サーンキヤ哲学:二元論、プルシャ(精神)とプラクリティ(物質)

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私たちの日常は、「私」という確固たる感覚に支えられています。この身体が私であり、この感情が私であり、この思考が私のものである。そうした素朴な実感から、私たちの生活は成り立っています。しかし、インドの思想家たちは、この当たり前のように思える「私」という感覚そのものを、徹底的な思索の俎上に載せました。その中でも、ひときわラディカルで、後世の思想、特にヨーガ哲学に決定的な影響を与えたのが、これからお話しするサーンキヤ哲学(Sāṃkhya)です。

サーンキヤとは「数え上げる」「枚挙する」といった意味を持つ言葉であり、その名の通り、世界の構成要素(原理、 tattva)を緻密に数え上げ、分析することを通して、世界の成り立ちと苦しみの構造、そしてそこからの解放の道を解き明かそうと試みた、極めて合理的かつ分析的な哲学体系です。その最大の特徴は、世界をたった二つの究極的な原理に還元する、厳格な「二元論(dvaita)」にあります。

その二つの原理とは、プルシャ(Puruṣa)、すなわち「純粋精神」あるいは「観るもの」と、プラクリティ(Prakṛti)、すなわち「根本原質」あるいは「観られるもの」です。この世のありとあらゆる現象は、この二つの原理の出会いと相互作用によって生じるとサーンキヤは説きます。それは、あたかも光のない場所でフィルムだけがあっても映画が映らないように、またスクリーンだけがあっても何も始まらないように、両者の結合によってはじめて「世界」というドラマが上映される、という壮大なヴィジョンなのです。

この二元論は、ウパニシャッド哲学が説いた「梵我一如」、すなわち宇宙の根源であるブラフマンと個人の本質であるアートマンが究極的には一つであるという「一元論」とは、明確な一線を画します。なぜサーンキヤは、あえて世界を二つに分けたのでしょうか。それは、苦しみの原因を根源から断ち切るためでした。苦しみとは、本来別々であるはずのものを混同してしまうことから生じる。サーンキヤの思想家たちはそう喝破しました。純粋な意識であるはずの「私」が、常に変化し、生滅する物質的な心や身体を「私だ」と誤認してしまうこと。この根源的な無知(無分別、aviveka)こそが、輪廻と苦悩のサイクルを生み出す元凶なのです。

したがって、サーンキ-ヤ哲学の目的は、知の力によってこの混同を解きほぐし、プルシャとプラクリティを明確に「識別(viveka)」することにあります。その識別知(viveka-jñāna)を得たとき、プルシャは自らがプラクリティの展開する現象とは何の関係もない、永遠の傍観者であったことを悟り、完全な解放(モークシャ、mokṣa)、あるいは「独存(カイヴァルヤ、kaivalya)」へと至る。これがサーンキヤ哲学が提示する救済の青写真です。

これから、この壮大で緻密な哲学の体系を、その構成要素を一つひとつ丁寧に「数え上げ」ながら、共に探求していきましょう。

 

プラクリティとトリ・グナ:世界の舞台とその構成要素

まず、世界のあらゆる現象、すなわち「観られるもの」の根源であるプラクリティから見ていきましょう。プラクリティは「根本原質」と訳され、まだ何ものにも分化していない、潜在的な状態にある物質エネルギーの根源です。それは、思考や感情といった心(精神現象)の働きから、私たちの肉体、そして山や川、石ころに至るまで、宇宙に存在するすべての物質的・現象的なものの「素」となります。

プラクリティは、それ自体は意識を持ちません。しかし、盲目的ながらも極めて活動的な性質を持ち、プルシャ(純粋精神)のために、あたかも女優が観客のために舞台で演じるかのように、自らを変容させ、世界を展開していくとされます。

このプラクリティを理解する上で最も重要な鍵となるのが、トリ・グナ(tri-guṇa)、すなわち「三つの構成要素(グナ)」という概念です。グナとは「糸」や「属性」を意味し、プラクリティはこの三種類のグナが、まるで三色の糸が撚り合わさって一本の縄をなすように、結合した状態にあるとされます。世界の多様な現象はすべて、この三つのグナの配合比率の違いによって説明されるのです。

