部派仏教:上座部仏教と大乗仏教

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仏陀、すなわちゴータマ・シッダールタがクシナガラの沙羅双樹の下で入滅された後、残された弟子たちの共同体、**サンガ(Saṅgha)**が直面したのは、偉大なる師の不在という根源的な問いでした。生前の仏陀であれば、教義に関する疑問も、教団内の規律の問題も、その一言で解決したでしょう。しかし、その絶対的な拠り所を失ったサンガは、師の遺した「法(ダルマ)」と「律(ヴィナヤ)」をいかにして正確に守り、未来へと伝えていくかという、重い課題を背負うことになったのです。

この課題への応答として行われたのが、経典の**結集(けつじゅう)**でした。これは、師の教えを皆で確認し合い、合議の上で正式な聖典として編纂する作業です。しかし、人間の集団である以上、記憶の違いや解釈の差異が生じるのは避けられません。特に、師が遺した教えは、ある時は極めて実践的であり、またある時は深遠な哲理を秘めていました。その広大無辺な教えのどの側面を重視するかによって、人々の間に見解の相違が生まれるのは、むしろ必然であったと言えるでしょう。

仏教史における「分裂」という言葉は、しばしばネガティブな響きを伴います。しかし、それは決して教団の衰退や対立抗争を意味するものではありませんでした。むしろ、師の教えを真摯に受け止め、その本質を深く探求しようとする情熱が生み出した、思想的な多様性の開花であり、ダイナミックな深化のプロセスだったのです。それは、一つの源流から分かれた川が、それぞれに異なる風景を育みながら、やがて再び大いなる海へと注ぎ込む姿にも似ています。この講では、仏教という大河が最初に二つの大きな流れへと分かれ、やがてさらなる豊かさを生み出していく、その壮大な物語を紐解いていきましょう。

 

根本分裂:保守と革新の萌芽

仏陀の入滅から約百年後、第二回結集がヴァイシャーリーの地で開かれたと伝えられています。この結集が、サンガが二つに分かれる「根本分裂」の直接的なきっかけとなりました。その原因として伝統的に語られるのは、戒律(ヴィナヤ)の解釈をめぐる「十事」と呼ばれる問題です。例えば、「食事の際に塩を蓄えて良いか」「正午を過ぎても食事をして良いか」といった、比較的柔軟な解釈を求める東方の比丘(びく)たちに対し、長老たちを中心とする西方の比丘たちが、仏陀の定めた戒律を厳格に守るべきだと反対したのです。

表面的には戒律の些細な解釈の違いに見えるかもしれませんが、その深層には、教団のあり方に対する根本的な思想的スタンスの相違が横たわっていました。

戒律の厳格な遵守を主張し、伝統と長老(テーラ)たちの権威を重んじた一派は、**上座部(じょうざぶ, Theravāda)**と呼ばれます。彼らは、仏陀が説いた教えと定められた戒律を、一字一句変えることなく忠実に守ることこそが、解脱への唯一の道であると考えました。彼らの理想像は、自らの修行によって一切の煩悩を断ち切り、輪廻の苦しみから完全に解放された聖者、**阿羅漢(あらかん, Arhat)**となることでした。

一方、戒律の解釈に一定の柔軟性を認め、より多くの人々の意見を尊重しようとした多数派は、**大衆部(だいしゅぶ, Mahāsāṃghika)**と呼ばれます。彼らは、時代の変化や地域の状況に合わせて戒律を運用することに寛容であり、より進歩的な思想を持っていました。大衆部の中には、歴史上の人物としての仏陀を超越し、神格化された存在として捉える傾向も見られます。そして、自らの悟りだけでなく、他者を救うという「菩薩」の思想の萌芽も、この大衆部の流れの中から生まれてくることになります。

この上座部と大衆部への根本分裂は、後の仏教思想の大きな二つの方向性を決定づける、極めて重要な出来事でした。一方は、自己の内面を深く掘り下げ、個人の解脱を追求する求道的な流れ。もう一方は、教えをより広く開き、他者との関わりの中で慈悲を実践しようとする社会的な流れ。この二つの潮流が、これから数世紀にわたって、それぞれに独自の思想体系を精緻に発展させていくことになるのです。

 

