阿字観瞑想を何度か実践されている皆様、日々の坐禅、お疲れ様です。静寂の中で「阿」の一字と向き合う時間、あるいはただ呼吸を見つめる時間を通して、心の波が少しずつ穏やかになっていくのを感じていらっしゃるかもしれません。しかし、坐禅の時間を終え、再び日常生活に戻ると、頭の中は瞬く間に思考で埋め尽くされ、過去の出来事や未来への不安に心が囚われてしまう…そんな経験をされている方も少なくないのではないでしょうか。
私たちは皆、多かれ少なかれ、終わったことに対する「諦めきれない気持ち」を抱えて生きています。あの時こうしていれば、なぜこうならなかったのか、という後悔。理不尽な扱いを受けたことへの怒り。失ってしまったものへの悲しみ。これらの感情は、まるで重い錨のように私たちの心を過去に繋ぎ止め、前に進もうとする力を奪います。
「諦めがつかないことから諦める。」
まさに私たちの多くが直面している課題の本質を突いているように感じられます。もう変えることのできない過去の出来事や、どうにもならない状況に対して、なおも「こうあってほしい」「こうであるべきだった」と執着すること。これは、まさに人生の「損」であると言えるでしょう。なぜなら、過去にエネルギーを費やす時間は、現在を生き、未来を創るためのエネルギーを奪うことに他ならないからです。
もくじ.
過去への執着が「気」の流れを滞らせる
風水の観点から見ると、私たちの住まいの空間に古いモノや不要なモノを溜め込むことは、気の流れを滞らせ、淀んだエネルギーを生み出す原因となります。これは、私たちの内面にも全く同じことが言えます。過去の感情や出来事に対する執着は、心の空間に「ガラクタ」を溜め込んでいるようなものです。心の中が古いエネルギーでいっぱいになってしまえば、新しい良い「気」、すなわち前向きな意欲や創造性が流れ込む余地がなくなってしまいます。
瞑想中に、私たちは様々な思考や感情が浮かんでは消えていく様子を観察します。中には、過去の辛い記憶や、どうしても納得できない出来事に関する思考も含まれていることでしょう。この時、私たちはその思考や感情に「反応」して、それを追いかけたり、それについてあれこれと考え込んだりしがちです。これが、日常生活で「引きずっている」状態、つまり心の「気」が過去に囚われて滞ってしまっている状態の、まさにミニチュア版と言えます。
「阿」に宿る無常と「手放す」力
阿字観瞑想は、密教の奥深い智慧に根ざした実践です。「阿」の一字は、仏教の根本的な真理である「空(くう)」、すなわち全ての現象には固定された実体がなく、常に変化し続けている(無常)という思想を象徴しています。宇宙の始まりの音であり、全てのものが生じ帰っていく根源である「阿」と向き合うことは、私たち自身の存在もまた、この宇宙の一部であり、常に変化し、生まれ変わっていくものであることを体感する機会となります。
阿字観瞑想の実践において、「阿」に意識を集中することは、思考や感情といった移ろいやすい現象から、より根源的な現実、すなわち「今ここ」に注意を戻す練習です。思考が過去に飛んでいっても、それに気づき、優しく「阿」の音や、象徴である月輪へと意識を戻す。この繰り返しは、まさに過去への執着という「心のガラクタ」を手放し、変化し続ける「今」を受け入れるための、静かなしかし力強い稽古なのです。
過去の出来事を「終わったこと」として受け入れることは、決してその出来事を忘れたり、その時の感情を無視したりすることではありません。それは、その出来事や感情に対する「抵抗」をやめ、「それはもう過ぎ去ったことだ」という事実を、ジャッジせずに認識することです。阿字観瞑想で、思考や感情が波のように押し寄せても、それをただ観察し、やり過ごす練習をすることで、私たちは日常生活でも、過去の出来事や感情に過剰に反応することなく、それを「通り過ぎていくもの」として見送る力を養うことができます。
簡単なことから、「前を向いてやってみる」勇気
「何でもいい。簡単なことでいいですから、前を向いてやってみてください。」
