私たちは、世界を「把握」できるという、ある種の傲慢な信念の上に現代文明を築き上げてきたのかもしれません。科学技術は自然現象を予測し、ビッグデータは消費者の行動を分析し、自己啓発書は成功への最短ルートを提示する。私たちは、この世界と自分自身の人生を、完全にコントロール可能な対象として捉え、そのための知識とツールを飽くことなく求め続けています。不確実性は排除すべきリスクであり、予測不能な事態は避けるべき失敗である、と。
しかし、そのコントロールへの強迫的な渇望が、皮肉にも私たちの心を深く蝕んでいるのではないでしょうか。精緻な計画を立てれば立てるほど、予期せぬ出来事が起きたときのストレスは増大します。未来を予測しようとすればするほど、その予測が外れることへの不安に苛まれる。私たちは、人生という複雑で、流動的で、本質的に予測不可能なダンスの相手に対して、常に決まったステップを踏むことを強要し、その結果、足を踏み外し、疲れ果ててしまっているのです。
この「すべてを把握したい」という病から自由になるためには、近代合理主義が依って立ってきた前提そのものを、一度疑ってみる必要があります。そして、世界はそもそも人間の小さな知性で把握しきれるようなものではない、という謙虚な事実を受け入れること。そこから、予測不能な波をしなやかに乗りこなすための、新しい生き方の可能性が開けてくるのです。
コントロール幻想という近代の病
すべてを分析し、理解し、制御しようとするこの態度は、17世紀の哲学者ルネ・デカルトに端を発する近代的な世界観の産物と言えます。彼は精神と物質を切り離し、自然を客観的に観察し操作できる「機械」と見なしました。この人間中心的な思考は、科学技術の驚異的な発展をもたらした一方で、人間を自然から切り離し、万物の支配者であるかのような幻想を抱かせることにもなりました。
このコントロール幻想は、私たちの日常生活の隅々にまで浸透しています。キャリアプラン、ライフプラン、資産計画。私たちは人生という地図を隅々まで描き込み、その通りに進むことを「正しい」ことだと信じている。しかし、人生とは、地図のない荒野をコンパスだけを頼りに進む旅のようなものではないでしょうか。予期せぬ嵐、思いがけない出会い、未知の脇道。そうした予測不能な要素こそが、旅を豊かで味わい深いものにするのです。
この幻想に囚われている限り、私たちは常に「あるべき姿」と「現実」とのギャップに苦しむことになります。計画通りに進まない自分を責め、コントロールできない他者や環境に苛立ち、不確実な未来に怯える。それは、自ら作り出した檻の中に、自分自身を閉じ込めているようなものです。
大いなる流れに身を委ねる – イーシュヴァラ・プラニダーナと無為自然
この西洋近代的なコントロール思想とは対照的な世界観を、東洋の叡智は古くから育んできました。ヨーガ・スートラにおける八支則の第二段階、ニヤマ(勧戒)の中に「イーシュヴァラ・プラニダーナ(Īśvara-praṇidhāna)」という教えがあります。これは、「自在神への祈念」あるいは「全託」と訳され、人智を超えた宇宙の大きな意志や流れに、自らの行為とその結果をすべて委ねる、という姿勢を意味します。
これは、努力を放棄する無気力な諦めとは全く異なります。むしろ、それは「人事を尽くして天命を待つ」という言葉に近い、極めて能動的な委ねです。自分のコントロールできる範囲(=行為そのもの)に全力を注ぎ、自分のコントロールできない範囲(=行為の結果や世界の反応)については、大いなる流れを信頼して手放す。この明晰な区別が、私たちを結果への過剰な執着や不安から解放してくれるのです。
同様の思想は、古代中国の老荘思想にも見られます。その中心的な概念である「道(タオ)」とは、万物を生み出し、貫いている宇宙の根源的な流れや秩序を指します。そして、人間にとって最も賢明な生き方は、この「道」に逆らわず、その一部として自然に振る舞う「無為自然」であると説かれます。小手先の人為的な知恵で物事をコントロールしようとすれば、かえって全体の調和を乱し、不幸を招く。川の流れを無理に変えようとするのではなく、流れに乗る舟のように、しなやかに生きること。それが「無為」の極意です。
仏教の「縁起」の思想もまた、私たちのコントロール幻想を打ち砕きます。縁起とは、この世のすべての存在や現象は、それ単体で独立して存在するのではなく、無数の原因や条件が相互に依存しあって成り立っている、という教えです。この複雑で広大な関係性の網の目を、一個人の知性で完全に「把握」することなど、土台不可能なのです。私たちができるのは、その網の目の一つの結び目として、自分に与えられた役割を誠実に果たし、全体の調和に貢献することだけなのかもしれません。
予測不能な世界で、しなやかに生きるための実践
把握できない世界を生きる。それは、不安に満ちた受動的な生き方を意味するものではありません。むしろ、それは世界に対してよりオープンになり、その豊かさを全身で受け止めるための、積極的な態度です。
そのための第一歩は、「計画」を手放し、「構想」を持つことです。計画は、細部に至るまで rigid(硬直的)な行程表です。一方、構想は、進むべき大まかな方角を示す flexible(柔軟)なコンパスのようなものです。詳細なルートを決めつけるのではなく、「あの山の頂上を目指そう」という大きな方向性だけを定め、あとは目の前の地形や天候の変化に即興的に対応しながら進んでいく。この旅人のような姿勢が、私たちを予期せぬ出来事へのストレスから解放し、むしろそれを楽しむ余裕を与えてくれます。
次に、日常に「偶然性」や「ノイズ」を意図的に取り入れてみることです。いつもと違う道を通って通勤する。書店で、普段は絶対に手に取らないジャンルの棚を眺めてみる。アルゴリズムが推薦してくる音楽ではなく、ラジオから流れてくる曲に耳を傾ける。こうした小さな逸脱は、私たちの凝り固まった思考パターンに風穴を開け、世界が予測可能なだけの場所ではないことを思い出させてくれます。それは、コントロールを手放し、セレンディピティ(幸運な偶然)が入り込む「余白」を、自らの人生に作り出す行為なのです。
そして最も大切なのは、頭で考えすぎることから離れ、自らの「身体感覚」を信頼する訓練をすることです。私たちは、あまりにも多くの決断を、データや論理といった頭の情報だけで下そうとしがちです。しかし、私たちの身体は、言葉にならないレベルで、環境からの膨大な情報を受け取り、処理しています。「なんとなく、こちらの方が良い気がする」「この人とは、どうも波長が合わない」。こうした直感的な身体の声を、非科学的なものとして退けるのではなく、重要な判断材料として尊重してみる。ヨガや瞑想は、この内なる声を聞き取る感度を高めるための、最高のトレーニングとなるでしょう。
私たちは、人生という広大な海の航海士です。海そのものを支配することはできません。天候をコントロールすることも、潮の流れを変えることもできない。私たちにできるのは、絶えず変化する波を読み、風の方向を感じ、その中で巧みに帆を操り、舵を取ることだけです。世界を把握しようとする傲慢さを手放し、その予測不能な偉大さへの畏敬の念を取り戻すとき、私たちは恐怖から解放され、人生という航海の真の自由と喜びを発見することができるのです。