三つのグナとは、以下の通りです。

  1. サットヴァ(Sattva)純質・喜

    サットヴァは、純粋性、軽やかさ、照明、喜び、知性、調和などを司るグナです。その性質は「軽く、照らすもの(laghu-prakāśaka)」。心理的には、幸福感、平静、満足、知的な明晰さ、優しさといった状態として現れます。物質的には、清らかさ、透明感、軽さといった性質に対応します。私たちが美しい景色を見て心が洗われるとき、あるいは知的な探求によって真理を悟り喜びに満たされるとき、そこではサットヴァが優勢に働いているのです。

  2. ラジャス(Rajas)激質・憂

    ラジャスは、活動性、激情、欲望、苦悩、動揺などを司るグナです。その性質は「刺激し、活動させるもの(upaṣṭambhaka-cala)」。心理的には、欲望、怒り、悲しみ、不安、焦り、興奮といった状態として現れます。これは、何かを成し遂げようとする原動力にもなりますが、同時に私たちを常に駆り立て、安らぎを奪う原因ともなります。ラジャスがなければ世界は動きませんが、ラジャスが過剰になると、心は絶え間ない渇望と不満の波に揺さぶられることになるのです。

  3. タマス(Tamas)翳質・闇

    タマスは、暗黒、重さ、無気力、怠惰、無知、障害などを司るグナです。その性質は「重く、覆い隠すもの(guru-varaṇaka)」。心理的には、眠気、怠惰、混乱、無関心、絶望、頑固さといった状態として現れます。物質的には、重さ、不透明さ、不動性といった性質に対応します。タマスは、物事を安定させる働きもしますが、過剰になると、知性を曇らせ、活動を妨げ、私たちを無気力と停滞の闇に沈めてしまいます。

プラクリティの未顕現な状態(原初の状態)では、この三つのグナは完全に均衡を保ち、互いの力を打ち消し合って静止しています。しかし、プルシャの「観照」という、いわば磁石が鉄を引き寄せるような微かな影響を受けると、その均衡が破れます。すると、あたかも静かな水面に小石を投げ込んだかのように、グナの間にアンバランスが生じ、互いに凌ぎ合おうとする活動が始まります。このグナの不均衡こそが、プラクリティが多様な世界へと「展開(pariṇāma)」していく原動力となるのです。

 

プラクリティの展開:宇宙創造の24段階

サーンキヤ哲学は、このグナの不均衡から始まる世界の展開プロセスを、24の原理(タットヴァ)として驚くほど体系的に説明します。この展開の仕方を理解する上で重要なのが、**因中有果論(satkārya-vāda)**というサーンキヤ特有の因果論です。これは「結果(kārya)は原因(kāraṇa)の中に潜在的に存在する」という考え方です。例えば、牛乳の中にはバターが、土の中には壺が、すでに潜在的な形で存在していると考えます。創造とは、何もないところから新しいものが生まれるのではなく、原因の中に隠されていたものが姿を現すプロセスに他ならない、というわけです。

それでは、プラクリティから世界が展開していく24の段階を順に見ていきましょう。

  1. プラクリティ(Prakṛti)根本原質:すべての根源。未顕現な状態。

  2. マハット(Mahat)あるいはブッディ(Buddhi)覚・理性:プラクリティから最初に展開するもの。宇宙的な知性であり、個人のレベルでは「理性」や「判断力」に相当します。サットヴァが最も優勢な状態で、物事を決定し、識別する能力の源です。

  3. アハンカーラ(Ahaṅkāra)我慢・自我意識:マハットから展開するもの。「私が〜する」「私のもの」という自我意識の原理です。このアハンカーラが、主観と客観を分ける分岐点となります。アハンカーラは、三つのグナの優勢に応じて、三方向に分かれて展開していきます。

    • サットヴァ優位のアハンカーラから(変異我)

      4. マナス(Manas)意・心:思考や感覚を統合する中枢的な器官。

      5.〜9. 五知根(jñānendriya):五つの感覚器官。耳(聴覚)、皮膚(触覚)、眼(視覚)、舌(味覚)、鼻(嗅覚)。これらは外界の情報を知覚する能力です。

      10.〜14. 五作根(karmendriya):五つの行為器官。発声器官、手、足、排泄器官、生殖器官。これらは外界に働きかける能力です。

    • タマス優位のアハンカーラから(元素我):(ラジャスの補助を受けて)

