ヨガの八支則における二番目の段階、ニヤマ(勧戒)。その一番最初に登場するのが「シャウチャ」です。日本語では「清浄」と訳され、多くの人はこれを単なる身体の清潔さや、部屋の掃除といった物理的な綺麗さと捉えがちです。もちろん、それもシャウチャの重要な一部分に違いありません。しかし、ヨーガ・スートラが説くシャウチャは、私たちの存在の根幹に関わる、はるかに深く広大な概念なのです。それは、身体、空間、そして思考という三つのレベルにまたがる、意識的な浄化のプロセスを指し示しています。
まず、最も分かりやすいのが「身体のシャウチャ」です。外的な清浄、つまり入浴や身だしなみを整えることは、社会生活における礼儀であると同時に、自分自身の身体という「聖なる神殿」に対する敬意の表明に他なりません。武道の世界で、道場に入る前に一礼し、稽古着をきちんと着こなすことが求められるように、ヨガの実践もまた、清められた身体から始まります。その行為自体が、日常の雑多な意識から、神聖な実践へと心を切り替えるための、重要な儀式となるのです。
さらに、身体のシャウチャは内側にも及びます。それは、私たちが口にするもの、つまり食事です。アーユルヴェーダでは、食事はサットヴァ(純粋性)、ラジャス(激性)、タマス(鈍性)という三つの質(グナ)に分けられます。新鮮な野菜や果物、穀物といったサットヴァな食事は、私たちの心身を軽く、純粋な状態に保ちます。一方で、過度に刺激的な食事や、鮮度の落ちた食事は、心をざわつかせ、身体を重くします。何を食べるかという選択は、自分の内側をどのような質で満たすかという、きわめて能動的な浄化行為なのです。身体が軽く、消化の火(アグニ)が適切に燃えているとき、私たちの意識もまた明晰さと輝きを増していくことを、ヨギたちは経験的に知っていました。
次に、「空間のシャウチャ」。あなたの住む部屋、働くデスク周りは、あなたの心の状態を映し出す鏡です。物が散らかり、空気が淀んだ空間に身を置いていると、思考もまた混乱し、停滞しがちになります。禅の修行において「掃除」が非常に重要な位置を占めるのは、単に場所を綺麗にするためではありません。床を掃き、窓を拭くという一心不乱の行為を通して、自らの心の中にある塵や埃をも払い清めるのです。物理的な空間に「余白」が生まれると、不思議と心にも「余白」が生まれます。そして、その清められた余白にこそ、新しいエネルギー、インスピレーション、そしてあなたが本当に望む豊かさが流れ込むためのスペースが生まれるのです。引き寄せたいものがあるのなら、まずはそれを受け入れるための器、つまりあなたの空間を清浄に整えることから始めるのが理にかなっています。
そして、最も難しく、しかし最も重要なのが「思考のシャウチャ」です。私たちの心の中では、一日に数万回もの思考が生まれては消えていくと言われています。その中には、自己批判、他者への不平不満、過去への後悔、未来への不安といった、いわば「思考のゴミ」が数多く含まれています。これらを無自覚に垂れ流しにしている状態は、心が汚染されているのと同じです。ヨガにおける瞑想や呼吸法の練習は、この思考の濁流に気づき、それと自分を同一化するのをやめるための訓練です。思考を、空に浮かぶ雲のように、ただ静かに観察する。そうすることで、思考そのものにエネルギーを与えることなく、自然に通り過ぎさせることができます。
また、言葉のシャウチャも忘れてはなりません。あなたが発する言葉は、他者だけでなく、自分自身が一番最初に聞いています。ネガティブな言葉、批判的な言葉は、自らの意識に毒を撒いているようなもの。言霊という思想が古くからあるように、言葉は現実を創造する力を持っています。清らかな言葉を選ぶことは、自らの内なる世界を清浄に保つための、積極的な実践なのです。
シャウチャとは、一度きりの大掃除で終わるものではありません。それは、日々、自分という器を丁寧に磨き続ける、終わりのないプロセスです。しかし、その実践を通して、私たちは自分自身が、大いなるプラーナ(生命エネルギー)や宇宙の叡智を受け取るための、清らかで美しい器であることを思い出します。清浄な器に、汚れた水が注がれることはありません。あなたの内外が清浄であればあるほど、そこに引き寄せられる現実もまた、清らかで調和に満ちたものへと変容していくのです。


