インド思想の広大な海原を旅する我々は、ここで一つの巨大な灯台に行き着きます。それは、単なる哲学書ではなく、一つの壮大な物語の心臓部に埋め込まれた、生きた対話の記録です。その名を『バガヴァッド・ギーター』(Bhagavad Gītā)、すなわち「神の歌」と言います。このテクストは、ヒンドゥー教徒にとって最も重要な聖典の一つであると同時に、宗派や国境を越えて、人間の根源的な苦悩と探求に応え続けてきた普遍的な智慧の書です。
しかし、『ギーター』を真に理解するためには、まずそれが収められている巨大な器、すなわち古代インドが産んだ世界最大の叙事詩『マハーバーラタ』(Mahābhārata)の物語世界へと分け入らねばなりません。哲学が書斎の思索から生まれるのではなく、人生の具体的な葛藤、血と涙が流れる現実の戦場でこそ求められる実践的な智慧であることを、『ギーター』はその出自そのものによって我々に教えてくれます。これから我々は、この壮大な物語の舞台へと足を踏み入れ、なぜ「神の歌」が歌われなければならなかったのか、その必然性を探求していきましょう。
もくじ.
壮大な舞台装置:叙事詩『マハーバーラタ』という宇宙
『マハーバーラタ』は、ホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』を合わせたものの約7倍、聖書の約3倍という圧倒的な長さを誇る、まさに「偉大なる(マハー)バラタ族の物語」です。その内容は、単一の物語ではなく、神話、伝説、王族の系譜、政治論、倫理学、そして無数の挿話が織り込まれた、古代インド文化の百科事典とも言うべき複合的なテクストです。インドでは「マハーバーラタにないものは、世界のどこにもない」と言われるほど、人間の経験のあらゆる側面がこの物語の中に凝縮されています。
物語の主軸は、同じバラタ族の血を引く二つの家系の対立です。一つは、正義と徳を重んじるパーンダヴァ家の五人兄弟。もう一つは、嫉妬と権力欲に駆られるカウラヴァ家の百人兄弟です。彼らは従兄弟同士でありながら、王国の継承権を巡って長年にわたり対立を深めていきます。
物語は、賭博に敗れたパーンダヴァ五兄弟が王国と財産、そして共通の妻であるドラウパディーまでも失い、13年間もの追放生活を余儀なくされる場面から、その悲劇性を加速させます。この追放期間中、彼らは数々の試練に耐え、聖仙たちから教えを受け、己の徳(ダルマ)を磨き続けます。約束の期間が終わり、彼らが正当な権利として王国の返還を求めたとき、カウラヴァ家の長男ドゥルヨーダナは、「針の先ほどの土地すら与えぬ」とこれを傲慢に拒絶しました。
数々の和平交渉は決裂し、もはや武力によって正義を確立する以外に道はなくなります。こうして、インド全土の王侯貴族を巻き込んだ、血族同士が殺し合う大戦争、すなわち「クルクシェートラの戦い」の火蓋が切られることになったのです。
この物語全体を貫く中心的な主題、それこそが「ダルマ」(dharma)です。ダルマとは、単なる「法」や「義務」を意味する言葉ではありません。それは、個人が社会の中で果たすべき役割、宇宙の秩序を維持する根源的な法則、倫理的な正しさ、そして人間としての正しい生き方そのものを指す、極めて多層的な概念です。この物語は、登場人物たちがそれぞれの立場で「自らのダルマとは何か」を問い、葛藤し、時に過ちを犯しながらもダルマを遂行しようとする、壮大な人間ドラマなのです。『マハーバーラタ』という巨大な舞台は、この「ダルマ」という根源的な問いを浮かび上がらせるための、壮大な実験場であったと言えるでしょう。
運命の戦場:クルクシェートラ
そして物語は、運命の日、聖なる地クルクシェートラへと至ります。両軍は何百万という兵士を擁し、無数の戦車、象、馬が大地を埋め尽くし、対峙しています。法螺貝の音が鳴り響き、太鼓が打ち鳴らされ、天と地を揺るがす鬨の声が上がります。これから始まるのは、18日間にわたる凄惨な殺戮の宴です。
