「ヨガとは何ですか?」
そう問われたとき、あなたならどう答えるでしょうか。
ストレッチのようなもの、痩せるための運動、あるいはインドの古い健康法。どれも間違いではありませんが、本質を射抜いているかと言えば、少し言葉が足りないように感じます。
ヨガを人に伝えるということは、単なる知識の伝達ではありません。それは、私たちが生きるこの現代社会の喧騒の中で、見失われがちな「人間の本来の在り方」を再定義する試みでもあります。
今日は、ヨガの基礎的な知識を押さえつつ、現代ヨガが陥っている構造的な問題点に少し厳しめの視座からメスを入れ、その上で「本当のヨガ」をどのように語るべきかについて、静かに考察していきたいと思います。
もくじ.
言葉の語源から紐解く、ヨガの定義
まず、教科書的な基礎知識から始めましょう。
ヨガ(Yoga)という言葉は、サンスクリット語の「Yuj(ユジュ)」を語源としています。これは「馬にくびきをかける」「結びつける」という意味を持っています。
では、何と何を結びつけるのでしょうか。
一般的には「心と身体」、あるいは「小宇宙である自分(アートマン)と、大宇宙(ブラフマン)」の統合とされます。
バラバラに散らばってしまった私たちの意識を、手綱を使って御するように、今この瞬間に繋ぎ止めること。それがヨガの原義です。
そして、ヨガの最も重要な定義は、約1600年前に編纂された経典『ヨガ・スートラ』の冒頭に記されています。
「ヨガとは、心の作用を止滅させることである(Yogas Chitta Vritti Nirodha)」
心を無にすることではなく、暴れ馬のように飛び回る思考や感情の波を、静かに鎮めること。
ポーズ(アーサナ)をとるのは、そのための準備体操に過ぎません。身体を整えることで、呼吸を整え、最終的に心を整える。この一連のプロセスこそがヨガなのです。
現代ヨガが抱える構造的な歪み
しかし、現在のヨガスタジオやSNSを見渡したとき、この「心の作用を鎮める」という本質は、どれほど守られているでしょうか。
残念ながら、現代のヨガは資本主義という巨大なシステムに飲み込まれ、本来の目的とは逆行するような現象が多々見受けられます。
あえて批判的な視点から、現代ヨガが抱える問題点をリストアップしてみましょう。これらはヨガの問題というよりは、私たちの社会が抱える病理そのものです。
消費されるスピリチュアリティと身体
現代においてヨガは、巨大な産業(ビジネス)となりました。
「このレギンスを履けば」「このワークショップに参加すれば」、あなたはより良い人間になれるというメッセージが絶えず発信されています。
本来、ヨガは「執着を手放す(アパリグラハ)」教えであるはずです。しかし、現実は「新しい自分」「理想の身体」「精神的な充足」を次々と購入させる、消費活動の一環に組み込まれてしまっています。魂の救済さえもが、商品棚に並べられているのです。
ナルシシズムの強化装置としてのヨガ
「ヨガをする私」をSNSで発信するとき、そこにあるのは「エゴの消滅」でしょうか、それとも「エゴの肥大化」でしょうか。
難易度の高いポーズを披露し、「いいね」という承認を求める行為は、自己顕示欲(アスミター)を強化します。
鏡張りのスタジオで、他者と自分のプロポーションを比較し、優越感や劣等感に苛まれる。これは「心の作用を鎮める」どころか、心を激しく波立たせる行為に他なりません。現代ヨガは、ルッキズム(外見至上主義)と共犯関係にあり、私たちの自意識を過剰に刺激する装置となってしまっている側面は否定できません。
フィットネスへの矮小化と効率主義
「1時間で600キロカロリー消費」「美脚になるヨガ」。
こうしたキャッチコピーは、ヨガを単なる機能的な身体操作へと矮小化させます。
現代社会は「生産性」や「効率」を至上命題としますが、ヨガはその対極にあるものです。
本来は「何もしない」「ただ在る」という無為の時間を味わうものであるはずが、現代ヨガでは「いかに効率よく結果を出すか」という成果主義が持ち込まれています。これでは、仕事の延長線上でヨガをしているようなものです。
