4.9 ヴェーダ哲学を学ぶことの喜び:自己理解と成長

ヨガを学ぶ

この長い旅も、いよいよ終着点を迎えようとしています。私たちは共に、古代インドの深遠な森へと分け入り、神々の壮大な物語に耳を傾け、宇宙の始まりの瞬間に立ち会いました。そして、森の奥深く、静かな庵で語られたウパニシャッドの叡智に触れ、内なる宇宙の広大さに目を見張ったのです。さらに、その叡智を身体で体現するための道、ヨガの実践にも光を当ててきました。

まるで、長い旅路の果てに、慣れ親しんだ我が家の縁側に腰を下ろし、温かい一杯のお茶をすするような安らぎを、今感じているかもしれません。目の前に広がる庭の草木が、旅立つ前とは少し違って見える。風の音や光の粒、土の匂いが、以前よりもずっと雄弁に何かを語りかけてくる。この本を閉じた後、あなたの世界がそのように、より深く、より豊かな彩りを帯びて見えるとしたら、筆者としてこれ以上の喜びはありません。

この最終章では、この旅路で得た知識という名の地図を改めて広げ、それが私たちの人生という名の「土地」で、いかにして「自己理解」という名の豊かな実りをもたらし、「成長」という名の美しい花を咲かせるのか、その喜びについて、ゆっくりと語り合いたいと思います。ヴェーダ哲学の学びは、決して書物の中に完結するものではありません。それは、私たちの生そのものを変容させる、生きた力となるのです。

 

「私」という最大の謎:自己理解への扉

私たちは日々、「私」という主語を使って生きています。私が考え、私が感じ、私が行動する。しかし、この当たり前のように使っている「私」とは、一体何者なのでしょうか。この根源的な問いこそ、ヴェーダ哲学が私たちに差し出す、最も深遠な招待状です。

ヴェーダの学びは、この「私」という存在の輪郭を、驚くべきやり方で描き変えていきます。これまで私だと思っていたもの――この肉体、ころころと変わる感情、次から次へと湧き上がる思考、社会的地位や名前――それらは確かに「私」の一部ではありますが、本質ではないことを、ウパニシャッドの賢者たちは静かに、しかし断固として告げます。それらはアートマン、すなわち真の自己がまとっている、一時的な衣服や乗り物のようなものに過ぎない、と。

この教えに初めて触れた時、私たちは戸惑いを覚えるかもしれません。では、本当の私はどこにいるのか、と。しかし、この戸惑いこそが、自己理解の旅の始まりの合図なのです。ヴェーダ哲学は、探し求めるべき「私」はどこか遠くにあるのではなく、まさに今ここに、この身体の内側、呼吸の奥深く、意識の源に存在していることを示唆します。それが、宇宙の根本原理であるブラフマンと同一であるアートマンです。

この「梵我一如」の思想を学ぶ喜びは、まず第一に、私たちを自己限定的な檻から解放してくれる点にあります。「私は能力が低い」「私は人付き合いが苦手だ」「私は過去の失敗に縛られている」といった、私たちが自ら作り上げた物語。それは確かに経験という名のインクで書かれていますが、アートマンという永遠の紙の上に書かれた、消すことのできる文字に過ぎません。アートマンとしての私たちは、本来、無限の可能性を秘めた、完全で自由な存在なのです。

この理解は、単なる気休めやポジティブシンキングとは次元が異なります。それは、自分という存在の拠点を、揺れ動く波(感情や思考)の上から、静かで広大な海(アートマン)そのものへと移すような、根本的なパラダイムシフトです。この大いなる安心感と解放感こそ、ヴェーダ哲学がもたらす自己理解の、最初の、そして最も大きな喜びと言えるでしょう。

 

カルマの法則を受け入れる:人生の物語の作者となる

自己理解の旅は、カルマの法則を学ぶことで、さらに深まっていきます。私たちの人生に起こる出来事、出会う人々、経験する幸不幸。それらは、決して無意味な偶然の産物ではない、とヴェーダは説きます。すべては、過去の、そして現在の私たちの行為(カルマ)が織りなす、壮大なタペストリーなのです。

この思想は、一見すると宿命論のように聞こえ、私たちを無力に感じさせるかもしれません。しかし、その本質は全く逆です。カルマの法則を真に理解することは、私たちを「被害者」の立場から解放し、自らの人生の「創造主」へと引き上げてくれるのです。

なぜなら、未来はまだ白紙だからです。今の瞬間の私たちの思考、言葉、行動が、未来のカルマを創り出しています。つまり、私たちは過去の結果を受け入れつつも、今の選択によって未来を能動的に形成していくことができる、自由な意志を持った存在なのです。

この気づきがもたらす成長は計り知れません。他者や環境のせいにして不平を言う代わりに、私たちは自らの内に原因を探し、そこから学ぶようになります。困難な状況に直面したとき、それは罰ではなく、過去のカルマを解消し、魂を成長させるための貴重な機会なのだと捉えることができるようになります。

それはまるで、自分の人生という映画の観客席から立ち上がり、監督の椅子に座り直すようなものです。スクリーンに映し出される出来事に一喜一憂するだけでなく、その物語にどのような意味を与え、次のシーンをどのように演出していくかを、自らの意志で決めることができる。この主体性と責任感の回復こそ、カルマの法則を学ぶことから得られる、力強い成長の証なのです。

 

世界との新しい関係:成長という名の変容

自己理解が深まり、人生の主体性を取り戻すとき、私たちの内側で始まった変容は、やがて外の世界との関わり方そのものを変えていきます。成長とは、自分だけが変わることではなく、世界の見え方が変わり、他者との関係性が変わることなのです。