部派仏教の時代:アビダルマ哲学という知の迷宮

根本分裂の後、上座部と大衆部はそれぞれ、さらに細かく枝分かれを繰り返していきました。この時代は部派仏教の時代と呼ばれ、伝承によれば18から20もの部派が乱立したと言われます。この多様な部派が競い合うようにして取り組んだのが、**アビダルマ(Abhidharma)**哲学の構築でした。

アビダルマとは、「法(ダルマ)についての研究」あるいは「卓越した法」を意味します。仏陀が説いた教え(経、スートラ)を、ただ漠然と受け止めるのではなく、そこに説かれている世界の構成要素、心と物質の働き、因果関係などを徹底的に分析・分類し、論理的かつ体系的な哲学として再構築しようとする壮大な知的試みでした。それは、あたかも精密な顕微鏡で世界を覗き込み、存在の最小単位である**法(ダルマ)**を発見し、その組み合わせによって、なぜ「苦」が生じるのかという根源的なメカニズムを解明しようとする営みでした。

このアビダルマ哲学を最も精緻に発展させたのが、上座部系の最大部派であった**説一切有部(せついったいうぶ, Sarvāstivāda)**です。その名の通り、「一切(の法)は有ると説く」この部派は、私たちの認識を構成する要素である「法」が、過去・現在・未来の三世にわたって実体として存在し続ける(三世実有・法体恒有)という独自の理論を打ち立てました。例えば、「昨日の私」を構成していた法も、「明日の私」を構成するであろう法も、時間の中に実体として存在していると考えたのです。彼らは、この膨大な「法」のリスト(七十五法など)を作り上げ、その複雑な相互作用を解明することで、一切の現象を説明しようとしました。

説一切有部のアビダルマ哲学は、極めて煩瑣で難解なものでしたが、それは仏教思想が到達した一つの知性の極致でした。しかし、この「すべては実体として存在する」という考え方は、やがて仏教内部から大きな批判を受けることになります。仏陀の根本思想である「縁起(えんぎ)」、すなわち「すべての物事は相互依存の関係性によって成り立っており、それ自体で独立して存在する実体はない」という教えと、矛盾するように見えたからです。

この部派仏教の時代は、決して思想が停滞した「冬の時代」ではありません。むしろ、インド哲学の他の学派(サーンキヤ学派の二元論やヴァイシェーシカ学派の原子論など)との活発な論争を通じて、自らの教義を研ぎ澄ませていった「知の熱狂」の時代だったのです。この知的な格闘があったからこそ、仏教は単なる素朴な信仰に留まらず、世界宗教へと飛躍するための強固な哲学的基盤を築くことができたのでした。

 

大乗仏教の興起:利他という新たなる理想

紀元前後、インド社会が大きく変動する中で、仏教にも新しい風が吹き始めます。それが**大乗仏教(だいじょうぶっきょう, Mahāyāna)**と呼ばれる運動です。大乗とは「大きな乗り物」を意味し、従来の部派仏教を、自分一人の解脱しか目指さない「小さな乗り物」(小乗, Hīnayāna)であると批判することから、その名が付けられました。ただし、「小乗」という言葉は、大乗側からの批判的なニュアンスを含むため、現代では価値判断を抜きにした「部派仏教」や、阿羅漢を目指す者を意味する「声聞乗(しょうもんじょう)」という呼称が用いられるのが一般的です。

大乗仏教が興起した背景には、いくつかの要因が考えられます。一つは、部派仏教のアビダルマ哲学が、あまりにも専門的で煩瑣になりすぎたことへの反発です。出家して難解な哲学を学ばなければ救われないという教えは、一般の在家信者たちから遊離していました。もう一つは、阿羅漢という理想像への疑問です。自分だけが苦しみの海から抜け出して彼岸に到達し、まだ海で溺れている人々を顧みないのは、仏陀の慈悲の精神に反するのではないか、という問いかけでした。

こうした問いへの応答として、大乗仏教は新たな理想像を掲げます。それが**菩薩(ぼさつ, Bodhisattva)です。菩薩とは、「悟りを求める衆生」を意味しますが、その特徴は、自らの悟りの能力を持ちながらも、あえて涅槃(ねはん)に入ることを遅らせ、苦しむすべての人々(一切衆生)を救済するために、この輪廻の世界に留まり続けるという、徹底した利他(りた)**の精神にあります。彼らは、他者の苦しみを自らの苦しみと感じ、すべての人々を救うまでは自分も悟らないという、広大無辺な誓願(せいがん)を立てるのです。

