アートマン:個我、魂、ブラフマンと同一の存在

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私たちは日々、「私」という言葉を当たり前のように使っています。私の身体、私の考え、私の感情、私の人生。しかし、この「私」とは、一体何者なのでしょうか。この問いは、人類が抱き続けてきた最も根源的で、最も深遠な問いの一つです。まるで静かな縁側に腰を下ろし、どこまでも広がる空を眺めている時に、ふと心に浮かんでくる問いのように、それは私たちの存在の核心に触れています。

ウパニシャッドの賢者たち、リシ(ṛṣi)と呼ばれる古代の探求者たちもまた、この問いに生涯を捧げました。彼らは、外なる世界の祭祀や儀礼だけでは飽き足らず、自らの内側へと深く、深く分け入っていきました。そして、その長い探求の果てに、一つの輝く真実を発見します。それが「アートマン(Ātman)」です。この章では、ヴェーダ哲学の心臓部ともいえるアートマンの概念を、ゆっくりと、丁寧に解き明かしていく旅に出ましょう。

 

アートマンとは何か? – 「息」から「真の自己」へ

アートマンという言葉を理解するためには、まずその語源に触れるのが近道です。サンスクリ-ット語の「アートマン」は、もともと「呼吸する」を意味する語根「an」に由来すると言われています。それは文字通り、私たちの生命活動の最も根源的な徴候である「息」や「呼吸」を指していました。息をしていること、それこそが生きている証であり、アートマンは当初、この生命そのものを動かす原理、生命力として捉えられていたのです。

しかし、ウパニシャッドの時代になると、この言葉は驚くべき哲学的深化を遂げます。賢者たちは、単なる生命力としての「息」の奥に、変化しない不滅の「何か」があることを見出しました。私たちの身体は成長し、老い、やがて滅びます。私たちの思考や感情は、雲のように絶えず移ろい、一瞬として同じ状態にはとどまりません。では、この変化し続ける身体や心の背後で、それらすべてを「私のもの」として認識し続けている、変わらない主体とは何なのでしょうか。

それがアートマンです。アートマンは、単なる生命原理から、「個人の本質」「真の自己(Self)」、そしてあらゆる経験の根底にある「純粋な意識」そのものを指す言葉へと昇華されました。それは、変化する現象世界の観客であり、舞台の上で繰り広げられる喜怒哀楽のドラマに影響されることのない、静かなる目撃者なのです。

この多層的な構造を、インドの伝統ではしばしば玉ねぎの皮に喩えます。一番外側にあるのが、私たちが物理的に認識できる肉体(アンナマヤ・コーシャ、食物でできた鞘)。その内側には、生命エネルギーの層(プラーナマヤ・コーシャ)、心の層(マノマヤ・コーシャ)、理性の層(ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ)、そして最も内側に歓喜の層(アーナンダマヤ・コーシャ)があるとされます。アートマンは、これらのすべての層の中心にありながら、どの層とも同一ではない、それらすべてを照らし出す光源のような存在として考えられています。

 

ウパニシャッドが描くアートマンの肖像

ウパニシャッドの書物は、この捉えどころのないアートマンの姿を、様々な比喩や対話を通して、私たちに示そうと試みます。それは直接的な定義を避け、むしろ「何ではないか」を語ることで、その輪郭を浮かび上がらせる手法を好みます。

 

ブッハダラニヤカ・ウパニシャッド:「ネートィ、ネートィ(これではない、これではない)」

古代インド最大の哲学者の一人とされるヤージュニャヴァルキヤは、妻マイトレーイーにアートマンについて説く中で、有名な「ネートィ、ネートィ(neti, neti)」という言葉を使います。

「そのアートマンは、『これではない、これではない』と言われる。それは把握されることなく、把握されない。破壊されることなく、破壊されない。執着することなく、執着しない。束縛されることなく、動揺せず、傷つけられることもない。」

これは、アートマンが私たちの五感や思考で対象化できるものではない、ということを力強く宣言しています。あなたは自分の目を見ることはできません。なぜなら、目自身が見る主体だからです。同様に、アートマンはすべてのものを見る主体、認識する主体であるがゆえに、認識の対象となることはないのです。私たちが「これはアートマンだ」と指し示すことができるものは、すべてアートマンそのものではなく、アートマンによって照らし出された客体に過ぎません。この消去法によって、あらゆる対象物を「これではない」と否定していった先に、否定する主体そのものとして、アートマンが純粋な輝きを放つのです。

 