この戦場には、当代きっての英雄たちが集結していました。カウラヴァ軍には、無敵の祖父ビーシュマ、兄弟たちの武術の師であるドローナ、そして親友カルナといった、パーンダヴァ兄弟が深く敬愛し、育てられてきた恩人たちがいます。一方、パーンダヴァ軍の中心にいるのが、五人兄弟の三男にして、天下一の弓の名手と謳われる英雄アルジュナです。そして、彼の駆る壮麗な戦車の御者を務めているのが、彼の親友であり、従兄弟でもあるクリシュナでした。
戦いが始まろうとする、まさにその瞬間。アルジュナはクリシュナに頼みます。「クリシュナよ、我が戦車を両軍の中央へ進めてくれ。誰と戦わねばならないのか、この目でしっかりと見ておきたい」。
クリシュナは言われた通りに戦車を進めます。そして、両軍の中央に立ったアルジュナが見た光景こそが、『バガヴァッド・ギーター』という深遠な哲学が生まれる直接の引き金となったのです。
英雄アルジュナの苦悩:ダルマのジレンマ
敵陣に目をやったアルジュナは、そこに並ぶ顔ぶれを見て、凍りつきます。そこにいたのは、憎むべき敵ではありませんでした。彼を膝の上で育ててくれた敬愛する祖父ビーシュマ。弓の技のすべてを授けてくれた尊敬する師ドローナ。そして、数えきれないほどの叔父、従兄弟、友人、恩人たち。彼らは皆、笑顔でアルジュナを見つめているかのようでした。これから自分は、この愛すべき人々に向けて、必殺の矢を放たなければならない。彼らの血を流し、その命を奪ってまで、王国を手にしなければならない。
その瞬間、英雄アルジュナの心は、激しい混乱と絶望の渦に飲み込まれます。彼の強靭な肉体から力が抜け、皮膚は燃えるように熱くなり、震えが止まりません。手から伝説の弓ガーンディーヴァが滑り落ち、彼は戦車の後部に崩れるように座り込んでしまいます。
そして、涙ながらにクリシュナに訴えかけます。
「クリシュナよ、これはいったいどういうことだ。自らの親族を殺してまで勝利を得ようとは思わない。彼らを殺して手に入れる王国、栄華、快楽、いや生命そのものに、いったい何の意味があるというのだ。……ああ、我々はなんと恐ろしい罪を犯そうとしていることか。王国の欲望にかられて、同族を殺戮しようとしているとは。これならば、武器を持たぬ私を、武装したカウラヴァの者たちが殺す方が、よほどましだ」
ここに、我々はインド哲学における最も深刻な倫理的ジレンマの一つを目の当たりにします。アルジュナの苦悩は、単なる戦いへの恐怖や感傷ではありません。それは、「ダルマ」をめぐる根源的な問いかけなのです。
クシャトリヤ(武人階級)としての彼のダルマは、不正を正し、正義のために戦うことです。しかし、家族や師を敬愛し、その命を奪わないというのもまた、人間としての普遍的なダルマです。この二つのダルマが、戦場という極限状況において、真っ向から衝突してしまったのです。どちらを選んでも、一方のダルマを破ることになる。この引き裂かれるような矛盾の中で、アルジュナは完全に行為の意味を見失い、深い虚無感(ニヒリズム)に陥ってしまったのです。
彼は、これまでの人生で信じてきた価値観、社会的な規範、そして自己のアイデンティティそのものが根底から揺らぐ経験をします。この絶望的な問いかけこそが、『バガヴァッド・ギーター』の扉を開く鍵となります。彼の苦悩は、単なる一個人のものではなく、特定の状況や文化を超えて、我々自身が人生の岐路で直面する「何をなすべきか」「いかに生きるべきか」という普遍的な問いと深く共鳴するのです。
御者クリシュナの正体:神の顕現
この絶望の淵に沈むアルジュナに対し、静かに、しかし力強く語りかけ始めるのが、御者であるクリシュナです。しかし、彼は単なる友人や助言者ではありませんでした。ヒンドゥー教の思想的文脈において、クリシュナは最高神ヴィシュヌの化身(アヴァターラ)であるとされています。アヴァターラとは、地上のダルマが衰退し、アダルマ(不法)が蔓延したときに、神がそれを回復するために人間の姿をとって降臨するという思想です。
