バガヴァッド・ギーターの旅は、クルクシェートラの戦場でアルジュナが抱いた苦悩から始まり、魂の不滅性、カルマヨーガ(行為のヨーガ)、ギャーナヨーガ(知識のヨーガ)といった深遠な教えを経て、いよいよ第七部「ギャーナヴィギャーナ・ヨーガ」へと至ります。ここでは、神の本質とその顕現、そして宇宙の神秘がクリシュナによって明らかにされます。この壮大な宇宙観、神の遍在性を理解した先に、私たち人間が目指すべき究極の目標とその道筋が示されます。それが「モークシャ(解脱)」であり、そこに至るための確かな道が「神への帰依」です。
本章では、この「神への帰依」がいかにして私たちを「究極の自由」であるモークシャへと導くのか、その深遠なメカニズムと実践的な側面を、丁寧に考察していきましょう。
もくじ.
究極の自由「モークシャ」とは何か
まず、「モークシャ(मोक्ष, mokṣa)」という言葉の持つ意味を深く理解することから始めなければなりません。モークシャは、単に「解放」と訳されることが多いですが、それは一体何からの解放なのでしょうか。東洋思想、特にインド哲学の根底には、「輪廻転生(サンサーラ, संसार, saṃsāra)」という観念があります。これは、生命が死後も新たな生を受け、終わりなき生と死のサイクルを繰り返すという考え方です。この輪廻は、苦しみの連続(ドゥッカ, दुःख, duḥkha)であると捉えられています。病、老い、死、愛する者との別離、憎む者との出会い、望むものが得られない苦しみなど、人生は様々な苦悩に満ちています。モークシャとは、この苦しみに満ちた輪廻のサイクルからの完全なる解放、永遠の自由を意味するのです。
しかし、モークシャは単にネガティブな状態からの逃避ではありません。それは、私たちの魂(アートマン, आत्मन्, ātman)が本来持っている至福(アーナンダ, आनन्द, ānanda)、純粋意識(チット, चित्, cit)、そして存在(サット, सत्, sat)そのものである状態への回帰であり、積極的な喜びと平安に満ちた境地なのです。物質的な束縛や心の動揺から解放され、真の自己の本質に目覚めること、それがモークシャの真髄と言えるでしょう。
バガヴァッド・ギーターは、このモークシャを人生の究極的な目標として提示します。そして、第七部においてクリシュナは、ご自身が宇宙の根源であり、万物に内在する至高なる存在であることを明かします。この宇宙の真理を知り、その創造主であり維持者である神を理解した上で、人間はその神とどのように関わっていくべきなのか。その問いに対する明確な答えが、次に探求する「神への帰依」なのです。
神への帰依(バクティ)の深遠なる意味
「神への帰依」は、サンスクリット語で「バクティ(भक्ति, bhakti)」と表現されます。バクティは、単なる盲目的な信仰や一時的な感情の高ぶりとは異なります。それは、神に対する深い愛、献身、奉仕、全幅の信頼、そして自己の完全な明け渡しを含む、包括的で情熱的な心のあり方です。バガヴァッド・ギーターにおいて、バクティはカルマヨーガやギャーナヨーガと並ぶ重要な道として説かれるだけでなく、時にはそれらを統合し、超越する最も優れた道としても位置づけられています。
なぜなら、行為(カルマ)の奥には行為を捧げる対象への想いがあり、知識(ギャーナ)の追求もまた、知るべき対象への愛着や探求心から生まれるからです。バクティは、これらのヨーガの根底にある動機を純化し、神へと方向づける力を持つのです。
バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナはアルジュナに対して、様々な形でご自身へのバクティを説きます。それは、友人(サキャ, सख्य, sakhya)に対するような親密な愛、主君に対する従者(ダーシャ, दास्य, dāsya)のような献身的な奉仕、あるいは恋人に対するような熱烈な愛情(マードゥリャ, माधुर्य, mādhurya)など、多様な感情の形で表現され得ます。アルジュナとクリシュナの師弟関係、友人関係そのものが、バクティの美しい実践例と言えるでしょう。
帰依の対象となる「神」は、バガヴァッド・ギーターにおいてはクリシュナとして人格的に描かれます。彼は、私たちの祈りを聞き、愛に応え、苦難から救い出してくれる慈悲深い存在です。しかし同時に、クリシュナは宇宙のあらゆる現象の背後にある非人格的な絶対実在、ブラフマン(ब्रह्मन्, brahman)そのものでもあります。第七部でクリシュナが「私よりも上位のものは何もない。アルジュナよ、すべてのものは、あたかも糸に貫かれた真珠のように、私に貫かれているのだ」(BG 7.7)と語るように、神は万物の根源であり、遍在する力なのです。