ネガティブの排除とポジティブの強制
「ヨガをしている人は、いつも笑顔でポジティブでなければならない」という強迫観念もまた、現代ヨガの弊害です。
悲しみや怒りといった感情もまた、自然な生命の反応です。それらを無理やり抑圧し、表面的なキラキラした言葉で覆い隠すことは、一種の暴力的精神性(スピリチュアル・バイパス)と言えます。
光ばかりを見て、自身の内側にある影(シャドウ)から目を背けることは、真の統合(ヨガ)を遠ざけてしまいます。
競争社会の論理の持ち込み
「あの人より身体が柔らかい」「私はまだこれができない」。
ヨガマットの上でさえ、私たちは無意識に競争しています。
学校教育や企業活動で刷り込まれた「他者との比較」「勝ち負け」の論理を、聖域であるはずのヨガにまで持ち込んでしまっているのです。
隣のマットの人は、競争相手ではなく、共に道を歩む仲間(サンガ)であるはずなのに、私たちは孤立し、評価に怯えています。
なぜ、私たちはこのようにヨガを歪めてしまうのか
これらの問題は、ヨガそのものが悪いわけではありません。
私たちが生きる社会が、あまりにも「欠乏感」を煽る仕組みになっているからです。
「今のままでは不十分だ」というメッセージを浴びせ続けられ、その穴を埋めるために、ヨガさえも道具として使おうとしてしまう。
資本主義は、私たちが「満たされる」ことを恐れます。満たされてしまえば、もうモノが売れなくなるからです。だからこそ、ヨガという「足るを知る(サントーシャ)」ための実践でさえ、新たな欠乏を生むためのツールへと書き換えられてしまったのです。
関連記事:なぜ、私たちはヨガを歪めてしまうのか
「ヨガとは何か」をどう語るか:現代への処方箋として
では、こうした批判的視点を踏まえた上で、私たちは「ヨガとは何か」をどう他者に、そして自分自身に語ればよいのでしょうか。
知識として語るのではなく、現代社会を生き抜くための「処方箋」として伝えてみてください。
ヨガとは、「引き算」の練習である
現代社会は「足し算」ばかりを強要します。もっと知識を、もっとお金を、もっと筋肉を。
ヨガとは、その逆を行く「引き算」の練習です。
背負いすぎた荷物を下ろすこと。
過剰な情報の入力を遮断すること。
「〜しなければならない」という思考の垢を落とすこと。
ヨガマットの上では、何も生産しなくていい。ただ、身一つで呼吸することの豊かさを思い出す時間なのだと。
ヨガとは、身体という「自然」との対話である
私たちは頭(思考)ばかりを使って生きています。
ヨガとは、主導権を頭から身体へと明け渡す時間です。
身体は、嘘をつきません。疲れていれば重いし、緊張していれば硬い。
その身体の声(自然の声)に耳を澄ませることは、コンクリートジャングルの中で失われた野生を取り戻す行為です。
ポーズが綺麗かどうかではなく、自分の身体とどれだけ仲直りできたか。それがヨガの本質です。
ヨガとは、「今、ここ」に錨(いかり)を下ろす技術である
私たちの心は、過去の後悔か、未来の不安のどちらかに常にさまよっています。
ヨガの呼吸は、そのさまよう心を「今、ここ」という一点に繋ぎ止めるアンカー(錨)です。
世界がどれほどカオスであっても、自分の内側に静かな場所(サンクチュアリ)を持っておくこと。
ヨガとは、その静寂への避難場所を、自分の中に建設する技術なのです。
終わりに:ただ座る、ということ
ヨガを難しく考える必要はありませんし、現代ヨガを過度に敵視する必要もありません。
ただ、流行や消費の波に飲み込まれそうになったとき、立ち止まって問いかけてみてください。
「私は今、何のためにマットに立っているのか?」と。
痩せるためでも、誰かに見せるためでもなく、ただ乱れた呼吸を整え、波立つ心を静めるため。
もしそう答えられるなら、あなたのヨガはすでに本物です。
縁側でただお茶を飲むように、気負わず、評価せず、ただ静かに座ってみる。
そこに訪れる微かな静寂こそが、私たちが探し求めていた「ヨガ」そのものなのかもしれません。


