1.7.2 リグ・ヴェーダの代表的なマントラ

ヨガを学ぶ

マントラ――この言葉を聞いて、あなたはどのようなイメージを抱くでしょうか。神秘的な呪文、あるいは願いを叶えるための不思議な言葉。それも一つの側面かもしれません。しかし、ヴェーダの世界におけるマントラの真髄は、そのような限定的な理解を遥かに超えたところにあります。

マントラとは、古代のリシ(聖賢)たちが深い瞑想の中で感得した、宇宙の根源的な響きそのものです。それは、世界を創造し、維持し、そして回帰させるリズムであり、秩序(リタ)の振動です。言葉の力を借りて、人間が宇宙の根本原理と共鳴するための、神聖なテクノロジーとも言えるでしょう。それは単に「唱える」ものではなく、自らの存在そのものをその響きに「調律」していく行為なのです。

数千年という気の遠くなるような時間を越えて、口伝によって寸分違わず受け継がれてきたリグ・ヴェーダのマントラ。それは、古代インドのアーリア人たちが、雄大な自然の中に神々の顕現を見出し、畏怖と感謝と共に捧げた賛歌の集大成です。彼らは、マントラを正しく唱えることで、神々と交信し、宇宙の秩序を維持し、自らの生に意味と調和をもたらすことができると信じていました。

ここでは、数あるリグ・ヴェーダのマントラの中から、特に重要で、その後のインド思想全体、ひいては現代の私たちの精神世界にも深い影響を与え続けている代表的なものをいくつか選び、その響きの奥に秘められた深遠な世界へと旅をしてみたいと思います。これは、単なる言葉の解説ではありません。あなた自身の内なる宇宙の扉を開くための、鍵を手にする試みなのです。

 

光への目覚め:ガーヤトリー・マントラ (Gāyatrī Mantra)

数あるマントラの中でも「マントラの母」と称され、最も神聖で強力なものの一つとして崇められているのが、ガーヤトリー・マントラです。このマントラは、リグ・ヴェーダの第3マンダラ(巻)62章10節に収められており、太陽神サヴィトリに捧げられています。

【サンスクリット語原文(ローマ字表記)】

oṃ bhūr bhuvaḥ svaḥ

tat savitur vareṇyaṃ

bhargo devasya dhīmahi

dhiyo yo naḥ pracodayāt

【和訳】

オーム。物質界、心の世界、そして天界。

あの、崇めるべき太陽神サヴィトリの

聖なる輝きに、我らは瞑想いたします。

どうか、我らの知性を奮い立たせ、光へと導いてください。

一見すると、これは太陽への素朴な祈りのように思えるかもしれません。しかし、この短い詩句には、ヴェーダ哲学の宇宙観と人間観のエッセンスが凝縮されています。

まず冒頭の「オーム(oṃ)」は、宇宙の始まりの音、全ての存在を内包する聖音です。続く「ブール・ブヴァッ・スヴァッ(bhūr bhuvaḥ svaḥ)」は、それぞれ地界(物質的な世界)、空界(心の世界、生命エネルギーの世界)、天界(霊的な世界、神々の世界)を象徴する「マハー・ヴィヤーリティ(偉大なる発生語)」です。つまり、このマントラは、この宇宙のあらゆる次元、あらゆる領域に向けて発せられていることを宣言しているのです。

そして、祈りの対象である**サヴィトリ(Savitṛ)**は、単に空に輝く物理的な天体としての太陽ではありません。サヴィトリとは「激励するもの」「刺激するもの」を意味する言葉であり、万物に生命を与え、活動を促し、そして私たちの内なる暗闇を照らし、覚醒へと導く、宇宙の根源的な光の原理そのものを指します。

私たちが瞑想の対象とするのは、そのサヴィトリの「バルガ(bhargaḥ)」です。バルガとは、単なる「輝き」や「栄光」ではありません。それは、私たちの無知(アヴィディヤー)や罪、カルマの種子といった、精神的な不純物を焼き尽くす、浄化の力を持つ霊的な光輝を意味します。

