アルジュナの苦悩とクリシュナの教え:ダルマ、カルマ、バクティ

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戦場の対話というパラドックス

インド哲学の広大な海の中でも、ひときわ輝きを放つ灯台のような存在、それが『バガヴァッド・ギーター』です。この聖典は、古代インドの二大叙事詩の一つ『マハーバーラタ』の壮大な物語の中に、一つの珠玉として埋め込まれています。その舞台設定は、極めて劇的かつ非日常的です。これから始まろうとする大戦争、クルクシェートラの戦場。両軍が対峙し、法螺貝や太鼓の音が轟き、まさに血で血を洗う戦闘が開始されんとする、その緊張の極限において、一人の英雄が武器を投げ捨て、深い苦悩に沈んでしまいます。

この英雄の名はアルジュナ。そして、彼の傍らで御者を務め、深遠な教えを説き始めるのが、彼の親友であり、実は最高神ヴィシュヌの化身(アヴァターラ)であるクリシュナです。なぜ、このような極限状況で、かくも深遠な哲学的対話が交わされるのでしょうか。この非日常的な設定こそが、『バガヴァッド・ギーター』が単なる物語や教義の羅列ではなく、我々自身の人生における根源的な問いを突きつけるための、巧みな仕掛けなのです。戦場とは、我々が日々直面する葛藤、選択、そして苦悩のメタファーに他なりません。我々もまた、人生という戦場で、自らの「正しさ」を見失い、アルジュナのように立ち尽くすことがあるのではないでしょうか。

 

アルジュナの苦悩 ― 引き裂かれるダルマ

アルジュナは、パーンダヴァ五王子の一人であり、当代随一の弓の名手として知られる、まさに英雄中の英雄です。彼は、不正によって王国を簒奪した従兄弟たち、カウラヴァ軍と戦うためにこの戦場に立っています。しかし、いざ敵陣を見渡したとき、彼の目に飛び込んできたのは、憎むべき敵の顔ではありませんでした。そこにいたのは、敬愛する師であるドローナ、祖父であるビーシュマ、そして数多くの親族や友人たちの姿だったのです。

この瞬間、アルジュナの心は千々に乱れます。彼の口から漏れるのは、英雄らしからぬ、絶望と混乱に満ちた言葉です。

「クリシュナよ、戦おうとしてここに集まった自らの親族を見て、私の手足は力を失い、口は乾き、身体は震え、髪は逆立つ。……たとえ三界の支配権と引き換えであろうとも、私は彼らを殺したくない。ましてや、この地上の王国のためなどになおさらだ」(『バガヴァッド・ギーター』第1章より抜粋・意訳)

彼の苦悩の核心は、「親族や師を殺してまで王国を取り戻すことに、一体何の意味があるのか?」という問いにあります。これは、インド哲学における極めて重要な概念、「ダルマ(dharma)」のディレンマです。

「ダルマ」という言葉は、非常に多義的であり、文脈によって「義務」「法」「正義」「天命」「本性」「宗教」など、様々な意味合いで用いられます。それは、宇宙の秩序(リタ)を個人のレベルで体現する、その人固有の「なすべきこと」を指し示します。アルジュナは、クシャトリヤ(武人・王族階級)として生まれました。したがって、彼のクシャトリヤとしてのダルマは、不正を正し、民衆を守るために戦うことです。しかし同時に、彼には一人の人間として、師を敬い、親族を愛するというダルマも存在します。

クルクシェートラの戦場において、この二つのダルマは、互いに矛盾し、激しく衝突します。戦うことはクシャトリヤのダルマを果たすことになるが、人間としてのダルマを破ることになる。戦わなければ人間としてのダルマは守られるが、クシャトリヤとしてのダルマを放棄することになる。どちらを選んでも、一方のダルマを裏切らざるを得ない。この引き裂かれるような葛藤こそが、アルジュナを深い絶望の淵へと突き落としたのです。

このアルジュナの苦悩は、二千年以上前の物語でありながら、驚くほど現代的です。我々もまた、社会的な役割(会社員、親、子など)が求める「ダルマ」と、一個人の良心や倫理観という「ダルマ」との間で板挟みになることがあります。組織の論理と個人の正義が衝突したとき、我々はどう行動すべきなのか。アルジュナの問いは、そのまま我々自身の問いでもあるのです。

 