この菩薩の思想を哲学的に支えたのが、**空(くう, Śūnyatā)**の思想でした。般若経典群などで強調されるこの思想は、説一切有部が主張した「すべての法は実体として存在する」という考え(法有論)を真っ向から否定します。空とは、虚無や無を意味するのではありません。すべての存在、すべての現象は、それ自体で独立した固定的実体(自性)を持たず、無数の原因と条件が相互に依存し合う関係性(縁起)の中で、仮に現象しているにすぎない、という真理を指します。

「私」という存在も、「世界」という存在も、確固たる実体があるわけではなく、縁起の網の目の一つの結び目のようなものです。この真理を悟れば、「私」と「他者」を隔てる壁は崩壊します。他者の苦しみは、もはや他人事ではなく、自らの苦しみとして感じられるようになります。ここに、菩薩の利他行の哲学的根拠が見出されるのです。

さらに、大乗仏教は仏陀観も大きく変容させました。歴史上の人物としての釈迦牟尼仏だけでなく、時間も空間も超越した、宇宙の真理そのものである法身仏(ほっしんぶつ)のような、普遍的な仏の存在を説き始めました。これにより、「仏」は遠い過去の偉大な聖者ではなく、今ここにも遍満する真理となり、すべての衆生は内に仏となる可能性(仏性)を秘めているという、ラディカルな思想へと展開していったのです。

 

二つの道の比較:対立か、それとも補完か

こうして見ると、伝統的な部派仏教(その現代的後継者が、スリランカや東南アジアに伝わる上座部仏教)と、新たに興った大乗仏教は、多くの点で対照的です。

項目 部派仏教(上座部仏教) 大乗仏教
理想像 阿羅漢(自己の解脱を完成した聖者) 菩薩(他者を救済するために尽力する求道者)
仏陀観 歴史上の偉大な師、覚者 時間と空間を超越した普遍的・絶対的な仏
主要経典 パーリ語経典(阿含経など) 般若経、法華経、華厳経など(サンスクリット原典)
核心思想 四諦、八正道、縁起(苦の原因と滅尽の道筋) 空、六波羅蜜(利他行の実践徳目)
救済対象 主に戒律を守る出家修行者 在家信者を含む一切衆生

これほどの違いがあれば、両者は激しく対立していたと想像するかもしれません。しかし、中国の僧・義浄が7世紀にインドを訪れた際の記録によれば、説一切有部の僧と大乗の僧が、同じ僧院の中で平和的に共存していたと伝えられています。彼らは、戒律(律)は共通のものを守りながら、それぞれが信奉する教義(経・論)を探求していたのです。

両者の根底には、四諦、八正道、縁起といった、仏陀が説いた共通の基盤が流れています。大乗仏教は、部派仏教を完全に否定して無から生まれたのではありません。部派仏教が築き上げた緻密な哲学の土壌の上で、その教えを解釈し直し、より広く、より深く、すべての人々を包み込む「大きな乗り物」へと、いわば教えをバージョンアップさせようとした運動と捉えることができます。

自己の内面を深く見つめ、煩悩を滅尽して個の完成を目指す道(自利)。そして、他者との関わりの中で慈悲を実践し、共に苦しみの海を渡ろうとする道(利他)。この二つは、人間存在が抱える根源的な二つの志向性そのものと言えるかもしれません。部派仏教と大乗仏教は、仏教という一つの教えの中に、この二つの道をそれぞれ究極的なまでに深化させた、かけがえのない両輪なのです。

この分裂と発展の歴史は、私たちに豊かな視座を与えてくれます。仏教が単一の教義に凝り固まらず、多様な人々の問いに応え、時代を超えて生き続けてこられたのは、まさにこの思想的なダイナミズムがあったからに他なりません。自己の心の静寂を求めるマインドフルネス瞑想も、社会的な問題にコミットするエンゲージド・ブッディズムも、その源流を辿れば、この古代インドで繰り広げられた壮大な思想のドラマに行き着くのです。この二つの道の存在を知ることは、私たちが「仏教」という広大な智慧の森を歩む上で、確かな羅針盤となってくれることでしょう。

 

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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。