ヨガインストラクターと聞いて、皆さんはどんな仕事を想像するでしょうか。
スタジオの前に立ち、「吸って、手を上げて」と声をかけ、美しいポーズの手本を見せる人。
もちろん、それも大切な役割の一つです。
しかし、私は常々感じています。
ヨガインストラクターが本当に提供できる価値は、マットの上よりも、むしろ「マットの外」にこそ、無限に広がっているのではないかと。
今日は、ポーズを教えること以上に私たちが社会に手渡せるものについて、少し考えてみたいと思います。
1. 「呼吸する場所」というセーフティネット
現代社会は、常に私たちに「何かになること」「何かを達成すること」を求めてきます。
そんな中で、インストラクターが提供できる最大の価値は、「何もしなくていい場所(サンクチュアリ)」を守る門番としての役割です。
クラスの時間、私たちが本当に伝えているのは、ポーズの形ではありません。
「今は、誰の期待にも応えなくていいですよ」
「今は、役割を脱いで、ただの命に戻っていいですよ」
という、無条件の許しです。
インストラクターがいることで、そこは安全な場所になります。
ジャッジされない、競争がない、ただ呼吸することだけが肯定される空間。
この「心理的な避難所」を提供することは、メンタルヘルスが叫ばれる現代において、医療にも匹敵する重要な社会的機能だと私は信じています。
2. 「聴く」という処方箋
ヨガのクラス前後、生徒さんとの何気ない会話の中に、インストラクターの真価が問われる瞬間があります。
「最近、眠れなくて」
「仕事でイライラしちゃって」
そんな時、私たちは解決策を急ぎません。
ただ、静かにその言葉を受け止め、共感し、その人の内側にある自己治癒力が動き出すのを待ちます。
ヨガインストラクターは、「聴く」ことのプロフェッショナルであるべきです。
自分の身体の声を聴く練習をしてきた私たちは、他者の心の声のトーン、息遣い、沈黙の行間にある想いを聴き取る感性を持っています。
誰かに深く話を聴いてもらえた時、人はそれだけで癒されます。
カウンセリングという看板を掲げなくても、私たちの在り方そのものが、誰かの心を解きほぐす処方箋になり得るのです。
3. 暮らしを整える「生活の智慧」
ヨガは、マットの上だけで完結するエクササイズではありません。
食事、睡眠、入浴、思考の癖、人間関係。
これらすべてを含んだ、「生きるための総合的な技術(アート・オブ・リビング)」です。
インストラクターは、自身の実験と実践を通じて、膨大な生活の智慧を蓄積しています。
季節の変わり目に、どう身体を温めるか(アーユルヴェーダ的知見)
怒りや不安が湧いた時、どう呼吸で鎮めるか(呼吸法の応用)
モノや情報に溢れた部屋を、どう整えるか(サウチャ/清浄の実践)
これらの知恵を、ブログやSNS、あるいは日常会話の中でシェアすること。
それは、生徒さんが自分の足で健やかに歩いていくための「地図」を手渡すようなものです。
クラス以外の時間でも、私たちは生徒さんの伴走者でいられるのです。
4. 「在り方」という無言のメッセージ
そして何より、インストラクター自身が「機嫌よく生きていること」。
これこそが、最強の提供価値ではないでしょうか。
常に完璧である必要はありません。
失敗しても、落ち込んでも、また呼吸に戻り、しなやかに立ち直る姿。
年齢を重ねることを恐れず、変化を楽しんでいる姿。
そんなインストラクターの背中を見た時、生徒さんは思います。
「ああ、あんな風に歳を重ねてもいいんだ」
「完璧じゃなくても、幸せでいられるんだ」
私たちが放つ雰囲気(ヴァイブレーション)は、言葉よりも雄弁にヨガの本質を伝えます。
私たちが、私たち自身であること。
それ自体が、誰かの希望や安心感になるのです。
ヨガクラスは、ほんの入り口に過ぎない
ヨガクラスは、生徒さんと出会うための「待ち合わせ場所」のようなものです。
そこで出会い、信頼関係を築いた先に、私たちが提供できることは山のようにあります。
ある時は、静かな森のような避難所として。
ある時は、人生を整える知恵袋として。
そしてある時は、共に道を歩む良き友人として。
「先生、クラスじゃないんですけど、ちょっと相談があって……」
そう声をかけられた時こそ、ヨガインストラクターとしての本当の仕事が始まるのかもしれません。
枠にとらわれず、もっと自由に。
私たちの持っている可能性を、この社会の隅々にまで届けていきましょう。
それが、EngawaYogaが目指す「日常へのヨガの浸透」なのです。