クリシュナの教え①:カルマ・ヨーガ ― 行為の結果への執着を捨てよ

武器を投げ捨て、悲嘆に暮れるアルジュナに対し、御者であるクリシュナは、静かに、しかし力強く語り始めます。彼の最初の教えは、この絶望的な状況を打開するための、驚くべき視点の転換を促すものでした。それが「カルマ・ヨーガ(Karma Yoga)」、すなわち行為のヨーガです。

「汝のなすべきことは、行為そのものにある。決してその結果にあるのではない。行為の結果を動機としてはならない。また、行為せぬことに執着してもならない」(第2章47節)

ここでいう「カルマ(karma)」とは、一般的に知られる「業」や「因果応報」といった意味合いだけでなく、より根源的には「行為」そのものを指します。クリシュナは、行為を放棄せよ、と説いたのではありません。むしろ、行為の結果、つまり成功や失敗、利益や損失、勝利や敗北といったものへの執着(サンガ)こそが、苦しみの根源なのだと指摘します。

アルジュナは、「親族を殺す」という行為の結果を恐れ、苦悩していました。彼の心は、まだ起こってもいない未来の結果に縛り付けられ、身動きが取れなくなっていたのです。クリシュナは、その視点を「結果」から「行為そのもの」へとシフトさせます。重要なのは、「何のために戦うか」という結果論ではなく、「クシャトリヤとしてのダルマを、いかに遂行するか」という行為の質にある、と説くのです。

この「結果を期待せずになされる行為」は、「ニシュカーマ・カルマ(niṣkāma-karman)」と呼ばれます。これは、無気力や無責任な行為とは全く異なります。むしろ、結果への執着という心のノイズを取り除くことで、人は初めて、目の前の行為に100%のエネルギーを注ぎ、それを完璧に遂行することができるのです。自分の義務(ダルマ)を、ただひたすらに、心を込めて行う。その結果がどうであれ、それは神の手に委ねる。この境地に至るとき、人は行為に縛られることなく、行為の中にありながら自由でいられる、とクリシュナは教えます。

この教えは、アルジュナのダルマのディレンマに対する一つの鮮やかな回答です。戦いの結果として生じる親族の死という苦しみから意識を切り離し、今ここでなすべきダルマの遂行に集中すること。それによって、彼は個人的な感情の混乱を超え、より大きな秩序の一部として自らの役割を果たすことができるようになります。

 

クリシュナの教え②:ジュニャーナ・ヨーガ ― 知識による不滅の理解

カルマ・ヨーガによって行為への道筋を示したクリシュナは、次にその行為を支えるための形而上学的な知恵、「ジュニャーナ・ヨーガ(Jñāna Yoga)」、すなわち知識のヨーガを説きます。これは、ウパニシャッド哲学の精髄ともいえる教えです。

「(真我は)決して生まれることなく、また死ぬこともない。……肉体が滅ぼされても、それは滅ぼされることはない。……武器もこれを傷つけることはできず、火もこれを焼くことはできず、水もこれを濡らすことはできず、風もこれを乾かすことはできない」(第2章20, 23節)

クリシュナは、人間存在の核心には「アートマン(Ātman)」、すなわち「真我」あるいは「個の根源的実在」があり、それは不生不滅、永遠不変の実在であると説きます。我々が「私」だと思っている肉体や心は、アートマンがまとった一時的な衣服のようなものに過ぎません。肉体は生まれ、老い、そして死んでいきますが、その内なるアートマンは、いかなる変化にも影響されることなく、永遠に存在し続けます。

この視点に立てば、「殺す」「殺される」という概念そのものが、相対的な次元での出来事に過ぎなくなります。アルジュナが殺そうとしているのは、祖父や師の肉体であって、彼らの本質であるアートマンではない。アートマンは誰にも殺すことはできず、また死ぬこともないのです。この究極的な実在のレベルから見れば、戦場で繰り広げられる生と死は、絶対的なものではなく、現象世界における仮の姿、すなわち「マーヤー(māyā)」、幻影のようなものだとクリシュナは示唆します。

この教えは、アルジュナの心に深く根ざしていた「殺害」という行為に対する罪悪感や恐怖を、根底から揺さぶるものでした。もちろん、これは非情な殺戮を正当化するための理屈ではありません。むしろ、生と死という現象への過剰な執着から心を解放し、より高い視点から自らのダルマを見つめ直すための、哲学的な処方箋なのです。真の知識(ジュニャーナ)によって、アルジュナは個人的な悲しみを超え、宇宙的な秩序の中で自らの行為を位置づけることができるようになります。