このマントラの核心は、最後の行にあります。「ディヨー・ヨー・ナッ・プラチョーダヤート(dhiyo yo naḥ pracodayāt)」――私たちの知性(dhi)を、どうか奮い立たせ、刺激し、正しい方向へと導いてください、と。ここでいう「知性」とは、単なる知識や論理的思考力のことではありません。それは、真理と非真理、実在と非実在を見極める、霊的な洞察力、叡智のことです。

つまり、ガーヤトリー・マントラは、「どうか私たちに豊かさや健康を与えてください」といった受動的な「お願い」のマントラではないのです。これは、「私たちの内なる叡智が、宇宙の根源的な光によって照らし出され、真理へと目覚めていきますように」という、自己変容への極めて能動的で力強い意志表明なのです。自らの内側にある可能性の扉を、宇宙の光の力で開こうとする、意識的な実践といえるでしょう。

このマントラが「ガーヤトリー」と呼ばれるのは、それがガーヤトリーという名の韻律(チャンダス)で構成されているからでもあります。8音節×3行のこのリズミカルな詩形自体が、唱える者の意識を特定の周波数に同調させる力を持つと考えられていました。

現代においても、ガーヤトリー・マントラは、日の出と共に唱えられ、知識を探求する者がその導きを求め、精神的な浄化を願う人々によって大切に唱えられています。それは、私たち一人ひとりの中に眠る「サヴィトリ」、すなわち内なる光への目覚めを促す、永遠の呼び声なのです。

 

死と執着からの解放:マハー・ムリッティユンジャヤ・マントラ (Mahā Mṛtyuñjaya Mantra)

次に紹介するのは、「死を克服する偉大なマントラ」として知られる、マハー・ムリッティユンジャヤ・マントラです。このマントラは、リグ・ヴェーダ第7マンダラ59章12節に登場し、暴風雨の神であり、破壊と再生、そして偉大な癒しの力を司る神ルドラに捧げられています。ルドラは、後のヒンドゥー教におけるシヴァ神の前身とされる、畏怖すべき強力な神格です。

【サンスクリット語原文(ローマ字表記)】

oṃ tryambakaṃ yajāmahe

sugandhiṃ puṣṭivardhanam

urvārukamiva bandhanān

mṛtyormukṣīya māmṛtāt

【和訳】

オーム。三つの眼を持つ御方を、我らは崇拝いたします。

芳香を放ち、すべての者を養い、繁栄を増大させる御方を。

瓜が蔓という束縛から自然に解き放たれるように、

どうか我らを、死から解放したまえ。不死からではなく。

このマントラは、病からの回復、長寿、そして究極的には輪廻転生からの解脱(モークシャ)を祈る、強力な癒しのマントラとして知られています。その深遠な意味は、特に後半の比喩表現に凝縮されています。

まず、ルドラ神は「トゥリャンバカム(tryambakaṃ)」、すなわち「三つの眼を持つ者」と呼ばれます。この三つの眼は、過去・現在・未来を見通す全知の眼、あるいは太陽・月・火という宇宙の三つの光を象徴すると解釈されます。彼は「スガンディム(sugandhiṃ)」(芳香を放つ者)であり、「プシュティヴァルダナム(puṣṭivardhanam)」(滋養を増大させる者)でもあります。これは、ルドラ神の破壊的な側面だけでなく、生命を育み、世界を豊かにするという慈悲深い側面を讃えている部分です。

そして、このマントラの詩的、哲学的な白眉が「ウルヴァールカミヴァ・バンダナーン(urvārukamiva bandhanān)」の一節です。「熟した瓜が、その蔓という束縛から自然に、何の苦痛もなく解き放たれるように」という、この絶妙な比喩は何を物語っているのでしょうか。

これは、死というものを、暴力的に引き裂かれる恐ろしい出来事としてではなく、成熟の果てに訪れる自然な移行として捉える、ヴェーダ詩人の深い洞察を示しています。私たちは皆、肉体という「蔓」に繋がれた存在です。しかし、魂が成熟したとき、その束縛から、熟した果実が枝からポトリと落ちるように、安らかに、円満に離れることができる。そのように、死の恐怖や生への執着から解放されたい、という切実な願いがここには込められています。

