ヴェーダの祭祀が宇宙の外的秩序を維持するための壮大な試みであったとすれば、ウパニシャッドの哲人たちは、その探求のベクトルを180度転換させ、内なる宇宙の深淵へと向かいました。彼らの胸中に燃え盛っていたのは、一つの根源的な問いでした。「私とは、一体何者なのか?」そして「この世界の本当の姿とは、どのようなものなのか?」と。この二つの問いが、あたかも二本の川が合流して大河となるように、やがて一つの巨大な思想の奔流、すなわち「梵我一如(ぼんがいちにょ)」へと結実していくのです。
この言葉は、ウパニシャッド哲学の、そしてインド思想全体の頂点を成す概念であり、その後のインドの精神文化を根本から規定するほどの力を持っていました。梵我一如とは、端的に言えば「宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と、個人の本質であるアートマン(我)は、本来一つである」という深遠な真理を指し示します。
この思想は、単なる哲学的な思弁に留まりません。それは、私たちが抱える根源的な孤独感や分離感、生と死への恐怖から解放されるための、実践的な叡智の光でもあります。これから、この叡智の光がどのように灯されたのか、ブラフマンとアートマンという二つの概念を丁寧に解きほぐしながら、その核心へと旅を進めてまいりましょう。
2.4.1 ブラフマン:宇宙の根源、究極の実在、万物の源
「ブラフマン(Brahman)」という言葉を理解することは、ウパニシャッド哲学の扉を開くための最初の鍵となります。この言葉は、ヴェーダ時代から存在していましたが、その意味は時代と共に深化し、変容を遂げてきました。
初期のヴェーダにおいては、ブラフマンは神々への賛歌や祭祀で唱えられる「聖なる言葉(マントラ)」そのもの、あるいはその言葉に宿る神秘的な力を指していました。祭官たちが正しい発音でマントラを唱えるとき、そこに宇宙を動かすほどの力が発現すると信じられていたのです。やがて、その力は祭儀全体を支える原理へと拡大し、ついにはウパニシャッドの時代に至って、宇宙全体を創造し、維持し、そして最終的に帰滅させる、究極的かつ根源的な実在を意味するようになりました。
では、このブラフマンとは、具体的にどのようなものでしょうか。ウパニシャッドの賢者たちは、それが私たちの五感や思考能力で捉えられるような対象ではないことを繰り返し強調します。それは、形も、名前も、属性も超えた存在です。そのため、しばしば否定的な表現、すなわち「ネーティ、ネーティ(na iti, na iti)」――「これではない、これではない」という言葉でしか指し示すことができません。あなたが「ブラフマンとは〇〇だ」と定義しようとした瞬間、それはもはやブラフマンではなくなってしまう。なぜなら、定義されたものは有限であり、ブラフマンは無限だからです。
しかし同時に、ウパニシャッドはブラフマンを肯定的に「サット・チット・アーナンダ(Sat-cit-ānanda)」と表現します。
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サット(Sat):純粋な「存在」。あらゆるものが移ろい、変化し、消滅していく中で、永遠に変わることなく「在り続ける」絶対的な実在性。
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チット(Cit):純粋な「意識」。それは何かを対象とする意識ではなく、それ自身が光であるような、対象を持たない純粋な覚醒、知性。
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アーナンダ(Ānanda):純粋な「歓喜」。苦しみや悲しみといった相対的な感情を超えた、絶対的で無条件の至福、満ち足りた状態。
これを、大海原に喩えてみましょう。海面には無数の波が立ち、それぞれが異なる形、大きさ、動きを持っています。私たちは普段、この個別の「波」ばかりを見て、それらを別々の存在として認識しています。しかし、そのすべての波を生み出し、その本質を成しているのは、広大で深遠な「海」そのものです。この海こそがブラフマンです。波(個物)は海から生まれ、海の中でその生を全うし、やがて海へと還っていく。海を離れて波が存在し得ないように、ブラフマンを離れてこの宇宙の森羅万象は存在し得ないのです。
ブラフマンは、この世界のあらゆるものの「内」にも「外」にも遍満しています。それは、壺の素材である粘土のように、すべての創造物の質料因であり、同時に壺を作る陶工のように、その創造の動因でもあります。この世界はブラフマンから生まれ、ブラフマンによって維持され、ブラフマンへと還っていく。ウパニシャッドの世界観において、ブラフマンはすべての始まりであり、終わりであり、そしてそのすべてを貫く唯一の実在なのです。
2.4.2 アートマン:個我、魂、ブラフマンと同一の存在
ブラフマンが宇宙的、客観的な原理であるならば、「アートマン(Ātman)」は個人的、主観的な原理に対応します。アートマンはしばしば「個我」「真我」「魂」などと訳されますが、その本質を正確に捉えるのは容易ではありません。
ウパニシャッドの賢者たちは、私たちにこう問いかけます。「『私』とは一体、何を指しているのか?」と。私たちは普段、自分の身体を「私」だと思っています。あるいは、自分の感情や思考、記憶、名前、社会的地位などを「私」というアイデンティティの拠り所としています。しかし、本当にそうでしょうか?
