バガヴァッド・ギーターは、迷い苦しむアルジュナ王子と、彼を導く師クリシュナとの対話を通して、人生の様々な局面における行動の指針と、それによって到達しうる心の平安、そして最終的な解脱への道を示しています。特に第五部は、「カルマ・サンニャーサ・ヨーガ」と名付けられ、行為(カルマ)とその放棄(サンニャーサ)について、より深い理解へと私たちを導いてくれる章です。
これまでアルジュナは、クリシュナから魂の不滅性(第二部)、義務の遂行としてのカルマヨーガ(第三部)、そして知恵の道であるギャーナヨーガ(第四部)について教えを受けてきました。しかし、彼の心には依然として、「行為を続けるべきなのか、それとも一切の行為を放棄すべきなのか」という根源的な問いが残っています。この問いは、日々の生活の中で、何らかの形で「行動」を迫られる私たち現代人にとっても、決して他人事ではありません。
本章「行動と不行動 – 真の意味での不執着 – 心の自由」では、このアルジュナの問いに応える形で、クリシュナが明らかにする「行動(カルマ)」と「不行動(アカルマ)」の真義、そしてそれらを超越した境地である「真の不執着」がもたらす「心の自由」について、深く考察してまいりましょう。ギーターの教えは、単なる哲学理論ではなく、私たちが日々の生活の中で実践し、その効果を実感できる普遍的な智慧に満ちています。
もくじ.
行動(カルマ)の渦中で生きる私たち
私たちの生は、文字通り「行動」の連続です。呼吸をし、食事をし、働き、語り、思考する――これらすべてが広義の「カルマ」に他なりません。バガヴァッド・ギーターは、私たちがこの世に生を受けた以上、いかなる形であれ行動から完全に逃れることは不可能であると説きます(BG 3.5)。眠っている間でさえ、私たちの身体は生命維持のための活動を続けています。
多くの場合、私たちは「行動」を、目に見える肉体的な活動や、具体的な結果を生み出す作業と捉えがちです。しかし、ギーターが語る「カルマ」は、それよりもはるかに広範な概念を内包します。私たちの心の中で生じる思考、感情、そして発する言葉もまた、微細ながらも確実に影響を及ぼす「カルマ」なのです。これらの内的なカルマは、しばしば外面的なカルマの源泉となり、私たちの運命を形作っていく上で重要な役割を果たします。
ここで、私たちが陥りやすい誤解の一つに、「不行動」という概念の捉え方があります。一般的に「何もしないこと」「活動を停止すること」を「不行動」と考えがちですが、ギーターの文脈における「アカルマ(不行動)」は、そのような単純な状態を指すのではありません。むしろ、義務からの逃避や怠惰、あるいは「私は何もしない」というエゴイスティックな決意は、それ自体が一つの「行動」であり、新たなカルマを生み出す原因となり得ます。アルジュナが戦場において戦いを放棄しようとしたのは、まさにこの種の誤解された「不行動」への誘惑でした。彼は親族や恩師を殺めるという行為を恐れ、そこから逃れようとしましたが、それは彼の戦士としてのダルマ(義務・天命)を放棄することであり、結果としてより大きな混乱と苦悩をもたらす可能性を秘めていたのです。
東洋思想、特にインド哲学では、行為(カルマ)とその結果(カルマ・パラ)の法則が深く探求されてきました。善い行いは善い結果を、悪い行いは悪い結果をもたらすという因果応報の考え方は、私たちの行動に対する責任を自覚させ、倫理的な生き方を促します。しかし、ギーターはさらに一歩進んで、行為の結果そのものに心を囚われることの危険性を指摘します。結果への期待や執着は、喜びや悲しみ、成功や失敗といった二元的な感情の波に私たちを翻弄させ、心の平安を奪うのです。
クリシュナが説く「不行動の秘密」
第五部の冒頭で、アルジュナはクリシュナに問いかけます。「クリシュナよ、あなたは行為の放棄(サンニャーサ)を称賛し、また同時に行為のヨーガ(カルマヨーガ)をも称賛されます。この二つのうち、どちらがより優れているのか、明確に教えてください」(BG 5.1)。この問いに対して、クリシュナは、行為の放棄と行為のヨーガはどちらも解脱へと導くものであるが、行為の放棄よりも行為のヨーガ(結果に執着しない行為)の方が実践しやすく、優れていると答えます(BG 5.2)。
そして、クリシュナは「行動」と「不行動」の深遠な関係性について、ギーターの中でも特に重要な教えの一つを明らかにします。
「行為の中に不行為を見、不行為の中に行為を見る者は、人間の中で賢者であり、彼はヨーギーであり、すべての行為の成就者である。」(BG 4.18)
この詩句は、一見すると逆説的で難解に感じられるかもしれません。しかし、ここにはカルマヨーガの神髄が凝縮されています。「行為の中に不行為を見る」とは、私たちが日々様々な行為に従事しながらも、その行為の主体者意識(「私が行為している」という思い)や結果への執着を手放し、あたかも行為していないかのように平静な心を保つことを意味します。行為は行われるけれものの、その行為がエゴや欲望に汚染されず、純粋な義務の遂行として、あるいは神への奉仕としてなされるならば、それはカルマの束縛を生み出さない「不行為」と同質のものとなるのです。