クリシュナは、この物語の中で、巧みな政治家として、またパーンダヴァ兄弟の親友として振る舞いながら、その神性を徐々に明らかにしていきます。『ギーター』の対話は、この人間的な親愛の関係性を土台としながらも、その背後に神と人間という超越的な関係性が隠されているという二重構造を持っています。だからこそ、アルジュナは自らの魂の最も深い部分にある苦悩を、ありのままにクリシュナに吐露することができたのです。
アルジュナの絶望的な問いかけは、もはや人間的な知恵や慰めでは応えることのできない、存在の根源に関わるものでした。それに応えるためには、人間的な視点を超えた、宇宙的な視点からの智慧が必要とされたのです。クリシュナがこれから語る言葉は、単なる励ましや戦術論ではありません。それは、宇宙の真理、魂の本質、行為(カルマ)の秘密、そして解脱への道を示す、神自身の声なのです。
「神の歌」の始まりと、その思想的意義
こうして、戦場の喧騒のただ中で、時が止まったかのような静寂の中で、クリシュナは語り始めます。「賢者のごとく語りながら、悲しむべきでない者たちのために悲しんでいる。賢者は、死せる者をも、生ける者をも、嘆かないものだ」。この言葉から、『バガヴァッド・ギーター』全18章、700詩節からなる深遠な対話が幕を開けます。
『ギーター』が『マハーバーラタ』という叙事詩の一章として組み込まれていることには、極めて重要な思想的意味があります。それは、インド思想の二つの大きな流れ、すなわちヴェーダ以来の具体的な「儀礼・行為(カルマ)」を中心とする流れと、ウパニシャッドに代表される内面的な「知識・智慧(ジュニャーナ)」を求める流れとを、統合しようとする試みです。
ウパニシャッドの哲人たちは、世俗的な行為から離れた林の中で、瞑想を通して「梵我一如」という究極の真理を探求しました。しかしその教えは、あまりに高尚で、社会の中で生きる一般の人々にとっては実践が困難なものでした。一方、社会の中で生きる人々は、自らの階級(ヴァルナ)や生活段階(アーシュラマ)に応じたダルマを遂行することが求められましたが、その行為の意味や究極の目的を見失いがちでした。
『ギーター』は、この両者を架橋します。舞台は、行為が極限まで求められる「戦場」です。そしてそこで語られるのは、魂の不滅性や宇宙の根源といった、ウパニシャッド的な形而上学の真髄です。『ギーター』が提示する核心的な教えの一つである「カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)」とは、まさにこの統合を体現しています。それは、行為を放棄することではなく、行為の結果に対する執着を放棄し、ダルマの遂行そのものを神への捧げものとして行うことを説きます。社会の中で、自らの役割を果たしながらも、精神的には解脱を目指すことができるという、新しい道を提示したのです。
このように、『ギーター』は、具体的な物語の文脈と、普遍的な哲学の真理とを分かちがたく結びつけました。アルジュナの苦悩という具体的な「問い」があったからこそ、クリシュナの普遍的な「答え」が意味を持ったのです。哲学は、人生から遊離した抽象論ではなく、我々が直面する具体的な苦悩に応えるための「実践知」でなければならない。そのことを、『バガヴァッド・ギーター』はその構成そのものによって、力強く我々に示しているのです。この「神の歌」は、クルクシェートラの戦場に立つ一人の英雄のためだけに歌われたのではなく、人生という戦場で自らのダルマに悩み、道を見失いそうになる、すべての探求者のために歌われ続けていると言えるでしょう。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。






