前章まで、私たちはパタンジャリが体系化した「ヨーガ・スートラ」の八支則という、時代を超えて輝きを放つ普遍的な地図を手に、ヨガという実践の道を一歩一歩、確かめるように歩んできました。ヤマ・ニヤマという社会倫理の土台から、サマーディという意識の超越に至るその道筋は、内なる宇宙を探求するための、極めて精緻で完成されたシステムです。
では、この古代の叡智は、情報が洪水のように押し寄せ、絶えず変化し続ける現代社会において、どのように受け継がれ、実践されているのでしょうか。「ヨガ」と一言でいっても、現代に生きる私たちが目にするその姿は、実に千差万別です。朝の公園で静かに行われるものもあれば、汗だくで行うアスレチックなものもあり、心身の癒しを目的とするセラピーもあれば、ライフスタイルそのものとして捉える向きもあります。
この多様性は、一見すると混乱を招くかもしれません。しかし、それはヴェーダの叡智という太い幹から、現代という土壌のニーズに応えるべく、無数の枝葉が伸び広がり、色とりどりの花を咲かせている姿と見ることもできるのです。それぞれの流派は、単なるスタイルの違いではありません。それは、師から弟子へと受け継がれる「叡智の系譜(グル-シシヤ・パラम्पラ)」であり、ヴェーダやウパニシャッド、そしてヨーガ・スートラという源泉を、それぞれの師がいかに解釈し、体現し、後世に伝えようとしたかの、情熱的な試みの結晶なのです。
この章では、現代ヨガの主要な流派を巡る旅に出かけましょう。それぞれの道のりが、どのような思想的背景を持ち、どのような実践を重んじ、そして現代に生きる私たちに何をもたらしてくれるのか。その特徴を深く探ることで、私たちは数多ある道の中から、自分自身の心身が真に求める道を見出すための、確かな羅針盤を手にすることができるはずです。
もくじ.
現代ヨガの源流:ティルマライ・クリシュナマチャリアの遺産
20世紀のヨガ史を語る上で、ティルマライ・クリシュナマチャリア師(1888-1989)の存在を抜きにしては考えられません。彼はしばしば「現代ヨガの父」と称され、その教えは大きな河となり、今日の主要なヨガの流派へと分かち流れていきました。彼はヴェーダやウパニシャッド、そして六派哲学全般に深く通じた偉大な学者でありながら、伝統に固執することなく、ヨガを現代人のために革新した実践者でもありました。
マイソールのマハラジャ(藩王)の庇護のもと、彼はアーサナを連続的に行う「ヴィンヤサ」のシステムを開発し、個人の年齢や体調、目的に合わせてヨガを処方するという、革新的なアプローチを確立しました。彼の教えを受けた弟子たちは、それぞれが師の教えの異なる側面を強調し、独自の流派を築き上げていきました。これからご紹介するアイアンガーヨガ、アシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨガ、そしてヴィニヨガは、すべてこの偉大な師の遺産なのです。
クリシュナマチャリア師の義理の弟でもあるB.K.S.アイアンガー師(1918-2014)は、幼少期に病弱であった自身の身体を、ヨガの実践を通して克服した経験から、アーサナの身体的効果と、その精密な実践方法を探求し続けました。彼が確立したアイアンガーヨガの最大の特徴は、**「アライメント(正しい身体の配置)」**への徹底的なこだわりにあります。
アイアンガー師にとって、アーサナは単なる身体のポーズではありませんでした。それは、身体という小宇宙(ピんだ)の隅々にまで意識を行き渡らせ、骨格、筋肉、内臓、神経系のすべてをあるべき場所へと整えることで、宇宙の秩序(リタ)と調和させるための、神聖な幾何学でした。精密なアライメントは、身体の歪みを正し、怪我を防ぐだけでなく、プラーナ(生命エネルギー)が滞りなく流れるための道筋を確保します。その結果、心は自然と静まり、集中(ダーラナー)から瞑想(ディヤーナ)へとスムーズに移行できるのです。
この精密なアライメントを実現するために、アイアンガーヨガではブロック、ベルト、ボルスター、ブランケット、椅子といった**「プロップス(補助具)」**を積極的に活用します。プロップスは、身体が硬い人や筋力がない人のための「補助」という消極的な意味合いだけではありません。それは、正しいアライメントとは何かを身体に教えてくれる「賢明な教師」であり、通常では意識の届かない身体の深層部へと気づきを導くための「探求の道具」なのです。プロップスを用いることで、あらゆる身体条件の人が、安全かつ効果的にアーサナの恩恵を受け、そのポーズの中で長く留まり、内観を深めることが可能になります。
アイアンガーヨガの実践は、さながら身体という神殿を、一つ一つのレンガを丁寧に積み上げるように構築していく作業に似ています。それは、私たちの意識を「今、ここ」の身体感覚に強く引き戻し、思考の暴走を鎮める、極めて実践的な瞑想の道と言えるでしょう。