逆に、「不行為の中に行為を見る」とは、表面上は何もしていないように見える状態であっても、心の中では様々な思考や欲望が渦巻き、結果としてカルマを生み出している状態を指します。例えば、瞑想中に心が雑念に満ちている状態や、何もしないことを選択しながらも内面では不満や後悔を抱えている状態などがこれに当たります。身体的な活動を停止しても、心が活動的であれば、それは真の「不行動」とは言えません。
アルジュナが戦いを放棄しようとしたのは、表面的な「不行動」を求めたものでしたが、彼の心は親族への情や非暴力へのこだわりといった葛藤に満ちており、それはまさに「不行為の中の行為」でした。クリシュナは、アルジュナに対して、戦士としてのダルマを遂行しつつ、その結果を神に委ね、執着なく行為すること、すなわち「行為の中の不行為」を実践するよう諭したのです。
この「行為と不行動の秘密」を理解するためには、「行うべきこと(カールヤム)」と「行ってはならないこと(アカールヤム)」、そして「行為の中の不行為(カルマニ・アカルマ)」を識別する知恵(ブッディ)が不可欠です。何が自己のダルマであり、何を避けるべきなのか。そして、どのように行為すればカルマの束縛から自由になれるのか。この識別こそが、真の賢者の特徴であり、ヨーガの実践を通して培われるべき資質です。
真の意味での不執着(ヴァイラーギャ)とは何か
クリシュナが説くカルマヨーガの核心は、「不執着(ヴァイラーギャ)」という概念にあります。ギーターは、行為そのものを否定するのではありません。むしろ、この世で生きる限り、私たちは何らかの形で行為を続けなければならないと教えています。問題は、行為そのものではなく、行為に対する私たちの「心の態度」なのです。
「不執着」とは、行為の結果に対する期待や欲望、成功や失敗、賞賛や非難といった二元的なものに心を動かされない状態を指します。それは、感情を押し殺したり、無感動になったりすることとは異なります。むしろ、感情の波に乗りこなし、それらに同一化することなく、冷静かつ客観的に状況を捉え、自己のダルマを遂行する強靭な精神力です。
ヨーガ哲学では、私たちの心は三つのグナ(性質)――サットヴァ(純粋性、調和、光明)、ラジャス(活動性、激情、欲望)、タマス(暗黒、怠惰、無知)――の影響を受けているとされます。結果への強い執着や、際限のない欲望に駆られた行動は、主にラジャスの性質から生じます。このような行動は、一時的な満足感をもたらすかもしれませんが、長期的には心の動揺や苦しみ、そしてさらなるカルマの束縛を生み出します。
真の不執着とは、ラジャス的な動機から解放され、サットヴァ的な純粋な動機に基づいて行為することです。それは、行為の動機を利己的な欲望から、他者への奉仕、社会への貢献、そして究極的には神への献身へと昇華させるプロセスでもあります。
「ヨーガに専心し、執着を捨て、成功と不成功を平等に見て行為せよ、アルジュナよ。この心の平静こそヨーガと呼ばれる。」(BG 2.48)
ここでクリシュナが語る「心の平静(サマッ卜ヴァム)」は、不執着の具体的な現れです。成功に驕らず、失敗に落胆せず、あらゆる状況を平静な心で受け止める。この境地に至るためには、行為の主体者意識、すなわち「私が行為している」「私の力でこれを成し遂げた」というエゴ(アハンカーラ)を克服する必要があります。真の行為者は神(あるいは宇宙の根源的な力)であり、私たちはその道具として、与えられた役割を誠実に果たすのだという認識を持つことが、不執着への道を開きます。
行為の結果を手放すということは、無責任になることや、努力を怠ることではありません。むしろ、最善を尽くして行為に臨み、その結果については神の手に委ねるという、深い信頼と諦観の態度です。この態度は、結果に対する過度な期待や不安から私たちを解放し、行為そのものに集中することを可能にします。
不執着な行動がもたらす「心の自由」
不執着な行動、すなわちニシュカーマ・カルマ(結果を期待しない行為)を実践することによって、私たちは何を得るのでしょうか。ギーターは、それが「心の自由(モークシャへの道筋)」であると明確に示しています。
カルマの法則によれば、私たちの行為は必ず何らかの結果を生み出し、その結果が新たな行為の原因となって、私たちは輪廻のサイクルに縛られ続けます。しかし、行為に対する執着を手放し、行為の動機を浄化するとき、その行為は私たちを縛る鎖ではなく、むしろ解放への鍵となります。
不執着な行動は、まず「心の平安(シャーンティ)」をもたらします。結果に一喜一憂することがなくなれば、心は外的状況の変化に左右されず、内なる静けさを保つことができます。成功への渇望や失敗への恐れから解放されることで、私たちは純粋な喜びをもって行為に取り組むことができるようになります。
「執着を捨てて行為するヨーギーは、堅固な平安を得る。ヨーガによらない者は、欲望に動かされ、結果に執着し、束縛される。」(BG 5.12)
