ここを見に来るのは、かなりマニアックな人だと思いながらも、そんなブログを早10年間やってきました。
延べ、どれくらいの人が見てくれたのか。
記事を読んで共感したり、反感を持ったり、読む時にもいろんな経験があったことでしょう。
僕もみなさんのコメントを読んで、いろいろ感じることが多くあります。
ここは見えない場であり、物理的な空間でもないのに、こうしてリアルに「人」と出会えるのだから、あたりまえに使わせてもらっているインターネットの世界は凄いと思います。
電波の網の目(ネットワーク)もまた、現代における一つの「ナーディ(気脈)」のようなものなのかもしれません。
知識という「借り物」で語る危うさ
昨日の質疑応答もやってよかったと思いました。
でも同時に、答えた後で、ふと立ち止まって考えることがあります。
「その答えは、一体どこから出てきたのか?」と。
それは、自分の実際の血肉となった経験なのか。
それとも、誰かの本を読んで得た単なる知識なのか。
ヨガでは「スヴァディヤーヤ(自己探求・聖典読誦)」を大切にしますが、それは知識を詰め込むことではありません。知識を自分の内側で消化し、智慧へと昇華させるプロセスのことです。
単なる知識なのに、まるで自分の経験であるかのように語る自分がいると、ハッとします。それはエゴが「私は知っている」とマウントを取りたがっている瞬間かもしれないからです。
たとえば昨日なら、こんな問いがありました。
「愛は4年で終わると遠い昔に聞いたことがあるのですが本当でしょうか?」
これに対し、僕はこう答えました。
「性的な関心や、相手へのファンタジーが消えるのが3年くらいではないでしょうか」
正直に告白すれば、これは若いころに読んだ本の中に、3年くらいだと書かれていたからです。
脳科学的に恋愛ホルモンが枯渇するのが3〜4年だ、というような説を知識として知っていた。だからそれを、さも正解のように差し出したわけです。
でも実際にどうかと言えば、相手によって大きく違いますし、一概には言えません。
これは単なる「知識のやり取り」でした。そこに僕の魂は乗っていなかったかもしれません。
幻想が死んだとき、本当の関係が始まる
でもその後に書いた、この言葉。
「本当の男と女の関係は、そこから始まると思います。」
これは、僕自身の痛みを伴う経験から滲み出てきた言葉であり、知識ではありません。
現代社会では「愛=恋愛感情(ドキドキ)」と定義されがちです。
映画もドラマも、恋が燃え上がるまでを描き、結婚式で「ハッピーエンド」として幕を閉じます。
しかし、ヨガ的な視点で見れば、それは「マーヤー(幻想)」の極みです。
相手に自分の理想を投影し、勝手に期待し、勝手に裏切られたと感じる。それは「相手」を見ているのではなく、「自分の理想」という鏡を見ているに過ぎません。
「愛は4年で終わる」というのは、正確には「愛」が終わるのではなく、「ホルモンによる一時的な陶酔(幻想)」が終わるということでしょう。
そして、その魔法が解けたとき、初めて目の前にいる生身の人間と向き合うことになるのです。
だらしないところ、情けないところ、理解できないところ。
それらすべてを含んだ「その人」がそこにいる。
本当のパートナーシップとは、この「幻滅(幻想が滅する)」の後にしか育たないものです。
幻滅とは、決してネガティブなことではありません。
幻想という霧が晴れて、リアルな現実が見えたということです。
ヨガが目指す「真実を見る目(ヴィディヤー)」が開かれた瞬間とも言えます。
分かり合えないからこそ、共にいる
男と女は、まったく違う生き物であり、永遠の謎だと思います。
最終的に、完全に分かりあうことはありません。
ところが、私たちは「愛し合っていれば分かり合えるはずだ」という現代的なロマンティック・ラブの神話に毒されています。
分かったようなつもりでいるので、問題が出てきたとき対立しやすくなります。
「自分と同じ人間のはずなのに、なぜそんな考え方をするのか」「なぜ分かってくれないのか」というわけです。
しかし、ヨガ哲学が教える二元論(プルシャとプラクリティ)のように、本来、性質の違うものが世界を構成しています。
実際には全く違うので、合わなくて当然なのです。
「男と女は、まったく違っていて、それでいい」
そう思えたら、分からないなりに、もっと深いレベルで「共に在る」ことができるでしょう。
相手をコントロールしようとせず、自分の枠に当てはめようとせず、ただ「違う存在」として尊重する。
これをヨガでは「アヒムサ(非暴力)」の実践とも言えるかもしれません。
理解できない相手を、理解できないまま愛すること。それこそが、ホルモンに頼らない、意志を持った「愛」の姿ではないでしょうか。
これからは何かを聞かれた時、借り物の知識を持ちださないようにして、自分の肌感覚としての経験から話そうと思いました。
不格好でも、その方がきっと、画面の向こうにいる「あなた」の心に届くと信じているからです。
4年で終わる愛があるなら、それは終わるべくして終わった「恋」でしょう。
そして、そこから始まる、終わりのない旅路があることもまた、真実なのだと思います。
ではまた。


