現代の都市で「ヨガ」という言葉を聞くと、多くの人々は、美しいポーズをとるフィットネス、ストレスを解消するためのリラクゼーション、あるいは心身の健康を保つためのエクササイズといったイメージを思い浮かべることでしょう。それらは決して間違いではありません。ヨガがもたらす恩恵の一部として、確かに私たちの日常を豊かに彩ってくれます。
しかし、もし私たちがヨガの旅路を、その入り口の美しい庭園を散策するだけで終えてしまうとしたら、それはあまりにもったいないことなのかもしれません。その庭の先には、鬱蒼と茂る古代の森が広がり、さらにその奥には、私たちの存在の根源を照らし出す、静かで広大な湖が横たわっているからです。前章で探求したように、ヨガの根はヴェーダという肥沃な大地に深く張り巡らされています。それは単なる身体技法ではなく、古代インドの叡智が育んだ、人間が自らの苦しみを乗り越え、究極の自由と至福へと至るための、壮大な霊的探求の道なのです。
この章では、ヨガが真に目指すものは何なのか、その核心に迫っていきます。それは三つの段階的な、しかし相互に深く関連し合った目的として捉えることができます。第一に**「心身の統合」。第二に「意識の変容」。そして、その道のりの果てにある究極の目的地が、「解脱(モークシャ)」**です。この三つの扉を一つひとつ開けていくことで、私たちはヨガという実践が、いかにして私たちの人生そのものを根底から変容させる力を持っているのかを理解することができるでしょう。
もくじ.
第一の目的:心身の統合 (ユジュ – Yuj) – 失われた繋がりを取り戻す
ヨガの旅は、まず自分自身の最も身近な存在、すなわち「身体」と「心」の関係性を見つめ直すことから始まります。ヨガという言葉の語源が、サンスクリット語の「ユジュ(Yuj)」にあることはよく知られています。この「ユジュ」には、「結びつける」「軛(くびき)をつける」「統合する」といった意味があります。では、一体、何と何を結びつけるのでしょうか。
その最も根源的な答えが、心と身体の統合です。
現代社会に生きる私たちは、意識するとしないとにかかわらず、心と身体を切り離して生きている時間が非常に長くなっています。デスクに座り、思考はスクリーンの中の情報や未来の計画、過去の後悔へと飛び回り、その間、私たちの身体は置き去りにされています。肩が凝り固まっていることにも、呼吸が浅くなっていることにも気づかない。身体は悲鳴を上げているのに、心はそれに耳を傾けようとしないのです。これは、まるで乗り手(心)が、自分が乗っている馬(身体)の存在を忘れ、手綱を放してしまっているような状態と言えるでしょう。
ヨガのアーサナ(坐法、ポーズ)の実践は、この離れ離れになった心と身体を、再び力強く結びつけるための具体的なプロセスです。例えば、ターダーサナ(山のポーズ)でただ真っ直ぐに立つ。その時、私たちは足の裏が大地に触れる感覚、膝が伸びる感覚、背骨が引き上げられる感覚、そして呼吸が身体を出入りする微細な動きに、注意を向けます。心という放浪者を、身体という「今、ここ」に存在する確固たる現実へと、優しく、しかし確実につなぎ留める作業です。身体は嘘をつきません。それは常に「現在」を生きています。アーサナを通して、私たちは身体感覚という扉を開き、心に「今、ここ」へと帰る道を教えてあげるのです。
この「結びつける」という行為は、さらに深い次元へとつながっていきます。第二部で詳述したウパニシャッド哲学の核心、「梵我一如」の思想を思い出してください。私たちの内なる本質である**アートマン(個我)は、宇宙の根源的実在であるブラフマン(梵)**と本来一つである、という壮大なヴィジョンです。心と身体というミクロなレベルでの統合は、アートマンとブラフマンというマクロなレベルでの大いなる統合へと至るための、不可欠な第一歩なのです。自らの身体という小宇宙を治めることができない者が、どうして大宇宙の真理を悟ることができるでしょうか。
そして、この心と身体、個と宇宙を結びつける、目には見えない接着剤の役割を果たすのが**「プラーナ」**です。プラーナは、単なる「呼吸」や「空気」ではありません。宇宙のあらゆる場所に遍満する生命エネルギーそのものを指します。私たちが呼吸を通して体内に取り入れているのは、酸素だけでなく、このプラーナなのです。
