ヴェーダの世界を旅する中で、私たちは特に神秘的な光に包まれた、一つの聖なる存在に出会います。それは、神々の渇きを癒し、人間に霊感を与え、宇宙の秩序そのものを支えると言われる神秘の飲料、ソーマです。
『リグ・ヴェーダ』全10巻のうち、実にその1巻分(第9巻)のすべてが、このソーマへの賛歌に捧げられているという事実だけでも、古代アーリア人にとってソーマがいかに絶対的な重要性を持っていたかが窺えるでしょう。ソーマは単なる祭祀の供物ではありませんでした。それは神と人を繋ぐ生きた媒介者であり、詩的霊感の源泉であり、そして不死をもたらす神々の霊薬そのものだったのです。
しかし、その正体は悠久の時の流れの中に姿を消し、現代の私たちにとっては、古代文献の中に残された芳醇な香りをたどることしかできない、大いなる謎として存在しています。なぜソーマは失われたのか。その正体は何だったのか。そして、古代の人々がソーマに託した想いとは、一体何だったのでしょうか。
本章では、この謎に満ちた聖なる飲料ソーマをめぐる探求の旅に出ます。植物学的な推論から、儀式における役割、そして後世の思想への影響までを網羅的に考察し、古代インドの人々が見た宇宙のヴィジョンと、彼らの意識の深淵に触れていきたいと思います。それは、現代人が忘れかけている「聖なるもの」との交感の可能性を、私たちに静かに問いかけてくる旅になるはずです。
もくじ.
聖典に描かれるソーマの姿
『リグ・ヴェーダ』の賛歌を読むと、ソーマの鮮やかなイメージが目の前に立ち現れてくるようです。詩人たちは、ソーマを「山の王」「植物の王」と呼び、その姿を生き生きと描写しています。
「おお、ソーマよ、汝は浄められ、インドラ神のために流れよ。甘美なる滴となりて。」(リグ・ヴェーダ 9.1.1)
賛歌によれば、ソーマは山、特にムージャヴァット山に自生する植物であったとされます。黄金色あるいは赤褐色の茎を持ち、それを祭官たちが石の圧搾器で力強く叩き、その汁を絞り出します。この圧搾という行為そのものが、極めて神聖な儀式でした。それは単なるジュース作りではなく、植物の肉体に宿る聖なるエッセンスを解放し、神々の世界へと送り届けるための、ダイナミックな創造のプロセスだったのです。
絞り出された黄褐色の液体は、羊毛のフィルターで濾され、清められます。この濾過のプロセスもまた、ソーマ賛歌の中心的なテーマであり、不純なものを取り除き、純粋な神性が現れる様を象徴していました。そして、水や牛乳、凝乳、麦などと混ぜ合わされ、最終的に神々と祭官たちが飲むための聖なる飲料が完成します。
その味は「蜂蜜よりも甘く」、その香りは芳醇であったと讃えられます。そして、ソーマを飲んだ者に訪れる体験は、尋常なものではありませんでした。それは不死の感覚、神々との一体感、肉体的な力の増強、そして何よりも、敵を打ち破る無類の勇気でした。特に、ヴェーダの英雄神インドラは、最大のソーマ愛飲者として知られています。彼はソーマを痛飲することでその力を増大させ、宇宙の混沌を象徴する龍ヴリトラを打ち倒し、世界に水と光を解放したとされています。ソーマなくして、インドラの偉業はあり得ず、宇宙の秩序(リタ)も維持されなかったのです。
1.6.1 ソーマの正体:植物学的な謎をめぐる大いなる探求
これほどまでに重要であったソーマが、なぜ歴史の舞台から姿を消し、その正体が分からなくなってしまったのでしょうか。その背景には、ヴェーダ時代の終焉と共に、複雑なソーマ祭祀が次第に簡略化、あるいは別の植物で代用されるようになり、やがては本来の植物が何であったかという口伝そのものが失われてしまった、という歴史的な経緯があると考えられています。
以来、この失われた聖なる植物の正体をめぐって、数多くの研究者たちが壮大な知的探求を繰り広げてきました。ここでは、その代表的な説をいくつかご紹介しましょう。
ベニテングタケ(Amanita muscaria)説
最も有名で、かつセンセーショナルな説が、米国の菌類学者R.G.ワッソンが1968年に提唱した、幻覚性のキノコ「ベニテングタケ」をソーマの正体とする説です。ワッソンは、『リグ・ヴェーダ』の描写に注目しました。賛歌にはソーマに「葉もなければ、種も、花もない」といった記述が見られ、これはキノコの特徴と一致します。また、ベニテングタケには強力な幻覚作用があり、賛歌に描かれる「天を翔る」ような神秘体験や意識変容を説明できると彼は考えました。
