自己否定のループを抜ける。存在給を上げるために「歩合給」の努力を手放すべき理由

365days

お金や豊かさの巡りに悩むとき、私たちは「もっと頑張らなければならない」と考えがちです。
資格を取ったり、労働時間を増やしたり、他者に役立つスキルを磨いたりと、いわゆる「足し算の努力」に走りやすいと言えます。
しかし、ヨガの哲学や東洋の智恵に照らし合わせると、このアプローチこそが豊かさの源泉を自ら塞いでいる原因と観えてくるのです。

世の中には、必死に働かなくても豊かさに恵まれる人と、どれだけ汗を流しても常に困窮している人が存在しています。
この差を生み出しているのは個人の努力量ではなく、無意識のうちに自分に設定している「前提」の違いだと言えるでしょう。
今回は、自分自身の存在そのものに対する価値基準である「存在給」と、行動の対価である「歩合給」という二つの概念から、真の豊かさの仕組みを紐解いてみたいと思います。

 

定義:存在給と歩合給が示す、私たちの精神構造

まず、今回のテーマである「存在給」と「歩合給」という言葉の定義を明確にしておきましょう。

歩合給とは、自分が提供した労働、成果、能力、あるいは「他者の役に立つこと」の対価として受け取る価値や対価を指します。
これは現代の資本主義社会において極めて理解しやすい、一般的な「成果主義」の価値観と言えるでしょう。
一方で存在給とは、何もしない、社会の役にも立たない、ただそこに生きて存在しているだけの自分に対して「受け取ることを許可している価値」の度合いを定義したものです。

例えば、自力で働くことができない赤ん坊や、病床に伏している人が、周囲から愛され、守られ、衣食住を提供されるのは、存在給が極めて高い状態と言えます。
もしあなたが「自分は何もしなくても、月に数十万円の豊かさを受け取る価値がある」と本気で信じているなら、それがあなたの存在給の設定です。
しかし多くの人は、この存在給を限りなくゼロに近い状態に設定してしまっています。
その結果、自分が生きるための価値をすべて「歩合給(努力や成果)」で埋め合わせなければならないという、苦しい強迫観念に囚われることになるのです。

 

東洋思想の背景:Doing(為すこと)からBeing(在ること)へ

この存在給と歩合給の関係は、古代インドから伝わるヨガの思想や東洋哲学の構造に美しく合致しています。
ヨガの根本哲学であるサーンキヤ思想では、世界を「プルシャ(純粋観照者・真我)」と「プラクリティ(根本物質・自性)」の二元論で説明しました。
プルシャとは、何の変化もせず、ただ静かに「在る」だけの絶対的な存在、すなわちBeingを象徴する領域です。
これに対してプラクリティは、常に動き回り、変化し、行動する物質世界、つまりDoingの領域を司るものと考えてください。

私たちが「歩合給を上げようと躍起になる状態」は、Doingのプラクリティに過剰に同一化している状態に他なりません。
「何か優れた行動をしなければ、自分には価値がない」という思い込みは、プルシャとしての本来の輝きを見失っている証拠でしょう。
東洋思想では、人間は生まれながらにしてすでに完全であり、宇宙の大きな流れに包まれていると説きます。
行為(カルマ)によって自らの価値を証明しようとあがくのをやめたとき、私たちは初めて「ただ在るだけで満たされている」という本質的な充足感を取り戻すことができるのです。

 

なぜ頑張るほどに存在給が下がってしまうのか

ここからが最も重要なパラドックスですが、頑張って歩合給を上げようとすればするほど、私たちの存在給は逆に下がっていきます。
なぜなら、必死に頑張るという行為の背後には「頑張らない私には価値がない」という強烈な自己否定が隠されているからです。
「価値を提供しなければ、人から愛されないし、お金ももらえない」という前提を、自らの行動によって日々強化していることになります。
この心のシステムを理解しない限り、いくら働いて一時的に収入が増えたとしても、精神的な不安や枯渇感が消える可能性は低いでしょう。

この現象は、現実のエネルギー調整の観点からも説明がつきます。
自らの価値を必死に証明しようとする「過剰な力み(重要性の付与)」は、周囲のエネルギーバランスを乱し、強い抵抗を生み出してしまうのです。
頑張って価値を提供しようとすればするほど、周りの人々はあなたに「労働力や利便性」だけを期待するようになり、存在そのものへの敬意を払わなくなります。
あなたはただ都合の良い「機能」として扱われ、どれだけ尽くしても報われないループに陥るのではないでしょうか。

一方、何もしていなくても堂々としている人は、その自己肯定感の高さゆえに、周囲から大切に扱われ、自然と豊かさが集まってくるのが特徴です。
これこそが、存在給が高い人が何もしなくても巡りが良くなる現実のメカニズムと言わざるを得ません。

