4.1 現代社会の課題とヴェーダ哲学:私たちが直面する課題

ヨガを学ぶ

 

第四部:ヴェーダ哲学を生きる:古代の叡智が照らす、現代社会への道

私たちは今、歴史上かつてないほどの物質的な豊かさと、驚異的なテクノロジーの発展の中に生きています。スマートフォン一つで世界中の人々と繋がり、瞬時に情報を得て、ボタン一つで生活に必要なものが手に入る。その利便性と効率性は、数世代前の人々が夢見た未来像そのものかもしれません。しかし、この輝かしい繁栄の光の裏側で、私たちは言いようのない空虚感や、深く静かな生きづらさを感じてはいないでしょうか。

心の病が蔓延し、人間関係は希薄化し、環境問題は深刻さを増しています。私たちはなぜ、これほどまでに豊かでありながら、真の安らぎや幸福感を見出すことが難しいのでしょうか。それは、私たちが進歩の名の下に突き進む中で、人間存在の根源に関わる「何か」を道端に置き忘れてきてしまったからなのかもしれません。まるで、高速道路を猛スピードで走りながら、自分がどこへ向かっているのか、そもそもなぜ走っているのかを見失ってしまった旅人のように。

この章からは、古代インドの叡智であるヴェーダ哲学という、数千年の時を経て磨き上げられた鏡を用いて、現代社会という私たちの姿を映し出し、その内側に潜む課題の正体を探っていきます。そして、その課題に対して、ヴェーダの深遠な教えがどのような光を当て、どのような羅針盤となりうるのかを考察していきましょう。これは、過去への回帰を勧めるものではありません。むしろ、未来をより良く生きるために、古代の叡智から現代を生き抜くための実践的な智慧を汲み上げる、創造的な旅なのです。

 

第一の課題:断絶された「私」――自己と世界の分離という病

現代社会が抱える最も根源的な課題の一つは、「断絶」です。私たちは、様々なレベルで、本来繋がっているはずのものから切り離されて生きています。

第一に、**「自然との断絶」**です。私たちはアスファルトで固められた大地を歩き、空調の効いたビルの中で働き、自然のサイクルとは無関係に夜遅くまで活動します。食料はスーパーマーケットに整然と並び、その食べ物がかつてどのような生命であり、どのような土壌で育まれたのかを想像する機会はほとんどありません。近代科学の発展は、自然を客観的な観察対象、あるいは利用し、開発すべき「資源」と見なす視点を確立しました。かつて多くの文化が持っていた、自然に対する畏敬の念や、自身を自然の一部として捉える感覚は薄れ、私たちは自らを自然の「外側」に立つ支配者のように錯覚してしまっています。この傲慢さが、今日の深刻な環境問題の根底にあることは言うまでもありません。

第二に、**「他者との断絶」**です。SNSの登場により、私たちはかつてないほど多くの人々と「繋がって」いるかのように見えます。しかし、その繋がりは、注意深く編集された自己イメージの交換に過ぎず、リアルな体温や息遣いを伴うものではありません。「いいね」の数で自己肯定感を確認し、他者の華やかな投稿に嫉妬や焦燥感を抱く。その一方で、現実世界での深い人間関係の構築は困難になり、都市部では隣人の顔さえ知らないという状況が当たり前になっています。個人主義は、個人の自由と権利を尊重する上で重要な思想でしたが、その行き過ぎは、私たちを依って立つべき共同体から切り離し、孤独な原子のような存在へと変えてしまいました。

そして最も深刻なのが、**「自己の内面との断絶」**です。私たちの意識は、朝起きてから夜眠るまで、絶えず外部からの情報や刺激に晒されています。スマートフォンの通知、仕事のメール、広告、ニュース、SNSのタイムライン…。情報の洪水の中で、私たちは自分自身の内なる声、つまり身体の微細な感覚や、心の奥底からの静かな囁きに耳を傾ける時間を失っています。常に「何かをしなければならない」という強迫観念に駆られ、ただ静かに「在る」ことができなくなっているのです。この内なる断絶こそが、原因不明の不安感やストレス、生きる意味の喪失感の直接的な原因となっています。