      15.〜19. 五唯(tanmātra)あるいは五微細要素:感覚の対象となる潜在的な要素。音(śabda)、触(sparśa)、色・形(rūpa)、味(rasa)、香(gandha)。これは、具体的な音や色そのものではなく、その元となる純粋な感覚データのようなものです。

    • ラジャス優位のアハンカーラから(激質我):ラジャスはそれ自体では何も生み出しませんが、サットヴァ的な展開とタマス的な展開の両方をエネルギー的に支援し、触媒として働きます。

20.〜24. 五大(mahā-bhūta)あるいは五大元素:五唯から展開する、私たちが経験する物理的な世界の構成要素です。

– 音唯から → 虚空(ākāśa)

– 音唯+触唯から → 風(vāyu)

– 音唯+触唯+色唯から → 火(tejas)

– 音唯+触唯+色唯+味唯から → 水(ap)

– 音唯+触唯+色唯+味唯+香唯から → 地(pṛthivī)

このように、サーンキヤ哲学は、一つの根本原質プラクリティから、心(理性、自我、思考)、感覚器官、行為器官、そして物理的な世界(五大元素)までが、整然とした秩序をもって展開してくる様を描き出します。私たちが「自分」だと思っている心や身体は、すべてこのプラクリティの展開物(vikṛti)に他ならないのです。

 

プルシャ:舞台を観照する純粋な観客

さて、ここまで世界の舞台装置とその上で演じられるドラマ、すなわちプラクリティとその展開について見てきました。では、もう一方の主役である**プルシャ(Puruṣa)**とは、一体何なのでしょうか。

プルシャは「純粋精神」と訳されますが、私たちが通常考える「心(マインド)」とは全く異なります。心(ブッディ、アハンカーラ、マナス)はプラクリティの産物であり、常に活動し、変化します。それに対してプルシャは、**純粋な意識(caitanya)**そのものであり、それ以外の属性を一切持ちません。

  • プルシャは活動しない(akartṛ)。行為の主体ではなく、ただ観るだけです。

  • プルシャは変化しない(apariṇāmin)。プラクリティのように展開することはありません。

  • プルシャは影響を受けない(asanga)。グナの作用から自由です。

  • プルシャは**傍観者(sākṣin)**である。舞台で繰り広げられるドラマを、ただ静かに観照しています。

古典的な比喩では、プルシャは「観客」、プラクリティは「踊り子」に喩えられます。踊り子(プラクリティ)は、観客(プルシャ)に見られることで、その舞を披露します。しかし、観客自身は踊るわけではありません。また、プルシャは「鏡」、プラクリティの産物である心(ブッディ)は「鏡に映る像」に喩えられます。鏡自体は像によって変化したり汚されたりすることはありませんが、像を映し出すことで、あたかも像と一体であるかのように見えます。

では、なぜ本来は分離しているはずのプルシャとプラクリティが結合し、世界というドラマが始まるのでしょうか。サーンキヤは、これを「足の不自由な者と目の見えない者の協力」という有名な比喩で説明します。目の見えないが歩くことのできる者(活動的だが意識のないプラクリティ)が、足は不自由だが目が見える者(意識はあるが活動しないプルシャ)を肩車する。そうすることで、両者は協力して目的地(プルシャにとっては解脱、プラクリティにとっては自己の展開)へと向かうことができる、というのです。この結合は、プルシャがプラクリティの展開を経験するため、そしてプラクリティがプルシャを解放するために起こる、目的論的なプロセスであるとされます。

もう一つ、サーンキヤ哲学の重要な特徴は、このプルシャは無数に存在すると考える点です。これは、ウパニシャッドのアートマン(個我)が究極的には唯一のブラフマンに帰着するのとは対照的です。なぜなら、もしプルシャが一つなら、一人が解脱すれば全世界が解放されてしまうはずですが、現実には人それぞれの誕生、死、苦悩は別々です。この個々人の経験の多様性を説明するために、サーンキヤはプルシャの複数性を主張したのです。

 

苦の原因と解脱への道

この二元論的な世界観の上で、苦(ドゥッカ、duḥkha)はどのように説明されるのでしょうか。苦しみの根源は、純粋な観客であるはずのプルシャが、プラクリティの産物である心身(ブッディ、アハンカーラ、身体など)を「私」であり「私のもの」であると**誤って同一視(abhimāna)**してしまうことにあります。