心が乱れれば呼吸は浅く速くなり、プラーナの流れも滞ります。逆に、心が落ち着いていれば呼吸は深く穏やかになり、プラーナは全身を滞りなく巡ります。ヨガの実践、特にプラーナーヤーマ(呼吸法、調気法)は、このプラーナの流れを意識的にコントロールし、調和させる技術です。プラーナーヤーマによって、私たちは心と身体の間に滑らかなエネルギーの橋を架け、両者を分かちがたい一つのものとして統合していくのです。
第二の目的:意識の変容 (チッタ・ヴリッティ・ニローダハ) – 心の湖を静める
心と身体の繋がりを取り戻し、プラーナの流れが整い始めると、ヨガの探求はより内的な領域、すなわち「意識」そのものへと向かいます。この段階での目的を最も的確に表しているのが、聖者パタンジャリが編纂したヨガの根本経典『ヨーガ・スートラ』の冒頭に記された、あまりにも有名な一節です。
「ヨーガシュ・チッタ・ヴリッティ・ニローダハ」(ヨーガ・スートラ 1章2節)
これは、「ヨーガとは、心の作用(チッタ・ヴリッティ)を止滅(ニローダハ)することである」と訳されます。この短い一文に、ヨガの心理学的な目的のすべてが凝縮されています。この言葉を理解するために、それぞれの単語を丁寧に解き明かしてみましょう。
まず**「チッタ(Citta)」**とは、私たちの「心」や「意識」を包括的に指す言葉です。しかし、それは単一のものではありません。インドの伝統的な哲学(特にサーンキヤ哲学)では、チッタは、感覚的な情報を処理するマナス(意)、知的な判断や識別を行うブッディ(覚)、そして「私」という感覚を生み出すアハンカーラ(自我意識)といった、複数の機能が複合した、一つの装置(内的器官)として捉えられます。
次に**「ヴリッティ(Vṛtti)」**です。これは、そのチッタの表面に絶えず生じている「作用」や「働き」を意味します。「波」や「渦」と翻訳されることもあります。私たちが普段「考えている」と感じていることのほとんどは、このヴリッティです。過去の記憶、未来への不安、他者への判断、快・不快の感情、様々な空想… これらが途切れることなく心の湖の表面に波紋を広げ、私たちの意識を常にざわつかせています。このヴリッティの波立ちこそが、物事をありのままに見ることを妨げ、誤解や執着を生み出し、結果として私たちの苦しみ(ドゥッカ)の根源となっているのです。
そして最後に**「ニローダハ(Nirodhaḥ)」**。これは「止滅」「制御」「静止」と訳されますが、非常に重要な注意点があります。これは、思考を無理やり停止させたり、感情を押し殺して無感覚になったりすることを意味するのではありません。それはむしろ、心の表面で荒れ狂っていた波を、自然に静めていくプロセスです。風が止むと、湖面の波は自然に収まり、やがて鏡のように静かになります。ニローダハとは、そのような心の状態を目指すことなのです。
なぜなら、湖面が静まり、澄み切って初めて、湖の底にある本当の宝物、すなわち私たちの真実の自己(プルシャ、あるいはアートマン)が、はっきりとその姿を映し出すからです。ヴリッティという波に惑わされている限り、私たちは湖面に映る揺れ動く雲や木の影を、自分自身だと勘違いし続けます。
では、どうすればこのニローダハを達成できるのでしょうか。そのための具体的な地図こそが、次章で詳しく学ぶ「ヨガの八支則」です。社会生活における倫理(ヤマ)や自己に対する規律(ニヤマ)から始まり、アーサナで身体を安定させ、プラーナーヤーマでプラーナを制御する。これらの準備段階を経て、感覚を内側に向けるプラティヤハーラへと進み、最終的にダーラナー(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(三昧)という内的な実践へと深まっていくのです。
ここでも、アーサナやプラーナーヤーマが単なる身体的なエクササイズではないことが明らかになります。安定した快適なアーサナは、身体の不快感から生じるヴリッティを減らし、心を集中させるための土台を築きます。規則正しいプラーナーヤーマは、感情の波を引き起こすプラーナの乱れを鎮め、チッタを静寂へと導くための強力な手段となるのです。
究極の目的:解脱 (モークシャ) へ – 苦しみの輪から自由になる
心身が統合され、意識の波が静まったとき、ヨガの旅はいよいよ最終目的地である「解脱(モークシャ)」の地平へと到達します。解脱とは、一体何からの解放なのでしょうか。
それは、第二部で探求した「輪廻(サンサーラ)」という、終わりのない生と死のサイクルからの解放です。私たちの魂は、過去の行為の結果である「カルマ(業)」の法則によって、この苦しみに満ちた世界に何度も何度も生まれ変わり続けると、インドの思想では考えられています。病、老い、死、愛する者との別れ、欲するものが得られない苦しみ…。この根源的な苦の連鎖から、完全に自由になること。それがモークシャです。
