ー答えを求める、私たちの渇きー
私たちは、「知ること」を絶対的な善とし、「わからないこと」を、避けるべき悪、あるいは克服すべき欠陥と見なす文明の中に生きています。親や教師は、「なぜ?」と問う子供の好奇心を奨励する一方で、最終的には、その問いに明確な「答え」を与えることを自らの責務と考えます。そして私たちは、成長するにつれて、答えられない問いを発することをためらい、「知らない」ことを恥じるようになります。
現代のテクノロジー、特にインターネットは、この「知りたい」という私たちの根源的な渇きを、かつてないレベルで満たしてくれるかのような幻想を与えます。指先で数回タップするだけで、世界の果ての出来事から、難解な専門用語の意味まで、あらゆる情報が即座に手に入る。この便利さは、私たちを「わからない」という、居心地の悪い宙吊りの状態から、瞬時に救い出してくれます。
しかし、この即座に答えが手に入る環境は、私たちから、ある重要な能力を奪い去ってはいないでしょうか。それは、答えのない問いと共にあり続ける力、不確実性や曖昧さの中に、苛立つことなく留まることができる、心のしなやかさです。私たちは、答えを急ぐあまり、問いそのものが持つ豊かさや、じっくりと思考を深めるプロセスを失ってしまっているのかもしれません。
今日、私たちは、この「知への渇望」という、知的で高尚に見える衝動の背後にある、深い不安を見つめます。そして、あえて「わからない」という状態に、自らの身を置いてみることを試みます。それは、知性を放棄することではありません。むしろ、知識や論理を超えた、より広大で、静かな知恵の領域へと、心を開くための、謙虚で、そして解放的な実践なのです。
知の限界を知らせる、古の賢者たち
「知ること」への過信を戒め、「わからないこと」の重要性を説く思想は、古今東西の叡智の中に、繰り返し現れてきました。
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、デルフォイの神託によって「最も賢い者」とされましたが、彼自身は、その理由を「自分が何も知らないということを、知っているからだ(無知の知)」だと解釈しました。彼の哲学的な対話(問答法)は、相手に答えを与えることではなく、むしろ、相手が自明のものとして信じ込んでいる知識がいかに不確かであるかを暴き出し、共に「わからない」という探求の出発点に立つことを目的としていました。
東洋においては、老子が「知る者は言わず、言う者は知らず」と喝破しました。世界の根源的な真理(道・タオ)は、言葉や論理で完全に捉えることのできるものではない。それを知ったと称して雄弁に語る者は、実は何もわかっていないのだ、と。この思想は、分析的な知性には限界があり、世界には、ただ直感し、感じることしかできない、神秘的な領域が存在することを示唆しています。
禅の修行で用いられる「公案」もまた、この「わからない」状態に留まるための、優れた訓練法です。「両親が生まれる前の、あなたの本来の面目は何か?」「隻手(せきしゅ)の声を聞け(片手で拍手したときの音を聞け)」。これらの問いは、論理的な思考では決して答えにたどり着けません。修行僧は、答えが出ないまま、何年も、何十年も、その問いを心の中で抱き続けます。このプロセスを通じて、彼らは、答えを性急に求める知性の働きを一度手放し、理性では到達できない、飛躍的な次元の悟り(見性)へと導かれるのです。
これらの叡智は、共通して、私たちにこう語りかけています。「わからない」は、思考の停止や敗北ではない。それは、私たちが依拠している小さな知識の枠組みを超えて、より大きな真実に対して心を開くための、神聖な入り口なのだ、と。
ネガティブ・ケイパビリティ:不確実性に留まる力
19世紀のイギリスの詩人ジョン・キーツは、偉大な創造性の源泉について考察する中で、「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative Capability)」という概念を提唱しました。日本語では「否定的能力」あるいは「消極的能力」と訳されます。