最後の行「ムリティョール・ムクシーヤ・マームリタート(mṛtyormukṣīya māmṛtāt)」は、非常に重要です。「死(mṛtyoḥ)から私を解放してください。しかし、不死(amṛtāt)からは離さないでください」と訳せます。ここでの「死」とは、単なる肉体的な死滅だけを指すのではありません。それは、無知、エゴ、苦悩、輪廻といった、私たちの霊的な生を蝕むあらゆる「死すべき運命」からの解放を意味します。そして「不死(アムリタ)」とは、永遠の命、すなわち解脱した状態、真理そのものであるブラフマンとの合一を指します。

このマントラは、単なる延命の祈りではないのです。それは、人生におけるあらゆる苦しみや束縛、そして死への恐怖といったものから、熟した果実のように自然に解放され、永遠の真理という本来の故郷へと還っていくことを願う、魂の祈りなのです。病に苦しむとき、人生の大きな転機に直面したとき、あるいは日々の瞑想の中で、このマントラは私たちに深い心の平安と、執着を手放す勇気を与えてくれるでしょう。

 

万物の繋がりと秩序:プルシャ・スークタ (Puruṣa Sūkta)

これまで見てきたマントラが特定の神格への祈りであったのに対し、次に紹介する「プルシャ・スークタ(原人賛歌)」は、宇宙全体の創造のプロセスを描き出す、壮大な宇宙論的・哲学的な賛歌です。リグ・ヴェーダ第10マンダラ90章に収められており、その後のインド思想、特にウパニシャッドの梵我一如思想に計り知れない影響を与えました。

この賛歌は、宇宙の始まりに存在した**プルシャ(Puruṣa)**という、一個の巨大な人格的存在を物語の中心に据えます。このプルシャは、「千の頭、千の眼、千の足」を持ち、全宇宙を覆い、なおかつそれを十指の幅だけ超越している、と描写されます。彼は、過去・現在・未来のすべてであり、万物の根源そのものです。

賛歌によれば、神々はこの原初存在であるプルシャを犠牲(ヤグニャ)として、世界で最初の壮大な祭祀を行いました。そして、そのプルシャの身体の各部位から、この世界の森羅万象が創造されたと語られます。

  • 彼の心からは月が、眼からは太陽が生まれた。

  • 口からはインドラ神とアグニ神が、呼吸からは風の神ヴァーユが生まれた。

  • 臍からは空界が、頭からは天界が、足からは地界が、耳からは方角が生じた。

このように、神々、自然現象、宇宙の構造そのものが、すべてプルシャという一つの根源から生じた部分である、と説かれるのです。

この賛歌の中で特に注目され、後世に大きな影響を与えたのが、ヴァルナ(四つの社会階級)の起源に関する記述です。

  • プルシャの口は、バラモン(祭官階級)となった。

  • 両腕は、ラージャニヤ(クシャトリヤ、王侯・武人階級)となった。

  • 両腿は、ヴァイシャ(農民・商人などの庶民階級)となった。

  • 両足からは、シュードラ(隷民・労働者階級)が生じた。

この部分は、後にインド社会に固定化されるカースト制度を神話的に正当化するものとして解釈されてきました。しかし、本来の意図は、社会を構成する各階級が、それぞれ異なる役割を持ちながらも、プルシャという一つの身体を構成する不可欠な部分であり、全体として有機的な調和を保つべきである、という社会観を示していたと考えることもできます。口が足を、足が口を軽んじることができないように、社会の各部分も互いに尊重し、支え合うべきだという思想です。

プルシャ・スークタが示す最も重要な哲学的洞察は、この宇宙に存在するすべてのものが、無関係に存在するのではなく、すべてが一つの根源的な実在から生じた、分かちがたい繋がりの中にあるという一元論的な世界観です。あなたも、私も、空の太陽も、風の音も、遠い星々も、すべてはかつてプルシャという一つの身体の一部だったのです。この思想は、個々の自己(アートマン)の奥底に、宇宙の根源(ブラフマン)を見出そうとするウパニシャッド哲学の「梵我一如」へと直接的に繋がっていきます。この賛歌を瞑想することは、私たちを孤立した個人という幻想から解き放ち、万物との深いつながりを体感させてくれるでしょう。

 

根源への問い:ナーサディーヤ・スークタ (Nāsadīya Sūkta)

最後に紹介するのは、リグ・ヴェーダ第10マンダラ129章に収められた「ナーサディーヤ・スークタ」、通称「創造の賛歌」あるいは「無の賛歌」です。この賛歌は、リグ・ヴェーダの中でも最も哲学的で思索的な高みに達したものとされ、人間の知的好奇心と謙虚さの極致を示しています。

他の創造神話が「神がこのように世界を創った」と断定的に語るのとは対照的に、この賛歌は、存在の根源に対するラディカルな問いから始まります。

そのとき、無(asat)も無く、有(sat)も無かった。

空界も無く、その向こうの天も無かった。

何が覆っていたのか? どこに? 誰の庇護のもとに?