このような神の超越性と内在性を理解した上で、その偉大なる力に自らを委ね、愛と信頼をもって関わっていくこと、それがバクティの本質です。それは、あたかも小さな川が大きな海へと自然に流れ込み、一体となるような、魂の自然な傾向なのかもしれません。
帰依がモークシャへと導くメカニズム:心の錬金術
では、この神への純粋な帰依は、具体的にどのようにして私たちを輪廻の束縛から解放し、究極の自由であるモークシャへと導くのでしょうか。そこには、心の働きに関する深い洞察と、霊的な変容のプロセスが存在します。
自我(アハンカーラ)の溶解
私たちの苦しみの根源の多くは、「自我(アハンカーラ, अहंकार, ahaṅkāra)」、つまり「私が」「私のもの」という分離感と自己中心的な執着にあります。この自我は、私たちを他者や世界から切り離し、恐れ、怒り、欲望といった感情の波に翻弄させます。神への帰依は、この頑なな自我を神の御前に明け渡し、溶解させるプロセスです。
「私がこれを行った」「これは私の功績だ」という思いを手放し、「すべては神の御心であり、私は神の道具に過ぎない」という謙虚な心境に至る時、自我の力は弱まります。自己の小ささを認め、無限なる神の力に委ねることで、私たちは自己中心的な視点から解放され、より大きな視野と平安を得るのです。これは、個人の力を超えたものへの信頼、ある種の「お任せする」という境地に近いかもしれません。現代社会で強調されがちな「自力本願」とは異なる、他力的な要素を受け入れることの重要性を示唆しています。
カルマの法則からの解放
バガヴァッド・ギーターは、カルマ(कर्म, karma)の法則、つまり行為とその結果の因果律を重視します。私たちが行うあらゆる行為は、良いものであれ悪いものであれ、何らかの結果(カルマ・パラ, कर्मफल, karmaphala)を生み出し、それが未来の経験やさらなる輪廻の原因となります。特に、行為の結果に対する執着(サンガ, सङ्ग, saṅga)が、私たちをカルマの鎖に縛り付けるのです。
神への帰依に基づく行為、すなわち「バクティヨーガ」は、このカルマの法則から自由になる道を開きます。なぜなら、帰依者は行為そのものやその結果を神に捧げるからです。「私が行為するのではなく、神が私を通して行為される」「行為の結果はすべて神のものである」という意識で行動する時、その行為は個人的なカルマの種を生み出しません。それは、あたかも焼かれた種子が発芽しないのと同じです。
さらに、神への純粋なバクティは、過去の行為によって蓄積されたカルマ(サンチタ・カルマ, सञ्चितकर्म, sañcitakarma)をも焼き尽くす力を持つと言われます。神の無限の慈悲と愛は、私たちの過去の過ちを浄化し、魂を軽くしてくれるのです。
三つのグナの影響からの超越
バガヴァッド・ギーターは、自然界(プラクリティ, प्रकृति, prakṛti)を構成する三つの基本的な性質、あるいは様態として「トリグナ(त्रिगुण, triguṇa)」を説きます。これらは、純粋性・調和・光明の「サットヴァ(सत्त्व, sattva)」、活動性・激情・欲望の「ラジャス(रजस्, rajas)」、そして無知・怠惰・暗黒の「タマス(तमस्, tamas)」です。私たちの心と体は常にこれらのグナの影響下にあり、そのバランスによって性格や行動が左右され、束縛の原因ともなります。
神への純粋で揺るぎない帰依は、これらのグナの影響を超越する力をもたらします。なぜなら、神自身がグナを超えた存在(ニルグナ, निर्गुण, nirguṇa)だからです。神に心を集中し、神の性質を瞑想することで、帰依者の心もまたサットヴァ的な純粋性を増し、やがてはラジャスやタマスの束縛的な影響力から解放されていくのです。第七部でクリシュナは「私に帰依する者だけが、このマーヤー(幻力、グナの働き)を乗り越えることができる」(BG 7.14)と明確に述べています。
神の恩寵(クリパー)の役割
モークシャへの道は、確かに個人の努力やヨーガの実践を必要とします。しかし、バガヴァッド・ギーターは、人間の力だけでは完全な解脱を達成することは極めて困難であることも示唆しています。そこには、神の「恩寵(クリパー, कृपा, kṛpā)」という、目に見えない大いなる助けが必要となるのです。
純粋な心で神に自己を捧げ、無条件の愛と信頼をもって帰依する者に対して、神は惜しみない恩寵を注ぎます。この恩寵によって、帰依者は霊的な理解を深めるための智慧(ギャーナ)を授かり、解脱への道における障害は取り除かれます。それは、あたかも暗闇の中で灯火を与えられるように、迷える魂を正しい方向へと導く神の慈悲の現れです。
