなプロジェクトを始めようとするから足がすくみます。
そうではなく、「参考書を机の上に置く」「ランニングシューズを玄関に出す」「PCの電源を入れる」。
この程度でいいのです。
この微細なアクションが、停滞していたエネルギーに風穴を開けます。
物理的な動きは、必ずメンタルな動きを引き起こします。
やる気があるから行動するのではなく、行動するからやる気が出るのです。
(これは脳科学的にも、側坐核という部位の性質として証明されています)
思考が「でも…」と言い出す前に、身体を動かしてしまいましょう。
心配という名の黒い雲は、行動という風が吹けば、あっという間に消え去ります。
その時、あなたは気づくはずです。
あれほど恐れていた怪物は、自分の影が作り出した幻影に過ぎなかったのだと。
終わりに:縁側で茶をすするように
人生を深刻に捉えすぎないでください。
私たちは、この地球という星に、少しの間だけ遊びに来ている旅行者のようなものです。
旅行中に「道に迷ったらどうしよう」と心配してホテルから一歩も出ないのは、あまりにも勿体無いことです。
迷ったら迷ったで、そこでまた新しい景色に出会えるかもしれません。
縁側に座って、庭を眺める時のように。
リラックスして、呼吸を整えて。
重要性を下げて、期待を手放して。
ただ、軽やかに、次の一歩を踏み出してみてください。
世界はあなたが戦うべき敵ではなく、あなたを映し出し、あなたと遊ぶのを待っている鏡のような存在なのですから。
心配するのをやめて、さあ、動き出しましょう。
あなたの魂は、その冒険を待ち望んでいます。
ではまた。



