私たちがふと夜空を見上げ、満点の星々の輝きに圧倒されるとき、あるいは静かな森の奥で、生命の息吹に満ちた静寂に包まれるとき、心の奥底から素朴で、しかし根源的な問いが湧き上がってくるのを感じたことはないでしょうか。
「この世界は、一体どこから来たのだろう?」
「この私という存在の、本当の正体は何なのだろう?」
「移ろいゆく万物の背後に、何か変わらない絶対的なものは存在するのだろうか?」
これらの問いは、古今東西のあらゆる哲学や宗教が挑んできた、人類の最も深遠なテーマです。そして、古代インドの叡智の宝庫であるウパニシャッドの哲人たちが、この問いに対して驚くほど深く、大胆な思索の末にたどり着いた答え、それが「ブラフマン(Brahman/梵)」という概念でした。
この章では、ウパニシャッド哲学の核心であり、インド思想全体の基盤とも言えるこの「ブラフマン」について、その深遠な世界を旅していきたいと思います。それは、単に古代の神様の名前を覚えることではありません。ブラフマンというレンズを通して世界を眺めるとき、私たちの日常、私たち自身の存在、そして宇宙全体が、まったく新しい光に照らし出されるのを体験する、知的な冒険の始まりなのです。
もくじ.
言葉の変容:祈りの力から宇宙の根源へ
「ブラフマン」という言葉は、ウパニシャッドの時代に突如として現れたわけではありません。そのルーツは、さらに古いヴェーダの時代、神々への賛歌と祭祀儀礼が中心だった頃にまで遡ります。
ヴェーダの祭儀において、「ブラフマン」という言葉は、もともと「聖なる言葉」や「祈りの力」、あるいは祭官が唱えるマントラ(呪文)に宿る神秘的な力を指していました。祭儀が宇宙の秩序(リタ)を維持するための重要な営みであった当時、それを動かすマントラの力、すなわちブラフマンは、神々をも動かすほどの強大なエネルギーだと考えられていたのです。それは、具体的な神格というよりも、儀式を儀式たらしめる根源的な「効力」や「聖性」そのものでした。
しかし、時代が下り、ウパニシャッドの哲人たちが登場する頃になると、インド思想の世界に大きなパラダイムシフトが起こります。人々の関心は、外的な祭祀儀礼そのものから、その儀礼が象徴する内面的な真理の探求へと向かい始めました。神々への賛歌や供物を捧げること以上に、「そもそも、この宇宙を成り立たせている根本原理とは何か?」という、より本質的な問いが立てられるようになったのです。
この思想的転換の中で、「ブラフマン」という言葉もまた、その意味を大きく変容させ、深化させていきます。かつて祭儀の「力」を意味したこの言葉は、やがて祭儀を含むこの宇宙の森羅万象すべてを生み出し、支え、そして最後には帰滅させる、究極的かつ根源的な「実在」そのものを指す言葉へと昇華されたのです。それは、言葉の意味が時代と共に「成長」した、思想史におけるダイナミックな瞬間でした。外面的な力から内面的な真理へ、そして宇宙全体の根本原理へ。ブラフマンという言葉の旅路そのものが、インド思想の発展の軌跡を物語っていると言えるでしょう。
それではない、それではない:ネーティ・ネーティの智慧
では、その宇宙の根本原理であるブラフマンとは、一体どのようなものなのでしょうか。ウパニシャッドの賢者たちは、この問いに正面から答えようとしますが、すぐに大きな壁に突き当たります。それは「言葉の限界」という壁です。
私たちが普段使っている言葉は、必ず何かを「限定」します。「これは机だ」と言った瞬間、それは椅子ではなく、本でもなく、他のあらゆるものではない、という限定が生まれます。私たちの認識は、このように対象に名前(ナーマ)と形(ルーパ)を与え、他と区別し、分類することで成り立っています。
しかし、ブラフ-マンは、この世界のあらゆるものの根源であり、それ自身は特定の名前や形を持ちません。もし「ブラフマンは〇〇である」と定義しようとすれば、その瞬間に〇〇以外の可能性を排除してしまい、無限であるはずのブラフマンを有限なものへと貶めてしまうことになります。それは、大海の全体像を語ろうとして、掌にすくった一滴の水を「これが海だ」と言い切ってしまうようなものです。
この言語的ジレンマに直面した賢者たちは、驚くべきアプローチを編み出しました。それが「ネーティ、ネーティ(neti, neti)」という有名な教えです。これはサンスクリット語で「(それ)ではない、(それ)ではない」という意味です。
「それは粗大でもなく、微細でもなく、短くもなく、長くもない。赤くもなく、湿り気もなく、影もなく、闇でもない。風でもなく、空(くう)でもなく、味もなく、香りもない。目も耳も、言葉も心も、光も呼吸も持たない…」
(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』より意訳)
このように、ウパニシャッドは、ブラフマンが「何であるか」を直接的に語るのではなく、「何ではないか」を徹底的に突き詰めていくのです。それは、私たちが感覚で捉えたり、思考で理解したりできる、ありとあらゆる対象を一つひとつ否定していく作業です。この消去法の果てに、もはや否定しようのない何か、全ての限定を超えてただ「在る」ものとして残るもの、それこそがブラフマンなのだと示唆するのです。