クリシュナは「私を常に念じ、私に帰依する者たちに対して、私は、彼らが私に到達できるように、愛をもって知性のヨーガ(ブッディヨーガ)を与える」(BG 10.10)と約束しています。この神の恩寵こそが、帰依者をモークシャへと確実に導く最終的な力となるのです。
神への帰依の実践:日常生活を聖化する道
神への帰依は、特別な儀式や難解な修行の中にのみ見出されるものではありません。それは、私たちの日常生活のあらゆる場面で実践可能な、生き方そのものなのです。縁側で感じる心地よい風、一杯のお茶の温かさ、道端に咲く小さな花にも、神の現れを感じ取り、感謝の念を捧げることからバクティは始まります。
日常生活における帰依の形
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行為の奉献(カルマ・アルパナ, कर्मा अर्पण, karma arpaṇa): 日々の仕事、家事、他者への奉仕など、あらゆる行為を「神への捧げもの」として行う。結果を神に委ね、見返りを期待せず、誠実に務めを果たす。
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神名の称名(ナーマサンキールタナ, नामसङ्कीर्तन, nāmasaṅkīrtana / ジャパ, जप, japa): 神の御名を繰り返し唱えること。声に出して歌うキールタンや、心の中で静かに繰り返すジャパは、心を神に集中させ、浄化する強力な手段です。
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神の物語の聴聞と想起(シュラヴァナ, श्रवण, śravaṇa / スマラナ, स्मरण, smaraṇa): 聖典や聖者たちの物語を聞き、神の偉大さや慈悲を常に心に留めておくこと。
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神への礼拝と奉仕(プージャー, पूजा, pūjā / セーヴァー, सेवा, sevā): 神殿や家庭の祭壇で神像に花や供物を捧げ、祈ること。また、生きとし生けるもの全てに神が宿るとみなし、他者に奉仕することも神への奉仕となります。
内面的な帰依の深まり
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常に神を意識する(イーシュワラ・プラニダーナ, ईश्वरप्रणिधान, īśvarapraṇidhāna): ヨーガスートラでも説かれるように、常に神の存在を意識し、神の御心を生活の中心に据えること。
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神への揺るぎない信頼(シュラッダー, श्रद्धा, śraddhā): どのような困難や試練に直面しても、神の計画と慈悲への信頼を失わないこと。
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恐れや不安の明け渡し: 将来への不安や過去への後悔を神に委ね、心の平安を求めること。
バガヴァッド・ギーターは、帰依にも段階があることを示しています。苦難に陥った時に助けを求めて神に近づく者(アールタ, आर्त, ārta)、知識を求めて神に近づく者(ジジニャース, जिज्ञासु, jijñāsu)、物質的な利益を求めて神に近づく者(アルタールティ, अर्थार्थी, arthārthī)、そして純粋な愛と智慧をもって神に帰依する者(ギャーニー, ज्ञानी, jñānī)です(BG 7.16)。どのような動機であれ、神に心を向けることは尊い第一歩であり、やがては純粋で無条件のバクティへと深まっていくのです。
モークシャ(解脱)の具体的な姿:永遠の至福
神への帰依の道を歩み、その実践が深まるにつれて、帰依者はモークシャの状態を徐々に体験し始め、最終的には完全な解脱へと至ります。その境地は、言葉で完全に表現することは難しいものの、以下のような特徴を持つとされています。
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輪廻からの永遠の解放: 生と死の苦しみに満ちたサイクルから完全に自由になり、二度と物質的な束縛に囚われることがない。
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あらゆる苦悩の消滅: 肉体的な痛み、精神的な苦悩、感情的な動揺など、一切の苦しみから解放される。