クリシュナマチャリア師の初期の弟子であるシュリ・K・パタビ・ジョイス師(1915-2009)は、師から受け継いだヴィンヤサのシステムを、よりダイナミックで運動量の多い形式へと発展させました。それがアシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨガです。この流派は、一見するとアスレチックで肉体的な側面に目が行きがちですが、その本質は**「動きの中の瞑想」**にあります。
アシュタンガヨガの実践は、定められた一連のポーズを、途切れることなく呼吸と同期させながら行っていくことを特徴とします。このシステムは、以下の三つの重要な要素によって支えられています。
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ヴィンヤサ(Vinyasa):呼吸と動きを連動させるシステム。吸う息と吐く息の一つ一つに、特定の動きが割り当てられており、実践者は呼吸のリズムに乗り、流れるようにポーズを繋いでいきます。
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ウジャイ呼吸(Ujjayi Pranayama):喉の奥をわずかに締めることで、「シュー」という摩擦音を伴う力強い呼吸法。この音は集中を助け、身体の内部に熱(タパス)を生み出し、心身を浄化します。
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バンダ(Bandha)とドリシュティ(Drishti):バンダは身体の特定の部位(喉、腹部、骨盤底)を締め付けるエネルギーの錠前であり、プラーナが外に漏れ出すのを防ぎ、中心軸へと引き上げます。ドリシュティは視点を定めることであり、意識が外界に散漫になるのを防ぎ、内側へと向けさせます。
これらの要素が組み合わさることで、アシュタンガヨガの実践者は、絶え間ない動きと呼吸の音、そして内なるエネルギーの流れに意識を集中させ、深い瞑想状態へと入っていきます。毎日同じシークエンスを繰り返す練習(アビヤーサ)は、身体の毒素だけでなく、心の不純物(怒り、欲望、怠惰など)をも焼き尽くすタパス(苦行)となり、強靭な意志力と自己規律を養います。その激しい動きの奥には、揺らぐことのない静寂な境地が広がっているのです。
クリシュナマチャリア師の息子であり、長年にわたって父から直接指導を受けたT.K.V.デシカチャー師(1938-2016)は、特に師の晩年における思想を色濃く受け継ぎました。それが「ヴィニヨガ」として知られるアプローチです。ヴィニヨガは特定のスタイルやシークエンスを持つ流派というよりは、**「個人のニーズにヨガを適応させる」**という方法論、あるいは思想そのものを指します。
デシカチャー師の有名な言葉に、「人がヨガに合わせるのではない。ヨガが人に合わせるのだ」というものがあります。これは、ヨガの実践が、個人の年齢、職業、健康状態、体力、そして文化的・精神的背景に応じて、完全にカスタマイズされるべきであるという考え方です。
ヴィニヨガでは、アーサナの形を完璧に真似ることよりも、その機能を重視します。例えば、同じ前屈のポーズでも、腰痛を抱える人には膝を曲げることを勧め、呼吸を深めたい人には息を吐きながらゆっくりとポーズに入ることを指導します。アーサナだけでなく、プラーナーヤーマ、瞑想、マントラのチャンティング、食事法、生活習慣のアドバイスまで、あらゆるヨガのツールを駆使して、その人にとって最適な「処方箋」を作成するのです。このため、ヴィニヨガは特にヨガセラピーの分野で大きな発展を遂げました。それは、ヴェーダの叡智が、現代における一人ひとりの具体的な悩みや苦しみに寄り添うための、慈愛に満ちた道筋を示しています。
もう一つの源流:スワミ・シヴァナンダの統合的アプローチ
クリシュナマチャリアの系譜とは別に、現代ヨガに大きな影響を与えたもう一人の巨人が、スワミ・シヴァナンダ・サラスワティ師(1887-1963)です。彼は西洋医学を学んだ医師でしたが、精神的な探求の道に入り、リシケシに「ディヴァイン・ライフ・ソサエティ」を設立しました。
彼の教えは**「統合ヨガ(インテグラル・ヨガ)」**として知られ、単一の実践に偏ることなく、ヨガのあらゆる側面をバランスよく生活に取り入れることを目指します。シヴァナンダ師は、健康で平和な人生を送るための5つの要点をシンプルにまとめました。
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適切な運動(アーサナ)
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適切な呼吸(プラーナーヤーマ)