これらの「断絶」の根源を思想史的に探れば、西洋近代を特徴づけるデカルト的な「主客二元論」に行き着くでしょう。「我思う、ゆえに我あり」という命題は、考える「私」という主観を、それ以外のすべての客観的世界(身体、自然、他者)から切り離しました。この思考様式が科学技術を発展させた原動力であったことは事実ですが、同時に、世界をバラバラに分断し、私たちを根源的な繋がりから引き離してしまったのです。

これに対し、ヴェーダ哲学、特にウパニシャッドの叡智は、まったく異なる世界観を提示します。それが、第二部で詳述した**「梵我一如(ブラフマン=アートマン)」**の思想です。宇宙の根源的実在であるブラフマンと、個人の本質であるアートマンは、本来同一である。この教えは、私たちの「私」という意識が、孤立した存在なのではなく、宇宙全体に遍満する一つの大いなる生命の現れであることを示唆します。あなたが吸い、そして吐く息は、木々が吐き出し、そして吸い込む息と繋がっています。あなたの身体を構成する元素は、遠い昔に星の内部で生まれたものです。この深遠な一体性の感覚を取り戻すとき、自然はもはや利用すべき「資源」ではなく、私たち自身を生かしている母体となり、他者は競争相手ではなく、同じ生命を分かち合う同胞となります。そして、自己の内側へと深く潜っていく瞑想の旅は、個我を超えた大いなる自己、すなわち宇宙そのものと出会うための神聖な道程となるのです。

 

第二の課題:終わりのない渇望――物質主義と消費社会の罠

現代社会は、資本主義という強力なエンジンによって駆動されています。このシステムは、人々の「欲望」を絶えず刺激し、消費を促進することによって維持・拡大されます。私たちはテレビやインターネット、街中の広告を通して、「これがあれば、あなたはもっと幸せになれる」「あれを手に入れれば、あなたの人生はもっと輝く」というメッセージを四六時中浴びせられています。

その結果、私たちの幸福の基準は、どれだけ多くのモノを「所有」しているか、どれだけ高い社会的地位を得ているかといった、外部の条件に依存するようになりました。新しいモデルの車、より広い家、ブランド品のバッグ、SNSでの多くのフォロワー…。しかし、これらの欲望は、一つ満たされても、すぐにまた次の新しい欲望が生まれるという、終わりのない連鎖を生み出します。まるで、塩水を飲んで喉の渇きを癒そうとするように、物質的な所有によって心の渇望を満たそうとすればするほど、渇きはさらに増していくのです。

この終わりのない競争は、私たちを他者との絶え間ない比較へと駆り立てます。友人が手に入れたもの、同僚の昇進、SNSで見る他人のきらびやかな生活。それらと比較して、自分の現状に不満を抱き、劣等感や嫉妬に苛まれる。幸福が、他者との比較によってしか測れない「相対的なもの」になってしまったとき、そこに真の安らぎはありません。なぜなら、上には常に上がいるからです。

ヴェーダの叡智は、この物質主義の罠に対して、明確なオルタナティブを提示します。ヨーガの八支則の第一段階であるヤマ(禁戒)の中には、「アパリーグリハ(Aparigraha)」、すなわち「不貪」という教えがあります。これは、必要以上のものを所有しない、貪らないという実践です。それは単なる禁欲主義ではなく、真の豊かさは物質的な所有の量によって決まるのではない、という深い洞察に基づいています。

さらに重要なのが、ニヤマ(勧戒)で説かれる**「サントーシャ(Santosha)」**、すなわち「知足」です。これは、今ここにあるもの、すでに与えられているものに対して満足し、感謝する心のことです。サントーシャは、外部の条件に幸福を求めるのではなく、自分自身の内側に幸福の源泉を見出すための鍵となります。ウパニシャッドが説くように、私たちの本質であるアートマンは、本来、完全で満ち足りた存在(プールナ)です。何も付け加える必要も、何かを取り去る必要もない。この真理を体感するとき、私たちは外部のモノや他者の評価によって自己価値を測る必要がなくなり、消費社会が仕掛ける欲望のゲームから自由になることができるのです。

 

第三の課題:引き裂かれる時間感覚――「今、ここ」の喪失

「時は金なり」という言葉に象徴されるように、現代社会はスピードと効率性を至上の価値とします。私たちは常に時間に追われ、マルチタスクをこなし、生産性を高めることを求められます。その結果、私たちの意識は、常に未来の計画や心配事、あるいは過去の出来事への後悔や反芻へと引き裂かれ、「今、この瞬間」に完全に没入することが極めて困難になっています。