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至福(アーナンダ)の体験: 言葉では言い表せないほどの深い喜び、平安、そして満足感に常に満たされる。それは条件付けられた幸福ではなく、魂の本質的な喜びです。
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神との合一または永遠の愛の関係:
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アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)の立場からは、個我(ジーヴァ, जीव, jīva)が至高の実在であるブラフマンと完全に一体化すると解釈されます。
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ヴィシシュタアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(制限不二一元論)やドヴァイタ・ヴェーダーンタ(二元論)など、バクティを重視する学派では、魂は神との永遠の愛の関係(例えば、神の住まう天界での奉仕)に入るとされます。バガヴァッド・ギーターは、特にクリシュナへの人格的な愛と奉仕を強調するため、後者のニュアンスも色濃く含んでいます。クリシュナは「私に到達する」という表現を繰り返し用います。
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真の自己(アートマン)の覚醒: 肉体や心といった移り変わる現象を超えた、不滅で永遠の真の自己(アートマン)の本質を完全に悟り、それがブラフマンと同一である(あるいは本質的に不可分である)ことを認識する。
このモークシャの状態は、もはや時間や空間の制約を受けない、永遠で無限の自由の境地です。
現代における神への帰依とモークシャの意義
物質的な豊かさを追求し、個人の能力や達成が過度に重視される現代社会において、「神への帰依」や「モークシャ」といった概念は、時代遅れで非現実的なものと感じられるかもしれません。しかし、皮肉なことに、このような時代だからこそ、これらの古代の智慧は私たちに深い洞察と癒しを与えてくれるのではないでしょうか。
現代人が抱えるストレス、孤独感、目的意識の喪失、精神的な空虚感は、物質的な成功だけでは満たされない魂の渇望の現れとも言えます。バガヴァッド・ギーターが示す神への帰依の道は、この渇望に応え、真の心の平安と生きる意味を見出すための具体的な道筋を提示しています。
「帰依」という言葉に、盲信や主体性の放棄といったネガティブなイメージを抱く人もいるかもしれません。しかし、ギーターが説くバクティは、知性(ブッディ, बुद्धि, buddhi)を伴う理解と、主体的な選択に基づく献身です。それは、自己の限界を謙虚に認め、自分よりも大きな存在、宇宙の根源的な力に信頼を置き、その流れに沿って生きるという、成熟した精神のあり方を示しています。これは、現代思想家が語るような、近代的な自立神話の限界を認識し、他者や共同体、あるいは伝統といった、自己を超えたものに身を委ねることによって得られる強さや豊かさとも通じるものがあるでしょう。
モークシャは、死後に初めて訪れる遠い目標としてだけでなく、日々の生活の中で、その一端を体験することができるものです。神への感謝の念を深め、執着を手放し、他者への奉仕に喜びを見出すとき、私たちは心の重荷が軽くなり、内なる平安が広がっていくのを感じるはずです。それは、まるで縁側に差し込む柔らかな陽光のように、私たちの心を温め、照らしてくれるでしょう。生きることそのものが、愛と感謝に満ちた神への奉仕となる、そのような生き方こそが、現代におけるモークシャへの道なのかもしれません。
結論:帰依という翼で、究極の自由へ
バガヴァッド・ギーター第七部が示す「神への帰依」の道は、恐れや義務感からではなく、愛と信頼、そして深い理解に基づいて神と結びつく、魂の自然な欲求に応えるものです。それは、複雑で困難に満ちた現代社会を生きる私たちにとって、心の拠り所となり、人生の羅針盤となる普遍的な智慧を提供してくれます。
アルジュナがクリシュナの言葉に耳を傾け、迷いを乗り越えて自己のダルマ(義務・本質)を生きる決意をしたように、私たちもまた、ギーターの教えを自らの人生に照らし合わせ、神への帰依という翼を広げることで、輪廻の束縛を超えた究極の自由、永遠の至福であるモークシャへと飛翔することができるのです。その旅は、外なる戦場ではなく、私たちの内なる心の領域で繰り広げられる、最も尊く、最も価値ある冒険となるでしょう。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。