その一つが、「ダルマ」を生きる喜びです。ダルマとは、単なる義務や道徳ではありません。それは、宇宙における自分固有の役割や使命、天命とでも言うべきものです。太陽が光を放ち、花が咲き、鳥が歌うように、私たち一人ひとりにも、この世界で果たすべき自然な役割があります。

ヴェーダ哲学の学びは、社会的な成功や他人の評価といった外的な基準から私たちを解放し、「自分自身のダルマは何か?」という内なる声に耳を澄ますよう促します。自分の心からの情熱、持って生まれた才能、それを活かして他者や世界に貢献できる道。それを見出し、歩み始めるとき、私たちはかつてないほどの充足感とエネルギーに満たされるでしょう。それは、大きなオーケストラの中で、自分だけに与えられた楽器を、自分だけの音色で奏でる喜びに似ています。他の誰かになろうとする努力から解放され、ただ自分であることの中に、深い意味と喜びを見出すのです。

さらに、世界そのものの見え方も劇的に変わります。ウパニシャッドの叡智は、私たちが見るもの、触れるものすべてが、究極の実在であるブラフマンの現れであると教えます。道端に咲く一輪の花、空を流れる雲、賑やかな街の喧騒、そして私たちの隣にいる人々。そのすべてが、神聖な輝きを帯び始めるのです。

この世界観を生きることは、世界を「消費すべきモノ」の集まりとしてではなく、「関わるべき生命」のネットワークとして捉え直すことを意味します。それは、第四部で触れたような、自然との共生や、物質主義を超えた真の豊かさへと、私たちを自然に導いてくれるでしょう。

他者との関係もまた、深く変容します。もし、目の前にいる人もまた、自分と同じアートマンの現れであるならば、表面的な性格や意見の違いを超えた、根源的なレベルでの繋がりを感じることができるはずです。対立や競争、嫉妬といった感情は、その根拠を失い、代わりに共感や慈愛、相互理解が育まれていきます。それは、縁側で隣り合って座り、同じ夕日を眺めるような、言葉を超えた静かで温かい繋がりです。この感覚こそ、ヴェーダ哲学が目指す、調和のとれた人間関係の礎となるのです。

 

日常に根差した叡智:ヴェーダ哲学を「生きる」ということ

この長大な旅路で学んだ叡智は、決して特別な時や場所のためだけのものではありません。むしろその真価は、私たちの日常生活という、ごくありふれた場面でこそ発揮されます。ヴェーダ哲学を学ぶ最終的な喜びは、それを「知る」ことから「生きる」ことへとシフトさせることにあります。

朝、目覚めたときの最初の呼吸。その一息に、宇宙の生命エネルギー(プラーナ)を感じること。一杯の水を飲むときに、その水が私たちの身体を満たし、生命を養ってくれることへの感謝を捧げること。それは、古代の祭官が行ったヤグヤ(供犠)にも通じる、神聖な儀式となり得ます。

日々の食事もまた、ヴェーダ哲学を実践する場となります。何を、どのように食べるか。それは、私たちの身体だけでなく、心、そして自然環境とも深く関わっています。生命への感謝を込めて、丁寧に調理し、よく味わっていただく。その行為は、私たちを自然の一部として、宇宙の循環の中に位置づけてくれるでしょう。

仕事や家事、人との対話。その一つひとつが、ダルマを実践し、カルマを浄化し、アートマンを表現する機会となります。退屈な作業であっても、そこに意識を集中させ、心を込めて行うことで、それは瞑想的な行為(ディヤーナ)へと昇華します。言葉を発する際には、その言葉が持つ力(マントラ)を意識し、真実で、優しく、有益な言葉を選ぶ。それは、宇宙の秩序(リタ)と調和する生き方そのものです。

このように、ヴェーダ哲学は、私たちの日常を、意味と喜びに満ちた、自己探求と成長のためのフィールドへと変容させてくれます。縁側から見える、ありふれた庭の風景が、宇宙の神秘を映し出す万華鏡となるように、私たちの日常そのものが、輝きを放ち始めるのです。

 

結び:叡智の灯火を手に、あなたの旅へ

私たちは今、再び旅の出発点に立っています。しかし、それは以前とは全く違う場所です。あなたの手には、ヴェーダ哲学という名の、決して消えることのない灯火が握られています。この灯火は、人生の道に迷った時に足元を照らし、心の闇に沈んだ時に温もりを与えてくれる羅針盤となるでしょう。

ヴェーダ哲学を学ぶことの究極の喜びは、知識の量を増やすことではありません。それは、自分という存在が、決して孤独で無力な断片ではなく、広大で愛に満ちた宇宙全体と、分かちがたく結ばれているのだという、揺るぎない実感を得ることです。

それは、深い呼吸の中に、風の中に、木々のざわめきの中に、そして他者の瞳の中に、自分自身の本質を見出す喜びです。生きることそのものが、壮大で美しい儀式であり、学びであり、成長のプロセスなのだと気づく喜びです。

この本を閉じた後、どうか、あなた自身の縁側を見つけてください。それは物理的な場所でなくても構いません。心を静め、呼吸に意識を向け、自分と、そして世界と深く繋がれる、あなただけの聖なる空間です。

そこで、この旅で得た叡智を、ゆっくりと味わい直してみてください。そして、あなた自身の人生という物語を、より自由に、より豊かに、より喜びに満ちたものとして、紡いでいってください。

あなたの探求の旅が、光と叡智に満ちたものでありますように。心からの感謝と祝福を込めて。

 

 

ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。

 

 


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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。