「遊びの感覚」でサイン探しを楽しむという、世界との新しい関わり方を覚えた私たちは、まるで宝探しの地図を手に入れた子供のように、日常にきらめく小さな偶然に心を躍らせることでしょう。しかし、ここには一つ、巧妙な罠が潜んでいます。それは、楽しかったはずの「遊び」が、いつしか「執着」へと姿を変えてしまう危険性です。手に入れた宝物を誰にも渡すまいと固く握りしめるように、見つけたサインの意味に固執し、心を縛られてしまうのです。
ヨガ哲学では、私たちの苦しみの根本原因(クレーシャ)の一つとして「ラーガ(Raga)」を挙げます。これは「愛着」や「執着」と訳され、快いと感じたもの、望ましいと判断したものに、強くしがみついて離さない心の働きを指します。サインを見つけるという「快」の体験に執着すると、今度はサインが見つからないという「不快」や、サインが期待通りの結果をもたらさないことへの「不安」が生まれてしまう。これは、自由になるための知恵が、かえって新たな不自由を生み出すという皮肉な逆転です。
この執着のメカニズムを深く見ていくと、そこには「未来をコントロールしたい」という私たちの根深い欲求が隠れていることに気づきます。「この虹は、明日のプレゼンが成功する前兆に違いない」「あのエンジェルナンバーは、彼との関係がうまくいく保証だ」といったように、サインの意味を一つの結論に固定化し、不確定な未来を確定的なものとして安心したい、という心の動き。これは、すべてを大いなる流れに「委ねる」というイーシュワラ・プラニダーナの教えとは、正反対の態度と言えるでしょう。
仏教の根幹をなす「諸行無常」の教えは、この執着から私たちを解放してくれます。万物は絶えず変化し、一瞬たりとも同じ状態に留まることはない。この世のすべてが、流れる川のようなものである、と。宇宙からのサインもまた、例外ではありません。それは、川の水面に一瞬だけ映り込む美しい月影のようなもの。その姿を美しいと感じることはできますが、掬い取って自分のものにしようとした瞬間に、その形は崩れ、手の中にはただの水が残るだけです。
では、どうすれば執着せずに、サインの恩恵だけを受け取ることができるのでしょうか。その鍵は「軽やかさ」にあります。サインを見つけたら、まずは子供のように「わあ、面白いな」「見せてくれて、ありがとう」と、その瞬間の喜びと感謝を純粋に味わいます。そして、その直後に、ふっと手放すのです。まるで、願い事を書いた風船を、感謝と共に大空へ放つように。そのメッセージを受け取った、という事実だけで十分。そのサインが、その後の展開をどうこうすると期待したり、意味を固定して未来を縛ったりしないことです。
この「手放し」の感覚は、私たちの呼吸が最高の師匠となって教えてくれます。私たちは息を完全に吐ききらなければ、新鮮な空気を吸い込むことはできません。古いものを手放して初めて、新しいものが入ってくるスペースが生まれるのです。サインという情報も同じです。受け取ったメッセージに感謝して、それを「吐き出す(手放す)」ことで、あなたの内側には再び静かな空間が生まれ、次の新たな気づきやインスピレーションを受け取る準備が整います。
そもそも、本当のサインというものは、私たちを特定の未来に縛り付けるためのものではありません。それは、今この瞬間のあなたの「在り方」が、宇宙の大きな流れと調和しているか、それとも少しズレているかを教えてくれる、コンパスのようなものです。サインはあくまで道標であって、目的地そのものではないのです。もし道標を見つけるたびに、そこに座り込んでしまっては、旅は一向に進みません。
軽やかに、感謝と共にサインを受け取り、そしてまた、軽やかに歩みを進める。そのしなやかで自由なステップこそが、私たちを本当に望む場所、あるいは、想像もしなかったような素晴らしい場所へと運んでくれる、最高の乗り物となるのです。