さらに、不執着な行動は、私たちを「サマッ卜ヴァム(心の平静)」へと導きます。これは、喜びと悲しみ、好きと嫌い、利得と損失といった二元的な対立を超越し、あらゆる経験を平等な心で受け入れる境地です。この心の平静は、外界の出来事に翻弄されることなく、自己の内に確固たる軸を持つことを可能にし、真の強さと安定感を与えてくれます。
そして究極的には、不執着な行動は、私たちを輪廻の束縛から解放し、モークシャ(解脱)へと導きます。行為の果実を放棄し、すべての行為を神への供物として捧げるとき、私たちは個人的なエゴの限界を超え、宇宙意識との合一を体験する可能性が開かれます。
この「心の自由」は、何か特別な場所に行ったり、特別な状態になったりすることではありません。それは、日々の生活の中で、あらゆる行為を通して体験しうる、内なる解放感であり、喜びであり、愛です。ギーターが示す道は、世俗を離れて山に籠ることではなく、むしろ世俗の真っ只中で、不執着の精神をもって生きることによって、真の自由を獲得する道なのです。
日常生活における「不執着な行動」の実践
バガヴァッド・ギーターの教えは、古代インドの戦場という特殊な状況下で語られたものではありますが、その内容は普遍的であり、現代社会を生きる私たちにとっても極めて実践的な指針を与えてくれます。では、私たちは日常生活において、どのように「不執着な行動」を実践できるのでしょうか。
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スワダルマ(自己の天命・義務)の実践:
私たちにはそれぞれ、家庭、職場、社会において果たすべき役割や責任があります。それらを誠実に、心を込めて行うことが、カルマヨーガの第一歩です。自分の能力や状況に応じて与えられたダルマを、結果への期待や個人的な好き嫌いにとらわれず、淡々と、しかし情熱をもって遂行すること。これが、日常における不執着の具体的な実践となります。 -
イーシュヴァラ・プラニダーナ(神への全託):
ヨーガスートラにも説かれているこの概念は、ギーターの教えと深く共鳴します。私たちが行うすべての行為とその結果を、神(あるいは宇宙の根源的な力、自己の信じる至高の存在)に捧げるという意識を持つことです。成功も失敗も、すべては神の計画の一部であると受け入れ、私たちはただ道具として、最善を尽くす。この態度は、エゴを弱め、心を謙虚にし、不執着を育む上で非常に有効です。 -
マインドフルネス(今この瞬間の行為への集中):
過去の後悔や未来への不安から心を解放し、「今、ここ」の行為に意識を集中すること。食事をするときは味わうことに、仕事をするときは目の前の作業に、人と話すときは相手の言葉に、全意識を向ける。このように、瞬間瞬間の行為に没頭することは、結果への執着を自然と手放す助けとなります。 -
小さなことから始める不執着の練習:
日常生活の些細な出来事の中で、不執着を練習することができます。例えば、期待していた返事が来なくても気にしない、電車が遅れてもイライラしない、自分の意見が通らなくても受け入れる、といった具合です。これらの小さな実践の積み重ねが、より大きな困難に直面したときの心の平静さを養います。 -
内省と自己観察:
自分の行動の動機や、結果に対する心の反応を客観的に観察する習慣を持つこと。なぜこの行動をとったのか? 結果に対してどのような感情を抱いたのか? そこに執着やエゴが潜んでいないか? このような自己観察は、無意識的な行動パターンに気づき、それを修正していく上で不可欠です。
不執着な行動の実践は、一朝一夕に完成するものではありません。それは、日々の意識的な努力と訓練を必要とする、生涯にわたる道のりです。しかし、その道を歩み始めることで、私たちは確実に心の平安と自由へと近づいていくことができるでしょう。
おわりに:行為の海を渡る、自由の帆を上げて
バガヴァッド・ギーター第五部が示す「行動と不行動の真義」そして「不執着による心の自由」は、混迷を深める現代社会において、私たちが真の幸福と平安を見出すための、時代を超えた灯台の光と言えるでしょう。
私たちは、生きている限り「行動」という海を渡り続けなければなりません。その航海において、結果への執着という重荷を抱えていれば、波に翻弄され、疲弊し、目的地を見失ってしまうかもしれません。しかし、不執着という軽やかな帆を上げ、ダルマという羅針盤に従い、神への信頼という風を受けて進むならば、その航海は苦難に満ちたものではなく、むしろ成長と喜びに満ちた、自由な旅となるはずです。
アルジュナがクリシュナの導きによって迷いを断ち切り、自己のなすべき行為へと立ち上がったように、私たちもまた、ギーターの智慧を胸に、日々の生活における「行動」に意味と目的を見出し、内なる静寂と調和、そして揺るぎない「心の自由」を実現していくことができるのです。この書が、その一助となれば幸いです。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。