プルシャ自体は喜びも苦しみも経験しません。しかし、サットヴァが優勢な心(ブッディ)が喜びを感じると、それを映し出すプルシャは、あたかも自分が喜んでいるかのように錯覚します。同様に、ラジャスが優勢な心が苦悩を感じると、自分が苦しんでいるかのように錯覚する。これが苦しみの構造です。身体の老いや病、心の不安や怒りは、すべてプラクリティの領域で起こっている現象に過ぎません。しかし、私たちはそれらを自分自身の出来事として引き受けてしまうのです。

この根源的な誤認、すなわちプルシャとプラクリティの**無分別(aviveka)を断ち切り、両者を明確に識別(viveka)**する知恵を獲得すること。これこそが、サーンキヤ哲学が示す解脱(モークシャ)への唯一の道です。

解脱とは、何か特別な状態になることではありません。それは、プルシャが「私は身体ではない、心ではない。私はただの観客、純粋な意識である」という真実を完全に悟り、プラクリティの舞台から身を引くことです。あたかも、役目を終えた踊り子が観客の前から静かに立ち去るように、プラクリティはもはやそのプルシャのために展開することをやめます。プルシャはプラクリティから完全に分離し、本来の孤高の状態、すなわち**独存(カイヴァルヤ)**に安住するのです。そこにはもはや苦しみは存在しません。

 

サーンキヤとヨーガ:理論と実践の姉妹哲学

サーンキヤ哲学が提供したのは、主にこの世界の構造と解脱の論理に関する形而上学的な知見でした。では、その「識別知」を具体的にどうやって獲得するのか?その実践的な方法論を体系的に示したのが、姉妹哲学とも呼ばれるヨーガ哲学です。

しばしば「理論のサーンキヤ、実践のヨーガ」と言われるように、ヨーガ哲学はサーンキヤの二元論的な世界観をほぼ全面的に受け入れています。プルシャとプラクリティの識別知によって解脱に至る、という目標も同じです。しかし、ヨーガはそこに、識別知を獲得するための具体的なステップとして、パタンジャリが『ヨーガ・スートラ』で説いた「八支則(aṣṭāṅga-yoga)」などの実践体系を加えました。瞑想(ディヤーナ、dhyāna)によって心の働き(チッタ・ヴリッティ)を止滅させ、プラクリティの活動を静めることで、その奥にあるプルシャの光を観照しようと試みるのです。

また、サーンキヤが基本的に無神論(神の存在を理論上必要としない)であるのに対し、ヨーガ学派は**自在神(イーシュヴァラ、Īśvara)**という特別なプルシャの存在を認めました。イーシュヴァラは、カルマや苦悩に決して束縛されることのない永遠の師であり、彼への信愛(イーシュヴァラ・プラニダーナ)は、解脱への道を歩む者にとって強力な助けになると考えられたのです。

 

結論:自己という構造を解き明かす知のメス

サーンキヤ哲学は、その徹底した合理性と分析的なアプローチによって、インド思想史に巨大な足跡を残しました。それは、私たちが自明のものとして生きている「自己」という感覚を、プルシャとプラクリティ、そしてトリ・グナという概念的なメスを用いて鮮やかに解剖し、その構造を白日の下に晒しました。

現代に生きる私たちにとって、サーンキヤ哲学の洞察は、依然として多くの示唆に富んでいます。私たちは日々、自分の感情や思考、身体的な状態に一喜一憂し、それらを自分自身と同一視して苦しんでいます。サーンキヤの教えは、そうした心の動きや身体の感覚から一歩距離を置き、「それを観察している自分」という視点を持つことの重要性を教えてくれます。それは、マインドフルネスや自己観察といった現代的な心理療法の根底にある思想とも深く響き合います。

「私」とは、固定された実体ではなく、絶えず変化するプラクリティの現象を、プルシャという静かな意識が照らし出している「場」あるいは「関係性」そのものである。このサーンキヤのヴィジョンは、私たちを自己中心的な苦悩から解放し、より自由で客観的な視点から人生を眺めるための、力強い智慧を与えてくれるのです。この古代の哲学の探求は、単なる知識の獲得に留まらず、私たち自身の存在の根源を問い直す、深遠な旅となることでしょう。

 

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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。