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適切なリラクゼーション(シャヴァーサナ)
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適切な食事(菜食)
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ポジティブな思考(ヴェーダーンタ)と瞑想(ディヤーナ)
この教えを世界中に広めたのが、彼の弟子であるスワミ・ヴィシュヌデヴァナンダ師(1927-1993)です。彼が体系化した「シヴァナンダヨガ」のクラスは、通常、太陽礼拝から始まり、12の基本ポーズを特定の順番で行い、合間にシャヴァーサナを挟みながら進められます。この構成は、身体の主要なチャクラ(エネルギーセンター)を刺激し、心身を調和させるよう巧みに設計されています。
シヴァナンダヨガでは、アーサナはあくまで心身を浄化し、瞑想に適した状態に整えるための準備段階と位置づけられています。そのため、クラスではウパニシャッドやバガヴァッド・ギーターといったヴェーダーンタ哲学の学習や、神への愛を歌うキールタン(賛歌)も同様に重視されます。それは、身体的な健康だけでなく、精神的な平和と霊的な成長を目指す、極めてホリスティックなアプローチです。
現代におけるさらなる展開:フィットネス、セラピー、そして多様性の受容
インドの偉大な師たちによって蒔かれた種は、西洋の土壌、そしてグローバル化した現代社会の中で、さらに多様な形へと変容を遂げています。
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フィットネス文化との融合:アシュタンガヨガから派生したパワーヨガや、高温多湿の環境で行う**ホットヨガ(ビクラムヨガなど)**は、現代人の運動不足解消やダイエットといったニーズに応え、ヨガの普及に大きく貢献しました。これらのスタイルは、伝統的なヨガの身体的側面を抽出し、強化したものですが、その実践を通してヨガのより深い哲学に興味を持つ人々も少なくありません。
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セラピーとしての深化:ストレスや心身の不調が深刻な問題となる現代において、「何もしない」ことの価値が見直されています。ボルスターやブランケットに身を委ね、完全に受動的な状態で深いリラクゼーションを得るリストラティブヨガや、ガイドに従って意識的な眠りの状態に入るヨガニドラは、心身の自己治癒力を最大限に引き出すための強力なツールとして注目されています。
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多様性の受容:かつてヨガが一部の求道者や健康な若者のものと考えられていた時代は終わりました。椅子に座ったまま行えるチェアヨガ、妊婦のためのマタニティヨга、子供たちのためのキッズヨガなど、ヨガはあらゆる年齢、体力、ライフステージの人々にとって、アクセス可能で身近な存在へと進化し続けています。
結論:流派という地図を手に、あなた自身の道を探る旅へ
ここまで、私たちは現代ヨガの多様な流派という、色鮮やかな風景が広がる大地を旅してきました。アイアンガーヨガの精密さ、アシュタンガヨガの躍動感、ヴィニヨガの個別性、シヴァナンダヨガの統合性。そして、そこから派生した無数のスタイル。これらはすべて、山頂(サマーディ)を目指すための、異なる表情を持つ登山道に他なりません。どの道が優れているということではなく、どの道が今のあなたにとって最もふさわしいか、ということが重要なのです。
大切なのは、流派という地図の形に囚われることではありません。その地図を手に、実際にあなた自身の身体と心という未知なる領域を歩き、探求していく姿勢、すなわち「スヴァディヤーヤ(自己探求)」です。あるポーズで心地よさを感じるのはなぜか。ある呼吸法で心が静まるのはなぜか。日々の実践を通して、自分自身の内側で何が起こっているのかを、好奇心を持って観察し続けること。そのプロセスこそが、ヨガの本質であり、ヴェーダの叡智を血肉化するということなのです。
この多様な実践の道の先には、第四部で探求する「ヴェーダ哲学を生きる」という、より広大な地平が広がっています。ヨガの実践は、古代の叡智を単なる知識としてではなく、日々の生活の中で体現するための、かけがえのない礎となるでしょう。さあ、あなただけの探求の旅を始めてください。あなたの身体が、あなたの呼吸が、最高の師となってくれるはずです。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