チャンドーギャ・ウパニシャッド:「タット・トゥヴァム・アシ(それが汝である)」

このウパニシャッドでは、父ウッダラカが息子シュヴェータケートゥに、深遠な真理を教える対話が続きます。父は息子に、一杯の水と塩を持ってこさせます。

「この塩を水の中に入れなさい。そして明日の朝、私のところへ持ってきなさい。」

息子はその通りにしました。

翌朝、父は言いました。「さあ、昨日入れた塩を持ってきなさい。」

息子は探しましたが、塩は水に溶けて見つけることができません。

父は言います。「では、その水の上の方を味わってみなさい。どうかな?」「塩辛いです。」

「では、真ん中を味わってみなさい。どうかな?」「塩辛いです。」

「では、底の方を味わってみなさい。どうかな?」「塩辛いです。」

そして父は、ウパニシャッド哲学の最も重要な聖句の一つを告げます。

「わが子よ、まさにそのように、この身体の中にも実在(ブラフマン)はあるのだが、汝はそれを見ることができない。目に見えずとも、それは確かにここに存在する。その最も微細なもの、それこそが全世界の本質であり、真実であり、アートマンなのだ。シュヴェータケートゥよ、タット・トゥヴァム・アシ(Tat Tvam Asi)——それが、汝なのだ。」

水に溶けた塩のように、アートマンは私たちの存在の隅々にまで浸透していますが、感覚器官で直接捉えることはできません。しかし、それは間違いなく存在し、私たちの本質そのものである。この力強い宣言は、私たちが自分だと思っている肉体や心を超えた、より広大で根源的な自己の存在を示唆しています。

 

カタ・ウパニシャッド:アートマンは馬車の主人

このウパニシャッドでは、死の神ヤマが少年ナチケータスに死後の世界の秘密とアートマンの真理を語ります。ここで用いられるのが、有名な「馬車の比喩」です。

「アートマンを馬車の主人(所有者)と知れ。身体を馬車と知れ。理性を御者と知れ。心をたづなと知れ。感覚器官どもを馬と知れ。感覚の対象を、馬たちの進む道と知れ。」

この比喩は、私たちの内的な構造を見事に描き出しています。感覚という馬たちは、常に外の世界にある魅力的な対象(道)へと暴走しようとします。心がたづなとなってそれを制御しようとしますが、御者である理性がしっかりしていなければ、馬車は道を踏み外し、崖から転落してしまうかもしれません。しかし、最も重要なのは、この馬車の旅の目的を定め、どこへ向かうべきかを知っている「主人」、すなわちアートマンの存在です。アートマンこそが、この身体と心のすべての働きの究極的な目的であり、帰るべき場所なのです。この比喩は、アートマンが単なる静的な意識ではなく、私たちの人生の旅路を導く、能動的な主体であることを教えてくれます。

 

「個我(アハンカーラ)」と「真我(アートマン)」の決定的な違い

ウパニシャッドが指し示すアートマンを理解する上で、私たちが日常的に「私」と呼んでいるものとの区別を明確にすることが不可欠です。この日常的な自我意識を、サンスクリット語では「アハンカーラ(ahaṃkāra)」と呼びます。「アハン(ahaṃ)」は「私」、「カーラ(kāra)」は「為すこと」を意味し、「私が為す者」という観念、つまりエゴや個我を指します。

アハンカーラは、私たちの名前、性別、年齢、職業、社会的地位、性格、過去の記憶、未来への希望といった、様々な属性の寄せ集めによって形成されています。それは、他者との比較や社会的な役割の中で常に変動し、傷つき、喜び、悩む、相対的な存在です。私たちはこのアハンカーラを自分自身だと固く信じ込んでいますが、ヴェーダ哲学の視点から見れば、それはアートマンという純粋なスクリーンの上に映し出された、移ろいゆく映像に過ぎません。

縁側に座って庭を眺めているとしましょう。庭には美しい花も咲けば、枯れ葉が舞うこともあります。鳥がさえずる時もあれば、嵐が吹き荒れることもある。アハンカーラとは、この庭の出来事一つひとつに一喜一憂し、「私が花を咲かせた」「嵐が私を苦しめる」と考える庭師のようなものです。一方、アートマンは、その庭のすべての変化を、ただ静かに見守っている縁側そのもの、あるいはその空間そのものと言えるかもしれません。花が咲いても、嵐が来ても、縁側そのものが本質的に変化することはありません。

アハンカーラに完全に自己同化している状態が、苦しみの根源(ドゥッカ、duḥkha)であるとヨーガや仏教では考えます。自分の価値を肩書きや財産、他者からの評価といった不確かなものに依存させているため、それらが失われることを常に恐れ、心が安らぐ時がないのです。アートマンの探求とは、このアハンカーラという仮の自己から距離を置き、その背後にある不変の実在、真の自己(真我)に気づくプロセスに他なりません。それは、自分という存在の拠り所を、揺れ動く波の上から、静かで広大な海の底へと移すような、根本的な意識のシフトなのです。

 

梵我一如:宇宙の魂と個人の魂は一つである

さて、ここからがウパニシャッド哲学のクライマックスです。賢者たちは、自らの内なる探求によってアートマンという究極の自己を発見しましたが、彼らの探求はそこで終わりませんでした。彼らは同時に、この現象世界の背後にある宇宙の根本原理、万物を生み出し、支え、そして還っていく究極の実在についても思索を巡らせました。そして、それを「ブラフマン(Brahman)」と名付けました。

そして、彼らが到達した最も革命的で、最も深遠な結論。それが、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」、すなわち「ブラフマンとアートマンは、本質において同一である」という思想です。