過去への執着から抜け出すための第一歩は、必ずしも壮大なものである必要はありません。それは、提供された言葉が示唆するように、ごく「簡単なこと」で良いのです。例えば、瞑想の後、すぐにスマートフォンを開くのではなく、窓の外を眺めてみる。いつもと違う道を歩いてみる。今まで気になっていた本を手に取ってみる。部屋の一角だけを徹底的に掃除してみる。これらは、過去の延長ではない、新しい「今」を創り出すための小さな行動です。
阿字観瞑想の実践においても、毎回完璧に集中できる必要はありません。ただ、その時間、静かに座ることを「やってみる」。雑念に気づいたら、それを「諦めて」、再び「阿」や呼吸に注意を戻す。この「簡単なこと」を根気強く続けることが、私たちの心に「前を向いてやっていく」ための小さな自信と勢いを生み出します。
そして、「うまくいくでしょう。大丈夫です。もう前を向いてやっていけます。」という言葉は、その小さな一歩を踏み出す私たちへの、力強いエールです。瞑想によって培われる内なる静寂は、私たちが本来持っている回復力と自己肯定感を呼び覚まします。過去に囚われることなく、今という現実を生きる勇気が生まれるのです。それは、外部からの承認や評価に依存する自信ではなく、自己の内なる安定性に根差した、揺るぎない確信となります。
迷い、行き詰まり、恐れに「大胆不敵に」向き合う
人生には、必ず迷いや行き詰まり、そして未知への恐れが生じる局面が訪れます。過去の経験に基づいた不安が心を支配し、身動きが取れなくなってしまうこともあるでしょう。そんな時、
「迷ったら、行き詰まったら、怖れが生まれたら、大胆不敵にやってみな。」
この「大胆不敵」とは、無計画な猪突猛進を意味するものではありません。それは、阿字観瞑想を通して培われる、ある種の「肚の据わり」から生まれる行動です。瞑想によって、私たちは思考や感情の嵐に巻き込まれることなく、それを遠い眺めとして観察する力を養います。困難な状況や、心に生まれた恐れを、あたかも瞑想中に現れた雑念のように、ジャッジメントせずにありのままに「観る」ことができるようになります。
恐れや不安に囚われている時、私たちの視点は狭まり、最悪のシナリオばかりを想像しがちです。しかし、瞑想によって心が静まると、状況をより広く、客観的に見ることができるようになります。何が本当に恐れるべきことで、何はそうでないのか。何が今できることで、何はできないのか。そうした現実が、散らかっているな思考の奥から浮かび上がってきます。
「大胆不敵にやってみる」という行動は、この明晰さから生まれます。それは、自分の内なる感覚、直観に従い、たとえ結果がどうなるかわからなくても、「今、自分にできること」を、恐れに支配されることなく実行する勇気です。瞑想の実践は、失敗すること、完璧でないことに対する恐れを手放し、ただ為すべきことを為すという、ある種の「無私」の精神を育みます。過去の失敗に引きずられることなく、未来の不確実性に怯えることなく、「今、ここ」での最適な一歩を踏み出す。それこそが、瞑想が私たちに与えてくれる「大胆不敵さ」の真の意味ではないでしょうか。
まとめ:瞑想は、人生を「今」に引き戻す力
阿字観瞑想の実践は、単に座って心を静めることだけではありません。それは、過去への執着という重荷を手放し、人生の「損」を終わらせるための実践です。簡単なことからでも良いので、一歩ずつ「前を向いてやってみる」勇気を育み、そして、人生の迷いや恐れに直面した時に、内なる静寂から生まれる「大胆不敵さ」をもって立ち向かう力を養うこと。
提供いただいた言葉の智慧は、まさに阿字観瞑想の実践が私たちに与えてくれる gift(贈り物)を示唆しています。過去は変えられませんが、過去に対するあなたの心のあり方は変えることができます。瞑想を通して、心に溜め込んだ古い「気」を浄化し、新しい「今」を生きるためのエネルギーを呼び込みましょう。
あなたはもう、前を向いてやっていけます。大丈夫です。あなたの内側には、それを可能にする力が宿っています。阿字観瞑想の静寂の中で、その力を感じ取ってください。そして、迷い、行き詰まり、恐れが生じたなら、思い出してください。
大胆不敵に、やってみな。
日々の実践が、あなたの人生をより軽やかに、より前向きなものへと変えていくことを、心より願っております。