食事をしながらスマートフォンをチェックし、会話をしながら次の仕事の段取りを考える。私たちの心は、常に「ここ」ではないどこか、「今」ではないいつかを彷徨っています。この「心、ここにあらず」の状態が、現代人のストレスや集中力の欠如、そして人生の充実感の希薄さの大きな原因となっています。近年、マインドフルネスという言葉がこれほどまでに流行しているのは、多くの人々が「今、ここ」を生きることの重要性に気づきながらも、それができずに苦しんでいることの何よりの証左と言えるでしょう。

この問題の背景には、近代以降に確立された、時間を均質で直線的なものとして捉える「時計の時間」の支配があります。自然のサイクル(日の出、日の入り、月の満ち欠け、季節の移ろい)と共鳴していた生命本来の「質的な時間」は、客観的に計測され、管理されるべき「量的な時間」へと置き換えられました。

ヴェーダ哲学、とりわけヨーガの実践は、この引き裂かれた時間感覚を癒し、意識を「今、ここ」へと取り戻すための、極めて具体的かつ強力な方法論を提供します。

**アーサナ(坐法)**の実践は、意識を身体の感覚へと向けさせます。足の裏が大地に触れる感覚、筋肉が伸び縮みする感覚、身体のバランスを保とうとする微細な調整。これらの身体感覚は、常に「今、この瞬間」にしか存在しません。身体というアンカー(錨)に意識を繋ぎとめることで、過去や未来を彷徨う心を現在へと呼び戻すのです。

**プラーナーヤーマ(呼吸法)**は、呼吸という生命活動そのものに意識を集中させます。吸う息と吐く息の流れ、その間の静寂。呼吸もまた、常に「今」行われている現象です。呼吸を深く、穏やかにコントロールすることで、心の波を鎮め、現在の瞬間に安らぐことができます。

そして、ディヤーナ(瞑想)は、この「今、ここ」への集中をさらに深めていく実践です。第三部で触れたカルマ・ヨーガの教えもまた、この問題に対する深い洞察を与えてくれます。それは、行為の結果に対する執着を手放し、行為そのものに、そのプロセスに完全に没入することを説きます。未来の成功や失敗を案じるのではなく、今なすべきことに心を込めて取り組む。そのとき、私たちは時間という束縛から解放され、行為の中に深い喜びと充実感を見出すことができるのです。

 

第四の課題:失われた羅針盤――アイデンティティと「ダルマ」の不在

現代は「自由の時代」と言われます。私たちは、かつての社会のように、生まれや身分によって人生を決められることはありません。職業選択の自由、居住地選択の自由、そしてどのような価値観を持って生きるかの自由さえも、原則として保障されています。

しかし、この「自由」は、諸刃の剣でもあります。あらゆるものが選択可能であるということは、裏を返せば、自分が誰であり、何を指針として生きるべきかを、すべて自分自身で見つけ出さなければならないということを意味します。かつて共同体や宗教が提供してくれていた人生の「羅針盤」を、私たちは自力で手に入れなければなりません。

この重圧の中で、「自分は何者なのか?」「何のために生きるのか?」という問いに答えを見出せず、アイデンティティの危機に陥る人々が後を絶ちません。選択肢が多すぎることが、かえって私たちを麻痺させ、生きる方向性を見失わせる。「何にでもなれる」という可能性は、「何者でもない」という不安と表裏一体なのです。

この根源的な問いに対し、ヴェーダ哲学は**「ダルマ(Dharma)」**という極めて重要な概念を提示します。ダルマは、単なる「義務」や「道徳」と訳されることもありますが、その本質はもっと深く広範です。それは、宇宙の秩序(リタ)の中で、個々の存在に与えられた本質的な役割や、その存在がその存在らしくあるための法則を意味します。火のダルマが燃えることであり、水のダルマが流れることであるように、人間にもまた、それぞれ固有のダルマがある、とヴェーダは説きます。

このダルマという視点は、「私は誰か?」という問いに、新たな光を当てます。それは、自分の欲望や気まぐれな選択によってアイデンティティを構築するのではなく、自分という存在を、家族、社会、自然、そして宇宙全体というより大きな文脈の中に位置づけ、その中で自分が果たすべき独自の役割を見出していく、という生き方です。

