ヨガスタジオやレッスンを見渡したとき、素晴らしいと感じる「センス」の良いインストラクターに出会うことがあります。
そのセンスとは、高度なポーズを軽々とこなす身体能力や、洗練されたウェアを着こなすといった外側の記号とは本質的に異なるものです。全く違うと言ってもいいでしょう。
では、ヨガインストラクターにおける真の「センス」とは一体何でしょうか。
結論から申し上げると、それは「悟り」と「子育て」の感覚を宿しているかどうかに尽きると私は考えます。東洋思想における「真我(しんが)」の視点から、この本質的なテーマを丁寧に紐解いてみましょう。
もくじ
真我と個我の違いを理解する
ここで、ヨガの最も深い智恵である「真我(アートマン)」の定義について明確にしておきます。古代インドのヴェーダ哲学やウパニシャッドにおいて、私たちの存在は多層構造であると説明されてきました。
私たちは普段、「インストラクターである私」や「親である私」、あるいは特定の役割、感情、肉体そのものを自分自身だと同一化して生きがちです。東洋思想では、これら変化し、移り変わる一時的な自己を「個我(ジーヴァ)」または「自我(アスミター)」と呼びます。
これに対し、それらすべての役割や肉体の変化、心の揺らぎを、ただ静かに奥底から見つめている変わらない目撃者を「真我(アートマン)」と定義するのです。
真我とは、映画のスクリーンに例えることができるでしょう。スクリーンには激しいアクションや悲しい恋愛ドラマが映し出されますが、スクリーン自体が濡れたり、傷ついたりすることは決してありません。どのような映像が映ろうとも、スクリーンは常に無傷であり、ただありのままを静かに照らし出し続けるのみです。
この、揺るぎない背景としての静かな意識こそが、私たちの本質である真我と言えるでしょう。
「悟り」とは何か。教えるエゴからの解脱
ヨガにおける「悟り」とは、何かしら超人的な能力を獲得することとは異なります。それは極めてシンプルであり、「自分は個我(エゴ)ではなく、本来は静寂そのものである真我である」という事実を深く思い出すプロセスそのものです。
センスの良いヨガインストラクターは、この悟りの感覚を日々の練習を通じて確かに掴んでいると言えます。
エゴ(アスミター)に支配されたインストラクターは、「私が生徒を指導して変えてあげよう」「美しいポーズを見せて感心させよう」というコントロールの衝動に駆られがちです。これは『ヨーガ・スートラ』で言うところの「ラーガ(愛着・渇望)」の罠に囚われた状態と言わざるを得ません。
一方で、真我の視点に立つインストラクターは、目の前の生徒の身体や心をエゴでコントロールしようとは企まないでしょう。ただ、クラスという場に「大いなる静けさの空間」を創り出し、そこに生徒を優しく迎え入れるのです。
生徒がどのような心の状態であれ、その揺らぎをスクリーンのように優しく見守る姿勢こそが、センスの真髄と言えます。
「子育て」という、思い通りにならないプロセス
では、なぜここに「子育て」が並ぶのでしょうか。
実際に子どもを育てた経験のある方ならよく分かると思いますが、子育ては「10個のうち9個は思い通りにいかない」と言っても過言ではありません。子どもは親の所有物ではなく、独自の命を持った個別の存在です。
親がどれほど「こう育てたい」「こうなってほしい」と願いを押し付けても、子どもは自らの自然な性質(プラクリティ)に従って伸び伸びと育っていきます。真我の視点から行う子育てとは、子どもを支配してコントロールすることではありません。
子どもの存在そのものを、ありのままに見つめ、安全で温かい環境(スペース)を用意し、ただ成長のプロセスを温かく目撃することなのです。
ヨガのクラス指導も、これと全く同じ構造を持っていると言えます。
クラスに参加する生徒の身体の硬さや呼吸の深さ、心のざわつきは千差万別であり、本来は指導者が無理やり変えられるものではないのです。「早く柔らかくなりなさい」と強要することは、親が子どもに過度な期待を押し付けるのと同様、エゴの暴走を意味するでしょう。
生徒を信頼し、彼らが自らの内側にある「サントーシャ(足るを知る)」や、本来の軽やかさに自分で気づくのをただじっと待つこと。これこそが、ヨガインストラクターに必要な「子育て」のセンスなのです。
エゴの解体と、引き算のヨガ実践
現代の社会は、何かを学ぶにしても、インストラクターの資格を増やすにしても、常に「足し算」を強いる構造になっています。しかし、ヨガの本来の実践は、余計なものを削ぎ落とし、身軽にしていく「引き算」のプロセスです。
私たちの主宰するEngawaYogaでも、身体をユルユルに解きほぐし、エゴを解体していくアプローチを重んじています。何かを付け足すのではなく、私たちの本質を遮っているデジタルなノイズやエゴの執着を手放すとき、心の中に静かな「空っぽのスペース」が現れるのです。
センスのあるインストラクターは、この「引き算の美学」の重要性を深く知る人と言えます。それゆえに、彼らのクラスは非常にシンプルで、語られる無駄な言葉が少なく、豊かな沈黙(ムーナ)を大切にする傾向があるでしょう。
あれこれとインストラクターの主観的な解釈を押し付けるのではなく、生徒が自分の身体感覚(センス)に直接向き合える余白を残しておくのです。この余白の心地よさこそが、生徒の「集合的無意識の大掃除」を促し、本来の自分へと回帰する手助けをします。
真我の視点がもたらす、完璧な調和
では、ヨガインストラクターが真我の視点に完全に根ざしたとき、どのような変化が起きるでしょうか。
第一に、「他者との比較」から完全に自由になります。「他のインストラクターのほうが人気がある」「あの人の方が上手なポーズを教えられる」といった個我(ジーヴァ)特有の悩みは、真我の光に照らされると、雲散霧消していくのです。
なぜなら、すべての生徒も、同業者も、宇宙の本質においては一つの同じ「真我」の現れに他ならないという自他一如(じたいちにょ)の真理に触れるからです。目の前の生徒を教えることは、自分自身の別の一面を愛おしく育てる「子育て」と同じことだと気づきます。
ここではじめて、教える側と教えられる側という二元論的な対立が溶け去り、クラス全体がひとつの美しいタペストリーのように調和し始めるでしょう。
インストラクターの存在そのものが、静かな湖面のように生徒の心を映し出し、彼らの緊張をユルユルと自然に解きほぐしていく特効薬となるのです。
終わりに:ただ、そこに佇むこと
私たちが目指すヨガインストラクターのセンスとは、洗練された技術や知識の多さではなく、どれだけ「真我の静寂」に自らを同調させられているかという在り方の深度です。これは、日本一簡単な瞑想である「SIQAN(シカン)」の実践とも完全に一致します。
ただ静かに座り、すべてをあるがままに、何一つコントロールしようとせずに見守ること。この悟りと子育てに共通する「信頼の眼差し」こそが、都会のせわしない日常から私たちの主権を取り戻し、魂の軽やかさを呼び覚ます唯一の道なのです。
もしあなたが指導者としてのセンスに迷うことがあれば、あれこれと足し算をするのを一旦やめてみてください。ただ呼吸を整え、ご自身の本質である真我に立ち返るとき、クラスに温かく豊かな余白が自然と広がっていくことでしょう。