この「ネーティ、ネーティ」は、単なる消極的な表現ではありません。それは、私たちの日常的な認識の枠組みを一度解体し、思考や感覚が及ばない領域へと心を導くための、極めて積極的で洗練された瞑想的な手法です。それはまるで、玉ねぎの皮を一枚一枚剥いていく作業に似ています。皮を剥き続けても、最後に「これが芯だ」というものは出てきません。しかし、その剥いていくプロセスそのものを通して、私たちは玉ねぎという存在の本質に近づいていくのです。ブラフマンの探求とは、まさにそのような知性の旅なのです。
存在・意識・歓喜:サット・チット・アーナンダの輝き
「ネーティ、ネーティ」という否定的アプローチがブラフマンの超越性を強調する一方で、ウパニシャッドや、その後のヴェーダーンタ哲学は、その本質を肯定的に表現する言葉も見出しました。それが「サット・チット・アーナンダ(Sat-Cit-Ānanda)」という三つの言葉です。これはブラフマンの定義ではありません。むしろ、人間がその究極の実在を垣間見たときに感じられる、三つの側面、三つの輝きと理解するのが適切でしょう。
サット(Sat)- 純粋存在
サットとは「存在」を意味します。しかし、これは私たちが普段目にする「机が存在する」「木が存在する」といった、相対的で移ろいゆく存在とは異なります。あらゆるものが生まれ、変化し、やがては滅んでいく現象世界の背後で、それら全ての存在を「存在せしめている」、永遠不変の「在ること」そのものです。それは、あらゆる形をとりうる粘土のようなものであり、波が生まれては消える大海そのものです。波の形は刻一刻と変わりますが、その本質である「水」は変わりません。サットとは、この宇宙の根源的な素材であり、決してなくならない絶対的な実在性を指します。
チット(Cit)- 純粋意識
チットとは「意識」や「知」を意味します。これもまた、「私が何かを意識する」というような、主観と客観に分かれた相対的な意識ではありません。それは、あらゆるものを照らし出す光のような、純粋な「気づき」そのものです。ブラフマンは、単に存在するだけの物質的な塊ではなく、それ自体が意識であり、知性であると考えられました。この宇宙の創造や秩序は、盲目的な力によって偶然生まれたのではなく、根源的な意識、つまりチットの働きによるものだと捉えられたのです。それは、太陽が自らの光で自身と他の一切を照らすように、全てを認識する根源的な覚醒の光です。
アーナンダ(Ananda)- 純粋歓喜
アーナンダは「歓喜」や「至福」と訳されます。私たちが日常で経験する喜びは、何かの対象に依存しており、必ずその反対の苦しみとセットになっています。美味しいものを食べた喜びは、やがて消え、また食べたくなります。しかし、アーナンダは、そのような相対的な快楽ではありません。それは、何にも依存しない、それ自体で完全無欠な絶対的な至福です。ブラフマンの本質は、欠乏感や苦悩から完全に解放された、完全な充足であり、喜びそのものであるというのです。宇宙の根源が、ただ存在するだけでなく、意識であり、そして歓喜に満ちている。これは、なんと希望に満ちた世界観でしょうか。
サット・チット・アーナンダ。それは、ブラフマンが永遠の「存在」であり、全てを照らす「意識」であり、そして無限の「歓喜」であることを示しています。この三つは別々のものではなく、一つの実在の三つの側面に他なりません。ダイヤモンドがどの角度から見ても光り輝くように、ブラフマンという究極の実在は、存在・意識・歓喜として顕現するのです。
蜘蛛と糸、土と土器:万物の源としてのブラフマン
では、その一なるブラフマンから、なぜこのように多様性に満ちた現象世界が生まれてくるのでしょうか。ウパニシャッドは、この創造のメカニズムを、身近で美しい比喩を用いて説明しています。
最も有名なものの一つが「蜘蛛と糸の比喩」です。
蜘蛛は、自分以外の外部の材料からではなく、自らの体の中から糸を吐き出して精巧な網を作り上げます。そして、不要になれば、その網を再び自分の中へと回収します。これと同じように、ブラフマンは、自らの中からこの宇宙(世界という網)を展開し、一定期間それを維持し、そして終末の時には再び自らの中へと吸収してしまう、と説きます。
この比喩の重要な点は、創造主(蜘蛛)と被造物(網)が、元は同じ一つのものであるということです。西洋の多くの神話のように、神が外部の混沌とした素材から世界を「創造(create)」したのではなく、ブラフマンは自らを素材として世界に「顕現(manifest)」するのです。つまり、この世界に存在するありとあらゆるものは、ブラフマンの一部であり、ブラフマンそのものなのです。
もう一つ、重要な比喩が「土と土器の比喩」です。