これは、「事実や理由を性急に求めることなく、不確実さ、神秘、疑いの中に、人がとどまることのできる能力」を指します。多くの人は、答えの出ない宙吊りの状態に耐えられず、安易な結論や、白黒はっきりとした単純な二元論に飛びついてしまいます。しかし、本当に新しい発見や、深い芸術的洞察は、この「わからない」という居心地の悪い霧の中で、辛抱強く待ち続けることによってのみ、もたらされるのだとキーツは考えました。
このネガティブ・ケイパビリティは、現代社会を生きる私たちにとって、極めて重要な能力と言えるでしょう。私たちは、気候変動、経済格差、パンデミックといった、単一の正解が存在しない、複雑で厄介な問題(Wicked Problems)に直面しています。こうした問題に対して、単純明快な犯人探しや、即効性のある解決策を求める態度は、しばしば事態をさらに悪化させます。私たちに求められているのは、すぐに答えが出ないという現実を受け入れ、多様な視点に耳を傾け、試行錯誤を続けながら、問題と共にあり続ける、粘り強い知性なのです。
検索すればすぐに答えらしきものが手に入る現代は、このネガティブ・ケイパビリティを育む上で、最も困難な時代かもしれません。私たちは、自らの手で、この能力を意識的に養っていく必要があるのです。
「わからない」という平穏に、身を委ねる実践
知の呪縛から自由になり、「わからない」という状態に安らぎを見出すために、今日から始められるいくつかの実践があります。
1. 即座に検索しない、という稽古
日常の中で、何か疑問が浮かんできたとき、例えば、「あの俳優の名前は何だっけ?」「この言葉の正確な意味は?」と感じたとき、反射的にスマートフォンに手を伸ばすのを、一度だけやめてみましょう。そして、その「わからない」という、少しむずがゆいような感覚と共に、数分間、ただ過ごしてみるのです。その問いを、すぐに答えで埋めてしまうのではなく、心の中で、しばらく転がしてみる。すると、忘れていた記憶がふと蘇ってきたり、あるいは、その問いが、別の、より深い問いへと繋がっていったりするかもしれません。これは、思考の持久力を鍛える、ささやかな筋力トレーニングです。
2. 結論の出ない対話を楽しむ
友人や家族と、「幸福とは何か」「愛とは何か」「人生の意味とは何か」といった、唯一の正解が存在しないテーマについて、話す時間を持ってみましょう。ここでの目的は、相手を論破したり、一つの結論に到達したりすることではありません。ただ、互いの考えを交換し、問いを深め、最終的に「やはり、簡単にはわからないね」という地点に着地することを楽しむのです。この種の対話は、私たちの心を、正解探しゲームから解放し、多様な視点を受け入れる、しなやかなものにしてくれます。
3. 大自然の前に、ひれ伏す
満点の星空を見上げる、雄大な海の前に立つ、深い森の中を歩く。人間が作り出した世界から一歩離れ、大自然のスケールに触れるとき、私たちは、自らの知がいかに小さく、限定的なものであるかを、痛感させられます。なぜ宇宙は存在するのか。生命とは何か。その根源的な神秘の前では、私たちの知識は無力です。この圧倒的な「わからない」という感覚は、私たちを知的な傲慢さから解放し、世界に対する畏敬の念と、謙虚な心を取り戻させてくれる、パワフルな瞑想となります。
私たちは、世界のすべてを理解し、自分のコントロール下に置きたい、という根源的な欲望を持っています。しかし、人生は、本質的に予測不可能で、私たちの理解を超えた神秘に満ちています。「わからない」という状態は、私たちが排除すべき欠陥ではなく、むしろ、この世界の豊かさと、私たち自身の人間的な有限性を受け入れるための、誠実な態度なのです。答えを求める渇きを手放し、「わからない」という広大で、静かな平穏に安住することを学ぶとき、私たちは、知識の牢獄から解放され、真に自由な探求の旅を始めることができるのです。