さらに興味深いのは、シベリアのシャーマンたちがベニテングタケを用いた儀式で行っていた習慣との類似性です。ベニテングタケの幻覚成分は、尿の中に排出されてもその効力を失いません。シベリアのシャーマンは、自らが食べたキノコの尿を他の者が飲んで、その効果を共有するという習慣を持っていました。『リグ・ヴェーダ』にも、この尿に関する間接的な言及が見られることから、ワッソンはこの説の確度を高めました。この説は学界に大きな衝撃を与えましたが、決定的な証拠に欠けるという批判も多く、現在では数ある仮説の一つと見なされています。
エフェドラ(Ephedra)/ マオウ(麻黄)説
現在、より多くの研究者に支持されているのが、エフェドラ(和名:マオウ)をソーマの正体とする説です。エフェドラは中央アジアの乾燥地帯に自生する低木で、覚醒作用を持つアルカロイド、エフェドリンを含んでいます。
この説の強力な根拠は、ヴェーダと密接な関係にある古代ペルシアのゾロアスター教の聖典『アヴェスター』にあります。『アヴェスター』には、ソーマと語源的にも極めて近い「ハオマ(Haoma)」という聖なる飲料が登場し、その儀式や賛歌の内容もソーマと酷似しています。そして、ゾロアスター教の伝統では、このハオマがエフェドラの一種であることが比較的明確に伝えられているのです。言語的な繋がりと儀式の類似性から、アーリア人がインドとイランに分かれる以前の共通の時代に、すでにエフェドラを聖なる植物として用いていたのではないか、と推測されています。エフェドラの覚醒作用は、戦士に勇気を与え、祭官が夜通しの儀式を執り行うのを助けたであろうと考えられます。
その他の説
その他にも、中東原産の幻覚性植物ペガヌム・ハルマラ(Peganum harmala)や大麻(カンナビス)、あるいは特定の単一の植物ではなく、複数の植物を調合した秘薬であったとする説など、様々な可能性が議論されています。
ここで、少し視点を変えてみましょう。私たちはつい、「ソーマの正体は何か」という問いの答えを、一つの植物名に求めてしまいます。しかし、それはあまりに現代的な、実証主義的な発想なのかもしれません。古代のアーリア人にとって重要だったのは、植物の学名そのものではなかったはずです。彼らにとって重要だったのは、山でその植物を採取し、共同体の中で厳格な儀礼に則って圧搾し、マントラを唱えながら神々に捧げ、そして仲間と共にその聖なる力を分かち合う、という一連の身体的・共同的な体験そのものではなかったでしょうか。ソーマとは、特定の物質を指す以上に、その儀礼全体を通して生成される「聖なる体験」、あるいは神々と交感する「状態」そのものを指す言葉だったのかもしれません。正体探しという謎解きは魅力的ですが、その問いの奥にある古代人の精神性にこそ、私たちは目を向けるべきなのです。
1.6.2 ソーマの効能:意識変容と神秘体験
では、ソーマを飲んだ者には、具体的にどのような体験が訪れたのでしょうか。『リグ・ヴェーダ』の詩人たちは、その驚くべき効能を、感嘆と畏怖の念を込めて繰り返し歌い上げています。
神々と宇宙への影響
まず、ソーマは神々のための飲み物でした。特にインドラ神はソーマの力を借りて宇宙的秩序を確立し、アグニ神はソーマによって輝き、他の神々もまたソーマによって活力を得て、それぞれの役割を果たします。つまり、ソーマは神々の活動の源泉であり、ひいては宇宙のサイクルを円滑に回すための燃料のような役割を担っていました。ソーマ祭祀は、単に人間が神に何かを捧げるという一方的な行為ではなく、神々を活性化させることで宇宙全体の生命力を高め、その恩恵を人間も享受するという、壮大な相互扶助のシステムだったのです。
人間(祭官)への影響
神々に捧げられたソーマは、祭祀を執り行う祭官たちによっても飲まれました。彼らにもたらされた体験は、まさに神秘的としか言いようのないものです。
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意識の変容と霊的飛翔: 賛歌には「我はソーマを飲めり。我は不死となり、光のもとへ達せり」(8.48.3)といった有名な一節があります。ソーマを飲んだ者は、肉体の束縛から解放され、翼を得て天を翔るような感覚や、神々と共に在るという至福感を体験したとされます。これは単なるアルコールによる酩酊とは質的に異なります。五感は鈍るのではなく、むしろ鋭敏になり、時間や空間の感覚が超越され、宇宙の真理を垣間見るような、聖なる次元への参入体験だったと考えられます。これは、後世のヨーガや瞑想が目指すサマーディ(三昧)の境地の、原初的な形であったとも言えるでしょう。