これは、驚くべき宣言です。あなたの内なる最も深いところにある「真の自己(アートマン)」と、この広大な宇宙を貫く「根本原理(ブラフマン)」は、別々のものではなく、完全に一つだというのです。先ほどのチャンドーギャ・ウパニシャッドの「タット・トゥヴァム・アシ(それが汝である)」という言葉は、まさにこの梵我一如の真理を凝縮したものです。「それ(That)」とは宇宙の根源であるブラフマンを指し、「汝(Thou)」とは個人の本質であるアートマンを指しています。

この関係は、しばしば海と波、あるいは壺の中の空間と外の空間に喩えられます。

海には無数の波が立ちます。一つひとつの波は、形も大きさも現れる時間も異なります。波は「私は他の波とは違う」という個性(アハンカーラ)を持っています。しかし、そのすべての波の本質は何かと問えば、それは「水」という一つの実在です。波は、海(ブラフマン)という広大な水から一時的に現れた形態(アートマン)に過ぎず、その本質は海そのものなのです。

また、一つの壺があるとします。壺の中には空間があり、壺の外にも無限の空間が広がっています。私たちは壺の中の空間と外の空間を区別していますが、もし壺が割れたらどうなるでしょうか?中の空間は外の空間と一つになり、もはや区別はなくなります。壺という肉体や心(アハンカーラ)によって「個別の私」として限定されているように見えるアートマンも、その本質は、宇宙全体に広がるブラフマンという無限の意識の空間と何ら変わりはないのです。

この梵我一如の思想がもたらす解放感は、計り知れません。私たちは孤独で、有限で、ちっぽけな存在ではありません。私たち一人ひとりの内には、宇宙全体を支えるのと同じ、無限で、永遠で、至福に満ちた実在が、アートマンとして脈打っているのです。この事実に気づくこと、それを知的に理解するだけでなく、自己の存在の全体で体感することこそが、ウパニシャッドが指し示す究極の目標、「解脱(モークシャ、mokṣa)」なのです。

 

アートマンの探求を、現代に生きる

では、このアートマンという古代の叡智を、私たちは現代の生活の中でどのように活かすことができるのでしょうか。アートマンの探求は、書物を読むだけの知的な遊戯ではありません。それは、ヨーガや瞑想といった具体的な実践を通して、自らの身体と心で体験していくものです。

パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』が説く八支則は、まさにアートマン探求のための実践的なロードマップです。アーサナ(坐法)によって身体を安定させ、プラーナーヤーマ(呼吸法)によって生命エネルギーの流れを整え、プラティヤハーラ(制感)によって意識を外の世界から内側へと引き戻す。そうして静まった心で、ダーラナー(集中)、ディヤーナ(瞑想)と深めていくことで、私たちはアハンカーラという心のさざ波を鎮め、その奥にあるアートマンの静寂な輝きに触れることができるのです。

たとえば、アーサナの実践中に、身体の微細な感覚に意識を集中させてみてください。筋肉の伸び、関節の動き、呼吸の深まり。その感覚を観察している「意識」は、筋肉や関節そのものではありません。その「観察している意識」こそが、アートマンの現れの入り口です。

また、瞑想の中で「私とは誰か?」と静かに問い続けてみるのも良いでしょう。心に浮かんでくる答え、「私は〇〇という名前だ」「私はこの仕事をしている」といったものを、一つひとつ「これは移ろいゆく属性であり、真の私ではない」と手放していく。そうして思考の層を通り抜けた先に、言葉になる以前の、ただ「在る」という純粋な存在感、純粋な意識が残ります。それが、あなたのアートマンの感触です。

しかし、この道は一人では困難なことが多いかもしれません。だからこそ、ウパニシャッドは師(グル)と弟子の対話という形式を重んじました。アートマンの真理は、単なる情報として伝達されるものではなく、師という生きた手本を通して、そのあり方、呼吸、沈黙の中から、身体的に、実感として伝わるものなのです。信頼できる師や仲間と共に探求する共同体の存在は、この深遠な旅において、何よりの支えとなるでしょう。

 

むすびにかえて

アートマンの探求は、古代インドで始まりましたが、それは時空を超えた普遍的な人間の旅です。「私」という存在の神秘の扉を開け、その最も奥深い核へと向かう旅。それは、自分という小さな殻を破り、宇宙的な広がりのうちに自己を再発見する、壮大な冒険に他なりません。

私たちが日常生活の中で、ふと立ち止まり、縁側から空を見上げる瞬間。夕焼けの美しさに心を奪われる瞬間。深い呼吸と共に、ただ「今、ここに在る」と感じる瞬間。そうした静寂の中にこそ、アートマンのささやきは聞こえてきます。

この章を読み終えたあなたが、自らの内に眠る、広大で、静かで、光に満ちたアートマンの存在に、少しでも思いを馳せるきっかけとなれば、それに勝る喜びはありません。あなたの内なる宇宙の探求が、豊かで実り多きものとなりますように。

 

 

ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。

 

 


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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。