 

クリシュナの教え③:バクティ・ヨーガ ― 神への絶対的な信愛

カルマ・ヨーガ(行為)とジュニャーナ・ヨーガ(知識)という二つの道を示した後、クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の核心ともいえる、第三の道を提示します。それが、「バクティ・ヨーガ(Bhakti Yoga)」、信愛のヨーガです。

これは、それまでの教えを統合し、さらに昇華させる道です。クリシュナは、これまで親友であり御者として語ってきましたが、ここでついに自らが宇宙のすべてを司る最高神であることを明かし、その恐ろしくも壮麗な宇宙的な姿(ヴィシュヴァ・ルーパ)をアルジュナに見せます。無限の顔、無限の眼、無限の腕を持ち、太陽や月さえもその輝きの中に飲み込んでしまう神の姿を目の当たりにしたアルジュナは、畏怖の念に打たれ、ひれ伏します。

この圧倒的な神との出会いを経て、クリシュナはバクティの道を説きます。

「心を私に集中し、私に信愛の情を捧げよ。私を祀り、私を礼拝せよ。そうすれば、汝は必ずや私に至るであろう。……すべてのダルマを捨て去って、ただ私一人に帰依せよ。一切の罪から、私が汝を解放してあげよう。憂うることなかれ」(第18章65-66節)

バクティ(bhakti)」とは、神に対する絶対的な信愛、献身、そして全的な帰依を意味します。バクティ・ヨーガの実践とは、自らのすべての行為(カルマ)を、その結果も含めて、神への捧げ物とすることです。自分のためではなく、神のために行為する。自分の力で行うのではなく、神の道具として行為する。このように、行為の主体を「私」から「神」へと明け渡すとき、人はカルマの法則そのものから解放される、とクリシュナは約束します。

この道は、カルマ・ヨーガの厳格な自己制御や、ジュニャーナ・ヨーガの難解な哲学的思索が難しいと感じる人々にとっても開かれた、よりアクセスしやすく、人格的な救済の道です。行為の結果への執着を捨てるのが難しいなら、その結果を神に捧げてしまえばよい。アートマンの不滅を理解するのが難しいなら、ただひたすらに神を信じ、愛すればよい。神との間に築かれる愛と信頼という人格的な関係性こそが、人をあらゆる苦悩や罪悪感から救い出してくれるのです。

アルジュナのディレンマは、ここで完全に解決されます。彼がこれから行う戦いという行為は、もはや彼個人のものではなく、最高神クリシュナに捧げられた神聖な儀式となります。その結果に対する責任も、彼が負う必要はありません。すべては神が引き受けてくれるのです。

 

戦士の再生

ダルマの狭間で苦悩し、カルマの束縛に怯え、武器を捨てたアルジュナ。彼は、クリシュナが示した三つの道 ― カルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、そしてバクティ・ヨーガ ― を通じて、自らの迷いを打ち破ります。彼は、結果への執着を捨てて行為に集中し(カルマ)、アートマンの不滅という真理を理解し(ジュニャーナ)、そして最終的には、すべての行為を神への信愛(バクティ)のうちに捧げることで、完全な心の平安を得るのです。

物語の最後に、アルジュナは晴れやかな表情で立ち上がり、クリシュナにこう宣言します。

「クリシュナよ、あなたの恩寵によって、私の迷いは消え去りました。私は自己を取り戻しました。私は不動の決意を固め、疑いはありません。あなたの言葉の通りに行いましょう」(第18章73節)

これは、単なる戦闘開始の合図ではありません。一人の人間が、深い自己探求と神との対話を経て、自らの内なる葛藤を乗り越え、与えられた天命(ダルマ)を全うする決意を固めた、魂の再生の瞬間です。

『バガヴァッド・ギーター』が描くアルジュナの苦悩とクリシュナの教えは、人生という戦場で迷い、苦しむすべての現代人への、力強いメッセージであり続けています。我々もまた、自らのダルマを見つめ、行為の結果への執着を手放し、より大きな存在との繋がりの中で、自らのなすべきことを果たしていく。そのための普遍的な智慧が、この戦場の対話には凝縮されているのです。

 

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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。