自分のダルマを生きることは、窮屈な義務をこなすことではありません。むしろ、自分自身の最も深い本質と調和して生きることであり、そこにこそ真の自己実現と喜びがあるとされます。ギタリストが最高の喜びを感じるのは、その才能を存分に発揮して人々を魅了する音楽を奏でているときでしょう。それと同じように、私たちが自分のダルマを見出し、それを誠実に生きるとき、私たちは深い満足感と、世界に貢献しているという確かな手応えを感じることができるのです。

現代社会が提供する「自由」が、大海原に羅針盤なく放り出されるような不安を伴うものであるとすれば、ダルマという教えは、私たち一人ひとりの心の中に、宇宙の真北を指し示す羅針盤を授けてくれるようなものだと言えるでしょう。

 

結論として:古代の叡智を、現代の道標に

ここまで見てきたように、現代社会が直面する様々な課題――自然や他者、自己との「断絶」、物質主義がもたらす「終わりのない渇望」、「今、ここ」を生きられない「引き裂かれた時間感覚」、そして生きる指針を失った「羅針盤の不在」――は、一見すると別々の問題に見えるかもしれません。しかし、その根源をたどれば、それらはすべて、私たちが「自己と世界の根源的な繋がり」を見失ってしまったことに起因していると言えます。

ヴェーダ哲学は、数千年の時を超えて、この失われた繋がりを回復するための叡智を、私たちに力強く語りかけます。それは、小手先のテクニックや対症療法的な解決策ではありません。私たちの世界観、人間観、そして自己認識そのものを根底から変容させる、深遠なパラダイムシフトを促すものです。

この第四部では、これから、これらの課題に対するヴェーダ哲学からの応答を、さらに具体的な実践レベルへと掘り下げていきます。自然とどのように共生するのか。真の豊かさとは何か。心の平和をいかに育むのか。そして、自分のダルマを見出し、いかに生きていくのか。古代の聖賢たちが遺してくれた叡智の光を頼りに、混迷の時代を生き抜くための、あなた自身の道を照らし出していきましょう。

 

 

ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。

 

 


1年で人生が変わる毎日のショートメール講座「あるがままに生きるヒント365」が送られてきます。ブログでお伝えしていることが凝縮され網羅されております。登録された方は漏れなく運気が上がると噂のメルマガ。毎日のヒントにお受け取りください。
【ENGAWA】あるがままに生きるヒント365
は必須項目です
  • メールアドレス
  • メールアドレス(確認)
  • お名前(姓名)
  • 姓 名 

      

- ヨガクラス開催中 -

engawayoga-yoyogi-20170112-2

ヨガは漢方薬のようなものです。
じわじわと効いてくるものです。
漢方薬の服用は継続するのが効果的

人生は”偶然”や”たまたま”で満ち溢れています。
直観が偶然を引き起こしあなたの物語を豊穣にしてくれます。

ヨガのポーズをとことん楽しむBTYクラスを開催中です。

『ぐずぐずしている間に
人生は一気に過ぎ去っていく』

人生の短さについて 他2篇 (岩波文庫) より

- 瞑想会も開催中 -

engawayoga-yoyogi-20170112-2

瞑想を通して本来のあなたの力を掘り起こしてみてください。
超簡単をモットーにSIQANという名の瞑想会を開催しております。

瞑想することで24時間全てが変化してきます。
全てが変化するからこそ、古代から現代まで伝わっているのだと感じます。

瞑想は時間×回数×人数に比例して深まります。

『初心者の心には多くの可能性があります。
しかし専門家と言われる人の心には、
それはほとんどありません。』

禅マインド ビギナーズ・マインド より

- インサイトマップ講座も開催中 -

engawayoga-yoyogi-20170112-2

インサイトマップは思考の鎖を外します。

深層意識を可視化していくことで、
自己理解が進み、人生も加速します。
悩み事や葛藤が解消されていくのです。

手放すべきものも自分でわかってきます。
自己理解、自己洞察が深まり
24時間の密度が変化してきますよ。

『色々と得たものをとにかく一度手放しますと、
新しいものが入ってくるのですね。 』

あるがままに生きる 足立幸子 より

- おすすめ書籍 -

ACKDZU
¥1,250 (2025/12/05 12:56:09時点 Amazon調べ-詳細)
¥2,079 (2025/12/05 12:52:04時点 Amazon調べ-詳細)

ABOUT US

アバター画像
Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。