 

頭の中の独り言を静め、重要性を引き下げる

存在給を下げている正体は、実は頭の中で鳴り響く「おしゃべり(思考のノイズ)」です。
私たちの脳は、常に「もっと何かをしなければ、取り残されてしまう」と不安を煽り立てます。
この頭の中の独り言は、エゴが自己防衛のために生み出している幻想に過ぎません。
この声に騙されて行動を起こすと、ますます歩合給の罠に深くハマっていくことになります。

また、現実の構造を変えるためには、結果に対する「重要性」を引き下げることが不可欠です。
「絶対に歩合給を上げなければならない」「お金がなければ自分は破滅する」という過剰な思い込みは、現実に不必要な抵抗を生み出します。
その抵抗が、あなたに届くはずの自然な豊かさのエネルギーをせき止めてしまうのです。
肩の力を抜いて、「どうせ自分には価値があるのだから、うまくいってもいかなくてもどちらでもいい」と構えるくらいが、存在給をスムーズに引き上げるコツと言えます。

 

引き算の美学:歩合の努力を手放し、存在に許可を出す

存在給を上げるためには、新しく何かを付け足すのをやめる「引き算の生き方」が必要不可欠です。
それは、これまであなたが必死に抱え込んできた「役に立とうとする努力」を意識的に手放していくプロセスに他なりません。
まずは、他者からすごいと思われるための行動や、嫌われないための過剰なサービスを徐々に減らしてみるのが良いでしょう。
「やりたくないことをやめ、やりたいことだけをやる」という選択は、エゴを肥大化させるためのものではありません。
自分の内なる声に誠実になり、ありのままの自分を完全に信頼するための高潔なステップに他ならないのです。

ヨガの教えにある「サントーシャ(足るを知る)」は、まさにこの引き算の思想を体現しています。
サントーシャとは、外側の物質や評価を追い求めるのをやめ、すでに満ち足りている「今、ここ」の幸福に気づくことです。
自分の価値を外側の条件に依存させないサントーシャの境地に至ったとき、存在給の設定は自然と底上げされていくでしょう。
余計なものをそぎ落としたミニマリストのような精神状態こそが、無限の豊かさを受け取るための空っぽの器を作り出します。

 

静寂の中で存在価値を思い出す:JIQANというアプローチ

歩合給の生き方に染まりきった現代人が、頭の思考だけで「自分には価値がある」と思い込もうとしても、心は簡単には納得しません。
なぜなら、私たちの集合的無意識には「働かざる者食うべからず」という強い固定観念が刷り込まれているからです。
この強固なマインドのロックを解除するためには、言葉による説得ではなく、静寂の体験を通じて身体感覚からアプローチするのが最も効果的だと言えます。

そこで私たちが提案しているのが、自分自身と深く繋がるための静かな「JIQAN(時間)」を確保することです。
そして、そのJIQANの中で行う「SIQAN(シカン)」という瞑想が、あなたの存在給を本来の高さへ戻す強力なサポーターとなります。
SIQANの基本は極めてシンプルであり、何かをコントロールしようとせず、ただ背筋を伸ばして静かに座るだけです。
自分の呼吸や、皮膚に触れる空気の感覚に意識を向け、身体をユルユルに解きほぐしていきましょう。

ただ静かに座っているとき、あなたは社会に対して何の役にも立っておらず、生産的な活動も一切行っていない状態と言えます。
それにもかかわらず、心臓は静かに鼓動を刻み、呼吸は自律的に繰り返され、大自然はあなたを完全に生かし続けているのです。
この絶対的な「生かされている」という感覚の中に浸るとき、私たちはDoingの幻想から目覚め、Beingの圧倒的な豊かさを体感できるはずです。
何もしない自分に完全にOKを出すこの静寂の体験こそが、存在給の設定を劇的に書き換える礎となるでしょう。

 

おわりに:世界はすでに、あなたを全肯定している

私たちは、生まれた瞬間に「歩合給」を稼いでいたわけではありません。
赤ん坊の時、ただ泣いて寝ているだけで周囲を笑顔にし、多大なる祝福と豊かさを受け取っていたはずです。
その頃のあなたは、自らの存在給が無限大であることを100パーセント信じて疑わなかったのではないでしょうか。
大人になる過程で身につけてしまった「条件付きの愛」という錯覚を、ヨガの引き算の智恵と瞑想の習慣によって、丁寧に手放していきましょう。
頑張って価値を高めようとするのをやめ、ありのままの無防備な自分で今ここを生きる決意をしてください。
その静かな選択が、あなたの人生に計り知れない豊かさと、本当の心の平穏をもたらす道標となります。