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霊感と創造性の源泉: ヴェーダの賛歌(マントラ)を感得し、それを詠ったとされる聖仙(リシ)たちは、ソーマを飲むことによってその詩的・宗教的霊感を得たと信じられていました。ソーマは、日常的な意識の扉を開き、超意識的な領域から聖なる言葉やヴィジョンをダウンロードするための触媒だったのです。ソーマは、ヴェーダ文化の創造性のまさに中核にありました。
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身体感覚の変化と治癒: ソーマは、精神的な作用だけでなく、肉体にも強力な影響を与えました。「すべての病を癒し」、身体に力をみなぎらせ、感覚を鋭くすると讃えられています。ここには、心と身体を分けない、古代的な心身一如の世界観が見て取れます。精神的な高揚と身体的な活力は、分かちがたく結びついていたのです。縁側で風を感じる心地よさが、心の平穏に直接繋がるように、ソーマによる聖なる体験は、全身全霊で味わうものでした。
ソーマの象徴的な変容:内なる不滅の甘露へ
ヴェーダ時代が終わり、祭祀中心の宗教から、内面的な思索と解脱を目指すウパニシャッド哲学の時代へと移行するにつれて、ソーマの捉え方にも大きな変化が訪れます。物理的な植物としてのソーマは次第に忘れ去られ、その代わりに、ソーマはより象徴的で、内面的な存在として再解釈されるようになっていきました。
その最も顕著な例が、後代のヨーガ、特にハタ・ヨーガやタントラの伝統に見られる「アムリタ(不滅の甘露)」という概念です。ヨーガの実践者たちは、ソーマを外部の植物に求めるのではなく、私たち自身の身体の内部に存在すると考えたのです。
彼らの身体観によれば、頭頂部にあるサハスラーラ・チャクラ(千弁の蓮華)には、月のエネルギーが宿っており、そこから不滅の霊薬であるアムリタ、すなわち「内なるソーマ」が絶えず滴り落ちているとされます。通常、このアムリタは腹部の消化の火(ジャータラ・アグニ)によって燃やし尽くされ、浪費されてしまいます。しかし、ハタ・ヨーガの実践者たちは、逆転のポーズ(シールシャーサナやサルヴァーンガーサナなど)や、舌を喉の奥に差し入れるケーチャリー・ムドラーといった特殊な技法によって、このアムリタが下に落ちるのを防ぎ、その甘露を身体に留めることで、若さと活力を保ち、不死の境地さえ目指すのです。
この変化は、インド思想史における極めて重要な転換点を象徴しています。かつては、特別な祭官が執り行う大規模な儀式と、特定の希少な植物によってしか得られなかった聖なる体験が、今や個人の献身的なヨーガの実践によって、誰の身体の内部にでも見出すことができる、とされたのです。聖なるものは、外部の儀式から、個人の内なる探求の対象へと移行しました。この思想的変遷の先に、現代私たちが実践するヨーガがあるのです。
結論:失われたソーマが現代に問いかけるもの
ソーマをめぐる探求の旅は、私たちを古代インドの壮大な宇宙観へと誘い、そして最終的には私たち自身の内面へと回帰させます。ソーマの植物学的な正体を突き止めることは、今となっては非常に困難であり、もはや不可能かもしれません。しかし、その探求以上に私たちにとって重要なのは、古代アーリア人が、一つの植物との交感を通して、宇宙や神々、そして共同体の仲間と深く結びつき、生の実感を豊かにしていたという事実そのものです。
彼らは、自然を単なる資源や利用の対象として見てはいませんでした。自然の中には神性が宿り、植物は人間と神々を繋ぐ聖なるメッセンジャーとなり得たのです。現代社会は、科学技術の発展と引き換えに、自然を客体化し、こうした聖なるものとの交感を失ってしまったのかもしれません。
ソーマは失われました。しかし、ソーマが象徴していたもの、すなわち、日常を超えた次元へと私たちの意識を開き、心身に活力と平穏をもたらし、万物との一体感を回復させる力は、決して失われてはいません。それは、ウパニシャッドの賢者たちやヨーガ行者たちが示したように、私たち自身の内に見出すことができるのです。
縁側に出て、深く呼吸をし、肌をなでる風の感触に意識を向ける。沈む夕日の美しさに心を奪われる。鳥の声に耳を澄ませる。そうした、日常の中に埋もれたささやかな身体感覚や自然との交感を取り戻すこと。それこそが、現代に生きる私たちにとっての「内なるソーマ」を見出す、第一歩となるのではないでしょうか。
ソーマの探求とは、単なる古代史のロマンを追い求めることではありません。それは、私たち自身の意識の持つ無限の可能性と、自然との本来あるべき関係性を見つめ直すための、深遠な旅なのです。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