モークシャは、単に死後にどこか天国のような場所へ行くことだけを意味しません。インドの思想家たちは**「ジーヴァンムクティ」**、つまり「生きながらにして解脱した者」という理想を掲げました。この世にありながら、もはや苦しみに囚われることのない、絶対的な自由と平安の境地です。
ヨガの実践は、この解脱を可能にするための最も実践的な道筋を示してくれます。ヨーガ・スートラが説くように、心の作用(チッタ・ヴリッティ)が完全に止滅し、私たちの本来の姿である真我(プルシャ)が輝きを放つとき、何が起こるのでしょうか。
そのとき、私たちは「自分(アハンカーラ、エゴ)が行為している」という錯覚から目覚めます。行為は、もはや個人的な欲望や嫌悪から生じるものではなく、宇宙の法則である「ダルマ」に従って、自然に起こるようになります。行為の結果に対する執着(「成功したい」「失敗したくない」)がなくなるため、新たなカルマが生まれることもありません。過去のカルマの影響は残るかもしれませんが、それに囚われ、苦しむことがなくなるのです。それはまるで、熟練したサーファーが、どんな大波が来ても、その力を利用して巧みに乗りこなしてしまうようなものです。波(カルマ)を消すことはできなくても、波に飲み込まれることはなくなるのです。
この解脱へと至る意識の頂点が、**サマーディ(三昧)**と呼ばれる状態です。これは、ヨーガの八支則の最終段階であり、ダーラナー(一点への集中)が深まり、ディヤーナ(瞑想、集中の流れが途切れなくなった状態)を経て到達する、主観と客観の区別が消え去った完全な合一の境地です。
サマーディにおいて、瞑想する者(私)と瞑想される対象(例えば神や宇宙の真理)は一つになります。このとき、ウパニシャッドが説く「梵我一如」は、もはや哲学的な概念ではなく、直接的な体験となります。内なるアートマンが、宇宙の根源であるブラフマンと完全に溶け合う。この直接的な体験こそが、私たちの存在の根源にある無知(アヴィディヤー)を根こそぎ破壊し、私たちを永遠の輪廻の束縛から解き放つのです。
したがって、解脱とは、何か新しい能力を獲得したり、超人になったりすることではありません。それはむしろ、究極の「引き算」のプロセスです。私たちが「自分」だと思い込んでいた偽りの自己(エゴ、思考、感情、身体)という幾重にも重なったヴェールを一枚一枚剥がしていき、最後に残る、本来の、純粋で、永遠で、至福に満ちた「真の自己」に還っていく旅なのです。それは「何かになる」のではなく、「本来の自分自身である」ことに他なりません。
結論:古代の叡智を、今を生きる力へ
ここまで、ヨガが目指す三つの壮大な目的を探求してきました。心身を一つに結びつけ、揺れ動く意識の波を静め、そして究極的には生と死の苦しみのサイクルから自由になる。
現代を生きる私たちが、日々のヨガの実践に求めるストレス解消や健康増進といった効果は、この壮大な旅路の、いわば入り口で受け取ることができる美しい花束のようなものです。その花束を手にすること自体も素晴らしい体験ですが、ヨガの道は、その先に遥かに広大で豊かな世界が広がっていることを、私たちに教えてくれています。
日々のアーサナの実践は、心と身体の統合を促し、情報過多の社会で失われがちな「今、ここ」に生きる感覚を取り戻させてくれます。プラーナーヤーマは、感情のコントロールを助け、穏やかで安定した心を育みます。これらの実践は、直接的に私たちの生活の質を高め、人間関係を改善し、より創造的な仕事へと繋がっていくでしょう。
そして、その実践を辛抱強く続けていく中で、私たちはふと、自分の悩みが以前よりも小さく感じられたり、物事をより大きな視点から捉えられるようになったりしていることに気づくかもしれません。それこそが、意識が変容し始め、解脱という究極の自由へと続く道を着実に歩んでいる証なのです。
あなたのヨガの旅は、今どこにいるでしょうか。マットの上での一呼吸、一つのポーズが、この壮大な目的に繋がっていると感じるとき、あなたの実践は新たな深みと意味を持つはずです。
次章では、この目的を達成するための、より具体的な実践の地図である「ヨガの八支則」について、一つひとつ詳しく見ていくことにしましょう。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