一つの塊の土から、壺や皿、水差しなど、様々な名前と形を持つ土器が作られます。私たちはそれらを別々のものとして認識し、区別して使います。しかし、その本質を問えば、それらは全て「土」に他なりません。形や名前は一時的な仮の姿であり、壊れればまた元の土に還ります。
これと同様に、人間、動物、植物、山や川といった、この世界の多様な存在は、すべて異なる名前と形(ナーマ・ルーパ)を持っていますが、その根源的な本質においては、すべて一なるブラフマンなのだ、とウパニシャッドは教えます。私たちが目にしている多様性は、究極的な実在であるブラフマンの上に描かれた、一時的な模様のようなものなのです。
これらの比喩が示すのは、徹底した「一元論」の世界観です。神と世界、創造主と被造物、そして精神と物質といった二元論的な対立を乗り越え、全ては根源において一つ(エーカム)であるという思想。これがブラフマンという概念の核心であり、インド思想の最もユニークで深遠な点なのです。
ニルグナとサグナ:絶対者への二つの道
ブラフマンの探求をさらに深めていくと、後代の哲学者たちが整理した、二つの重要な側面に行き着きます。それは「ニルグナ・ブラフマン」と「サグナ・ブラフマン」です。
ニルグナ・ブラフマン(Nirguna Brahman)
「ニルグナ」とは「属性(グナ)を持たない」という意味です。これは、先ほど「ネーティ、ネーティ」で探求した、一切の限定や性質を超えた、純粋で絶対的なブラフマンを指します。それは、人格も形も持たず、人間の思考や言葉では到底捉えることのできない、究極の哲学的真理としての実在です。これは、知識(ジュニャーナ)の道、すなわち哲学的な思索や瞑想を通してのみ到達できる境地とされます。
サグナ・ブラフマン(Saguna Brahman)
一方、「サグナ」とは「属性を持つ」という意味です。これは、究極的には無属性であるブラフマンが、私たちの認識や信仰のために、特定の属性や人格を持った姿で現れたものを指します。宇宙の創造主、維持者、破壊者としての人格神(例えば、ヴィシュヌやシヴァといった神々)や、慈悲や力といった優れた属性を持つ神聖な存在、これを「イーシュヴァラ(Īśvara/自在神)」と呼びます。
サグナ・ブラフマンは、人々が祈り、信じ、愛することができる、信仰(バクティ)の対象となります。
なぜ、このように二つの側面を立てる必要があったのでしょうか。それは、人間の認識能力には限界があるからです。いきなり「全てを超えた、言葉で表現できない絶対者」と言われても、多くの人にとってはあまりに抽象的で、どのように関われば良いのか分かりません。そこで、その絶対者が、私たちの理解できる範囲で、人格的な神の姿をとって現れてくれる、と考えたのです。
それは、山の頂上(ニルグナ)を目指すために、麓からつけられた登山道(サグナ)のようなものです。道は頂上そのものではありませんが、道を通らなければ頂上にはたどり着けません。サグナ・ブラフマンへの信仰や祈りは、最終的にニルグナ・ブラフマンという究極の真理を悟るための、有効なステップであると位置づけられたのです。
この二つの側面を理解することは、インドの多様な神々への信仰と、その背後にある深遠な一元論哲学とが、矛盾なく共存している理由を解き明かす鍵となります。
結び:ブラフマンの叡智を、今を生きる力に
ここまで、ブラフマンという壮大な概念の海を旅してきました。それは、単なる古代インドの哲学思想にとどまるものではありません。この叡智は、情報が氾濫し、価値観が多様化し、そして多くの人々が孤独や不安を感じながら生きる現代においてこそ、力強い羅針盤となりうる可能性を秘めています。
私たちが自分という存在を、孤立した小さな個だと感じるとき、ブラフマンの思想は「汝は宇宙の根源そのものである」と語りかけます。
私たちが他者との違いに悩み、対立するとき、その思想は「全ての多様性は、一つの実在の現れにすぎない」と教えてくれます。
私たちが自然を支配し、消費する対象だと考えるとき、その思想は「自然もまた、我々と同じブラフマンの顕現であり、我々自身の一部なのだ」と警告します。
ブラフマンを知ることは、頭で知識を詰め込むことではありません。それは、私たちの生き方、世界の捉え方を根本から問い直し、変容させていく実践の道です。日々のヨガや瞑想を通して、思考のさざ波が静まったとき、私たちは自分自身の内側に、あのサット・チット・アーナンダの静かな輝きを感じ取ることができるかもしれません。
さて、宇宙の究極原理であるブラフマンについて見てきました。しかし、ウパニシャッドの賢者たちは、もう一つの驚くべき探求へと向かいます。それは、外なる宇宙の探求から、内なる自己の探求への転回です。この「私」という存在の最も奥深くにある本質、「アートマン」とは何か。そして、そのアートマンと、宇宙の根源であるブラフマンとの間には、いかなる関係があるのか。
次の章では、このもう一つの核心、「アートマン」の世界へと、さらに深く分け入っていくことにしましょう。内なる宇宙の扉が、今、開かれようとしています。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


