ヨガクラスという「枠」を、そっと手放してみる。インストラクターができることは、もっと自由で、もっと広大です。
日向ぼっこをしていると、庭の木々がただそこに在るだけで、私たちに酸素を供給し、木陰を作り、心を和ませてくれていることに気づきます。
木は、一生懸命に枝を振ってアピールしているわけではありません。ただ、その本質としてそこに存在しているだけで、世界に貢献しているのです。
私たちヨガインストラクターも、時にこの木のような在り方を思い出してもいいのかもしれません。
今日は、インストラクターの皆様が陥りやすい、「身体を動かしてクラスを開催することだけが、私の仕事である」という思い込みについて、少し立ち止まって考えてみたいと思います。
身体を動かすことだけが、貢献でしょうか?
ヨガインストラクターの方々とお話ししていると、「もっとクラスを増やさなければ」「身体を動かして汗を流すことでしか、生徒さんに貢献できない」という、ある種の強迫観念にも似た真面目さを感じることがあります。
もちろん、ヨガクラスを開催し、目の前の生徒さんに直接アーサナを伝えることは尊い仕事です。それは私たちの活動の中心であり、素晴らしい入り口であることに異論はありません。
しかし、それが「唯一の正解」になってしまうと、私たちは自らを苦しめることになります。
クラスの開催、インストラクション。
これらは、紛れもなく「肉体労働」です。
たとえ静かな瞑想のクラスであっても、その場をホールドし、声を出し、時間を管理することは、あなたの生命エネルギー(プラーナ)を使う労働です。
肉体労働である以上、そこには必ず限界があります。
1日は24時間しかありませんし、私たちの身体は一つしかありません。
「クラスの数=貢献の量」という方程式に縛られている限り、私たちはいつか疲弊し、すり減ってしまいます。
そして何より、疲弊したインストラクターからは、あの静かで澄んだ空気感は生まれてきません。
インストラクターという言葉の呪縛
「インストラクター(教える人)」という肩書きが、私たちを狭い箱に閉じ込めているのかもしれません。
私たちは「教える」ことだけで貢献しているのではありません。
ヨガとは、マットの上だけで完結するものではありませんよね。
生き方そのものであり、世界との関わり方そのものです。
ならば、それを伝える手段もまた、クラスという形式だけに留まるはずがないのです。
クラスの外側に広がる、無限の「ヨガ」
では、クラス以外に何ができるのでしょうか。
少し視点を変えれば、可能性は無限に広がっています。
例えば、「書くこと」。
あなたの言葉で綴られたブログやSNSの投稿が、夜中に一人で悩んでいる誰かの心を、ふと軽くするかもしれません。それは、時間や場所を超えて届く、静かなヨガのクラスです。
例えば、「聴くこと」。
クラスの前後の何気ない会話で、ただ相手の話に深く耳を傾けること。アドバイスをするのではなく、ただ受け入れること。その傾聴の姿勢こそが、相手にとって最大の癒し(ヒーリング)になることもあります。
例えば、「場を作ること」。
あなたが選んだお茶を出し、心地よい音楽を流し、ただそこに座っているだけの空間を提供する。何も教えなくていい。その場の空気感(波動)そのものが、訪れる人の呼吸を整えていくこともあります。
あるいは、「生き様を見せること」。
あなたが日常の中で、丁寧に食事をし、家族を大切にし、困難に対してもしなやかに向き合っている姿。その背中そのものが、生徒さんにとって「ヨガ的に生きるとはどういうことか」を示す、生きた教本となります。
「Doing」から「Being」へ
私たちが提供できる最大の価値は、何を教えるか(Doing)ではなく、どう在るか(Being)にあるのかもしれません。
クラスを開催していない時のあなたも、ヨガインストラクターです。
スーパーでレジの人に「ありがとう」と微笑むその瞬間も、あなたはヨガを実践し、世界に平和の種を撒いています。
肉体労働としての限界を超えていく鍵は、ここにあります。
行為を手放し、存在で語る。
クラスという枠組みを超えて、あなたの存在そのものが、周りの人々にとっての「縁側」のような安らぎの場となること。
そう考えると、私たちができることは、クラス以外にも山のように、いえ、空のように広がっていると思いませんか?
身体を酷使するのではなく、心を込める。
行為の量を追うのではなく、質の深さを味わう。
ヨガインストラクターという仕事は、もっと自由で、もっと多様であっていいのです。
まずは、ご自身の荷物を少し下ろして、深呼吸してみましょう。
あなたが健やかで在ること。それ自体が、すでに世界への大きな貢献なのですから。


