Instagramを開けば、美しい光の中で難易度の高いポーズを決めるヨガインストラクターたちの姿が溢れています。
「好きなことを仕事に」「自由なライフスタイル」「心と身体の健康を届ける」。
そんな美しい言葉で飾られた職業の裏側で、どれほど多くのインストラクターが、経済的な不安定さと、精神的な矛盾(葛藤)に心をすり減らしているか。
これは単なる「稼げない」という愚痴ではありません。
「無償の愛であるべき教え」を「対価を求める商品」に変えなければ生きていけないという、構造的な暴力性の話です。
資本主義社会でヨガを教えることの難しさを、現代社会の病理とヨガ業界の構造的問題の両面からリストアップし、私たちが進むべき道を模索します。
もくじ.
現代社会とヨガ業界が抱える構造的な問題
1. 「やりがい搾取」の温床となる構造
低賃金カルチャー: 「お金のためにやるのではない」「奉仕(カルマヨガ)の精神」という美名のもと、極めて低いレッスンフィー(1本数千円など)が正当化されやすい。
準備時間の無視: 1時間のクラスのために費やすシークエンス構成、練習、移動、集客活動の時間は、労働時間としてカウントされない「見えない労働」となる。
業務委託という不安定: 多くのインストラクターは個人事業主(フリーランス)。福利厚生もなく、怪我や病気が即、生活の破綻に直結する。
2. ヨガの「商品化」と「コモディティ化」
資格ビジネスの暴走: 短期間・オンラインで取得できるRYT200(全米ヨガアライアンス)などの資格講座が乱立。「先生」が大量生産され、供給過多による価格破壊が起きている。
差別化の罠: 他者との違いを出すために、「アロマ」「骨盤」「美脚」など、本来のヨガの目的から外れたキャッチーな「商品」を開発し続けなければならない。
「消費される」インストラクター: 生徒は「先生」ではなく「サービス提供者」を求める。気に入らなければすぐに消費先を変える「顧客」となり、インストラクターは常に選ばれるための営業努力を強いられる。
3. ルッキズムとSNSによる精神的疲弊
「見られる」ことの重圧: インストラクター自身の容姿やライフスタイルそのものが「広告塔」となるため、常に若く、美しく、充実していなければならないというプレッシャー。
フォロワー数=価値: 指導力や人格よりも、SNSのフォロワー数が採用基準や集客に直結する理不尽さ。
プライベートの切り売り: 集客のために、私生活や思想までもコンテンツとして消費させなければならない苦痛。
4. 資本主義の論理 vs ヨガの哲学
アパリグラハ(不貪)との矛盾: ヨガは「足るを知れ」「欲張るな」と説くが、インストラクターとして生き残るには「もっと稼がねば」「もっと集客せねば」という欲望のゲームに参加せざるを得ない。
不安商法への加担: マーケティングとは本来、人々の「欠乏感(不安)」を刺激してモノを売る行為。生徒に安心を与えるはずのヨガが、集客のために「今のままではダメだ」と不安を煽る側に回ってしまう矛盾。
この矛盾を抱きしめて、どう生きるか
本来、教育や医療、そして宗教的指導といった営みは、「交換(ギブ・アンド・テイク)」の論理には馴染みません。
「私がこれだけの教えを授けたのだから、あなたはこれだけの金を払え」という等価交換の論理が持ち込まれた瞬間、そこにある「聖性」や「師弟関係」のようなものは霧散してしまいます。
しかし、私たちは霞(かすみ)を食べて生きていくことはできません。家賃を払い、スーパーで野菜を買わなければならない。
この「聖職者としての矜持」と「生活者としての現実」の引き裂かれた場所で、現代のヨガインストラクターは立ち尽くしています。
大量生産される「インストラクター」という記号
特に深刻なのは、資格ビジネスによるインストラクターの大量生産です。
「誰でも簡単に」「最短で」という謳い文句で発行される資格は、ヨガを深く学ぶプロセスを省略し、単なる「動作を教えるスキル」へと矮小化させました。
その結果、市場には「ヨガの先生」が溢れかえり、当然のごとく価格競争が始まります。
「あのスタジオは月額〇〇円だから、うちはもっと安くしよう」。
その安売り競争のしわ寄せは、現場で教えるインストラクターの疲弊となって現れます。
「教える」ことの前に、「生きる」こと
では、どうすればこの苦しいゲームから抜け出せるのでしょうか。
答えは、逆説的ですが、「ヨガでご飯を食べようとしない」ことかもしれません。
誤解を恐れずに言えば、「ヨガを切り売りして生活費を稼ぐ」というマインドセット自体が、資本主義の罠にハマっているのです。
ヨガは「商品」ではなく、あなたの「生き方」そのものです。
生き方を切り売りするのではなく、あなたという人間がまず社会の中でしっかりと根を張り、生活を営み、その余剰として溢れ出るものを他者に手渡す。
兼業でもいい、副業でもいい。
「生活のために、やりたくないクラスを無理やりやる」「集客のために、思ってもいないことをSNSに書く」。
そうした嘘(サティヤへの違反)を自分に強いるくらいなら、別の仕事で経済的基盤を確保し、純粋な情熱だけでヨガを伝える方が、よほどヨガ的であり、結果として生徒の心に響く指導ができるのではないでしょうか。
「先生」ではなく「隣人(サンガ)」として
また、生徒との関係性を「サービス提供者と消費者」から変えていく必要があります。
お金を払うから偉い、教えるから偉い、という上下関係ではなく、同じ時代を生き、同じ痛みを抱えながら、共に道を歩む「隣人」あるいは「修行仲間(サンガ)」としての関係性です。
「私は完璧な指導者ではありません。ただ、あなたより少し先にこの道を歩き始め、少しだけ風景を知っているだけです。一緒に歩きませんか?」
そのような謙虚で水平な関係性の中にこそ、貨幣価値には換算できない信頼(クレジット)が生まれます。
そして、その信頼こそが、AIにも大手スタジオにも奪うことのできない、あなただけの資産となるはずです。
静かなるレジスタンス(抵抗)
資本主義社会でヨガインストラクターとして生きるとは、「数値化できない価値」を信じ続けるという、静かなるレジスタンス(抵抗)です。
効率、スピード、コスパ、映え。
それらが支配する世界の中で、
「ただ座る」「ただ呼吸する」「何もしない」という、一見無駄で非生産的な時間の豊かさを、身体を張って証明し続けること。
それは経済的には「非効率」極まりない生き方かもしれません。
しかし、その非効率な時間の中にしか、人間の魂の回復はないのだと、私たちは知っています。
ご飯を食べることは難しいかもしれない。
けれど、魂を売らずに生きていくことはできる。
そのための知恵と工夫(スキルフル・ミーンズ)を、私たちはヨガの練習と同じように、日々磨いていくしかないのです。
焦らず、比べず、そして諦めずに。