深く測り知れない水(ambhaḥ)があったのか?

そのとき、死も無く、不死も無かった。

夜と昼のしるしも無かった。

かの唯一なるもの(Tad Ekam)が、自らの力によって、風なく呼吸していた。

それ以外には、何ものも存在しなかった。

この冒頭部分は、私たちの認識の枠組み、すなわち有と無、生と死、光と闇といった、あらゆる二元論的な対立概念が成立する以前の、言葉では捉えきれない原初の状態を描写しようと試みています。それは、神々さえもまだ存在しない、絶対的な未分化の状態です。

その静寂の中で、唯一存在したのが「タド・エカム(Tad Ekam)」、すなわち「かの唯一なるもの」。これは人格を持つ神ではなく、非人格的で中性的な、宇宙の根源原理です。その唯一者が、自らの内に秘めた熱(タパス)によって活動を開始し、その心に「カーマ(kāma)」、すなわち欲望(創造への意志)が最初に生じた、と賛歌は続けます。これが、存在が非存在から現れる最初の種子であった、というのです。

しかし、この賛歌の最も驚くべき点は、その結論部分にあります。創造のプロセスを詩的に描きながらも、最終的には人間の認識の限界を率直に認め、深遠な不可知論へと至るのです。

この創造がどこから来たのか、誰が本当に知っているだろうか?

誰がここで宣言できようか? それがどこから生まれたのか、この創造がどこから来たのかを。

神々さえ、この創造の後に来たのだから。

では、誰がそれがどこから現れたかを知ろうか?

この創造がどこから現れたのか、それが創造されたのか、されなかったのか。

その監督者が最高天にいる。彼のみがそれを知っているのか。

――あるいは、彼さえも知らないのか?

この最後の問いかけ、「あるいは、彼さえも知らないのか?」は、私たちに衝撃を与えます。これは、安易なドグマや信仰に安住することを拒否し、存在の根源的な謎に対して、どこまでも開かれた問いであり続けるという、真に哲学的な精神の表明です。

ナーサディーヤ・スークタは、私たちに答えを与えません。その代わり、私たち自身に、最も深く、最も根源的な問いを投げかけます。それは、ヴェーダの叡智が、単なる神話の集積ではなく、自己と宇宙の真理を探求し続ける、生きた哲学の道であることを力強く示しているのです。

 

結論として:響きと共に生きる

私たちは、リグ・ヴェーダを代表するいくつかのマントラを巡る旅をしてきました。

光への目覚めを促す「ガーヤトリー・マントラ」。

死と執着からの解放を教える「マハー・ムリッティユンジャヤ・マントラ」。

万物との一体性を説く「プルシャ・スークタ」。

そして、存在の根源への尽きない問いを投げかける「ナーサディーヤ・スークタ」。

これらは、数千年前に生きた人々の、単なる古びた言葉ではありません。それは、時代を超えて私たちの魂に直接語りかけてくる、生きた叡智の響きです。これらのマントラを唱え、その意味を深く瞑想することは、現代の複雑で喧騒に満ちた社会を生きる私たちにとって、羅針盤となり得ます。

それは、私たちを日々の悩みや表面的な出来事から引き離し、より大きな宇宙の視点へと意識を開かせてくれます。そして、私たち一人ひとりが、孤立した存在ではなく、宇宙の壮大なシンフォニーの一部を奏でる、かけがえのない存在であることを思い出させてくれるのです。

この響きと共に生きること。それこそが、ヴェーダ哲学を「学ぶ」ことから「生きる」ことへと昇華させる、実践の道なのです。

 

 

ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。

 

 


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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。