現代社会は、私たちに絶えず「もっと、もっと」と囁きかけます。より多くの富、より高い地位、より新しい所有物、より多くの経験。私たちは、幸福が常に「次」の角を曲がったところにあると信じ込まされ、終わりのない欲望のルームランナーの上を走り続けているかのようです。しかし、この果てしない追走の先にあるのは、真の満足ではなく、一時的な高揚と、その後に訪れるさらなる渇望です。ヨガの叡智は、このループから抜け出すための、シンプルでありながら極めて深遠な鍵を私たちに差し出します。それが、ニヤマ(勧戒)の一つである「サントーシャ(Santoṣa)」、すなわち「知足」の実践です。
パタンジャリが編纂したヨガの根本経典『ヨーガ・スートラ』には、「サントーシャにより、無上の喜び(sukha)が得られる」と記されています。ここで重要なのは、サントーシャが単なる現状維持や諦めを意味するのではない、ということです。それは、外側の条件がどうであれ、「今、ここに在るもの」の中に完全な満足と喜びを見出す、極めて能動的で創造的な心の姿勢なのです。それは、コップに半分入った水を「もう半分しかない」と嘆くのではなく、「まだ半分もある」と感謝する視点の転換と言えるでしょう。
東洋の思想、特に禅の世界においても「吾唯足知(われただたるをしる)」という言葉が大切にされてきました。京都・龍安寺のつくばいに刻まれたこの言葉は、物質的な豊かさや際限のない欲望の追求ではなく、内なる充足感こそが真の富であるという、普遍的な真理を私たちに伝えています。
引き寄せの法則の文脈でサントーシャを捉え直すと、その重要性はさらに際立ちます。多くの人が、引き寄せを「ない」ものを「ある」状態にするための魔法のように考えがちです。しかし、欠乏感、つまり「私にはこれがない、あれが足りない」という周波数から発せられた願いは、皮肉にも「ない」という現実をさらに強化し、引き寄せてしまいます。なぜなら、宇宙はあなたの言葉ではなく、あなたの感情、あなたの「在り方」そのものに共鳴するからです。
サントーシャの実践は、このエネルギーの方程式を根底から覆します。あなたが「今、すでに満たされている」という深い満足感と感謝の波動を発する時、あなたは宇宙で最もパワフルな磁石の一つとなります。その「充足」の周波数が、さらなる充足を感じられるような出来事、人々、機会を引き寄せるのです。これは、「満たされているから、もう何もいらない」という停滞ではありません。「ああ、すでにこんなにも満たされている。なんとありがたいことだろう。だからこそ、これから訪れるさらなる素晴らしい体験も、喜んで受け取ることができる」という、信頼と開かれた姿勢です。
サントーシャを育むための稽古は、日常の中に溢れています。
朝、目覚めた時、今日もまた新しい一日を呼吸できるという奇跡に意識を向けます。一杯の白湯を飲む時、その温かさが身体に染み渡る感覚を丁寧に味わいます。食事の際には、目の前の食べ物が、太陽や水、大地、そして多くの人々の手を経てここに在るという、壮大な繋がりの物語に思いを馳せ、感謝します。
一日の終わりには、今日あった「満たされたこと」を三つ、心の中で数え上げてみましょう。それは、友人からの優しい一言かもしれませんし、美しい夕焼けを見た感動かもしれません。どんな些細なことでも構いません。この実践は、私たちの意識の焦点を、「足りないもの」から「すでに在るもの」へとシフトさせるための、強力なトレーニングとなります。
新しい服やガジェットが欲しくなった時、一呼吸おいて、自問してみてください。「これを手に入れることで、私が本当に得たいと思っている感情はなんだろう?」と。そして、「その感情は、今、この瞬間、すでにあるものの中から見出すことはできないだろうか?」と。多くの場合、私たちが追い求めているのはモノではなく、それがもたらしてくれると期待している安心感や喜び、自己価値の感覚です。そして、それらの感情は、サントーシャの実践を通して、今ここで見出すことができるのです。
「足るを知る」者は、無一物であっても世界の王である、と古の賢者は言いました。サントーシャは、私たちを外部の状況に振り回される奴隷の状態から解放し、内なる静寂と喜びに根ざした、真に自由な創造主へと変容させる、究極の豊かさの秘法なのです。