身体は刻一刻と変化し、老い、やがて滅びます。感情は天気のように移ろいやすく、思考はとめどなく流れ去っていきます。記憶でさえ、曖昧になったり失われたりすることがあります。もしこれらが真の「私」であるならば、「私」とはなんと儚く、不確かな存在なのでしょう。
ウパニシャッドは、これらすべてを「私ではない」と看破します。身体や心、感情、知性などは、アートマンを覆う「鞘(コーシャ)」のようなものに過ぎないと言います。例えば、「五鞘説(パンチャコーシャ)」では、私たちの存在は以下の五つの層から成ると説かれます。
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食物所成鞘(アンナマヤ・コーシャ):物質的な肉体。
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生気所成鞘(プラーナマヤ・コーシャ):呼吸や生命エネルギー(プラーナ)の層。
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意識所成鞘(マノーマヤ・コーシャ):感覚や感情を司る心(マナス)の層。
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理知所成鞘(ヴィジュニャーナマヤ・コーシャ):判断や知性を司る理智(ブッディ)の層。
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歓喜所成鞘(アーナンダマヤ・コーシャ):深い喜びや至福を感じる層。
私たちが「私」だと思っているものは、これらの鞘のいずれか、あるいはその複合体に過ぎません。しかし、これらの鞘の最も奥深く、玉ねぎの芯のように中心に鎮座しているのが、真の自己であるアートマンです。
アートマンは、これらの鞘のように変化したり、影響を受けたりすることのない、純粋な観察者であり、純粋な意識そのものです。それは、あらゆる経験の主体でありながら、経験される対象ではありません。映画のスクリーンに様々な映像が映し出されても、スクリーン自体は何も影響を受けないように、アートマンは喜びや悲しみ、成功や失敗といった人生の出来事をただ照らし出す光であり、それらの出来事によって汚されることのない永遠の証人(サークシン)なのです。
再び大海原の比喩に戻るなら、アートマンは大海から掬い取られた一滴の水のようなものです。その一滴の水(アートマン)は、見た目には大海(ブラフマン)から分離した個別の存在に見えます。しかし、その化学的組成、その本質は、大海とまったく同じです。私たちが「私」と呼んでいるこの存在の本質は、宇宙の根本原理であるブラフマンと何ら変わるところがない。ウパニシャッドの賢者たちは、この驚くべき結論に到達したのです。
2.4.3 「汝自身を知れ」:内なるブラフマンに目覚める
「ブラフマンとアートマンは、本質において同一である」。これが、梵我一如の思想の核心です。この真理は、ウパニシャッドの中で、マハーヴァーキヤ(Mahāvākya)と呼ばれる四つの偉大な聖句によって、力強く宣言されています。中でも特に有名なのが、次の二つです。
「タット・タヴァム・アシ」(Tat Tvam Asi)- それが汝である
この言葉は、『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』第六章に登場する、父ウッダーラカ・アールニが息子シュヴェータケートゥに真理を説く場面で繰り返し語られます。ヴェーダの学問を修めて意気揚々と帰ってきた息子に対し、父は「それ一つを知ることによって、未だ聞かれざるものが聞かれ、未だ考えられざるものが考えられ、未だ知られざるものが知られるようになる、あの教えを問うたか?」と尋ねます。息子がその教えを知らないと答えると、父は様々な比喩を用いて、宇宙の根源である「有(サット)」、すなわちブラフマンが、いかにしてすべてのものの本質として存在しているかを説き明かしていきます。
そのクライマックスとも言えるのが、「塩水の比喩」です。父は息子に、塩の塊を水の中に入れ、翌朝持ってくるように言います。翌朝、息子が水を持ってくると、塩は溶けて見えなくなっています。父は尋ねます。「塩はどこにある?」。息子は見つけられません。そこで父は、その水の上澄みを舐めさせ、中ほどを舐めさせ、底を舐めさせます。息子は、どこを舐めても塩辛いことを確認します。
そこで父は、決定的な言葉を告げます。
「わが子よ。まさにそのように、この身体の中に『有』は存在しているのだ。だが、汝はそれを見ることができない。存在するあらゆるものは、この最も微細なるものを本質としている。それが実在であり、それがアートマンである。タット・タヴァム・アシ(それが汝である)、シュヴェータケートゥよ」
ここでの「それ(タット)」とは、目には見えずとも水全体に浸透している塩の本質、すなわち宇宙の根本原理ブラフマンを指します。そして「汝(タヴァム)」とは、息子シュヴェータケートゥ、すなわち個人の本質であるアートマンを指します。「である(アシ)」という断定の言葉は、この二つが別物ではなく、完全に同一であることを示しています。
この教えは、私たちの認識に根源的な転換を迫ります。私たちは自分自身を、他者や世界から切り離された、皮膚という境界線に囲まれた孤独な存在だと感じています。しかし、この聖句は、その認識こそが「無知(アヴィディヤー)」のなせる業であり、真実はその逆であると告げるのです。あなたの本質は、この小さな身体や心に限定されるものではなく、宇宙全体に遍満する根源的な実在そのものなのだ、と。
「アハム・ブラフマースミ」(Aham Brahmāsmi)- 我はブラフマンなり
もう一つの重要な聖句が、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』に見られる「アハム・ブラフマースミ」です。これは、「タット・タヴァム・アシ」が師から弟子へ与えられる客観的な教えであるのに対し、探求者が自らの内面で直接的に体験し、悟った真理を主観的に表明する言葉です。
「我(アハム)」すなわち私のアートマンが、「ブラフマンなり(ブラフマースミ)」と、何の疑いもなく直覚する境地。それは、もはや知的理解のレベルではありません。それは、大海に溶けた一滴の水が、「我は大海なり」と自覚するような、全存在を懸けた認識の変容です。
この気づきがもたらすものは、計り知れません。まず、あらゆる「恐怖」からの解放が訪れます。ウパニシャッドによれば、恐怖とは「第二のものの存在」から生まれるとされます。自分とは異なる他者や、自分を脅かす何かが「外」に存在すると思うからこそ、私たちは恐れるのです。しかし、「我はブラフマンなり」と悟った者にとっては、自分以外の「第二のもの」は存在しません。森羅万象すべてが、自らの顕現に他ならないからです。どこに敵がいるでしょうか? 何を恐れる必要があるでしょうか?
そして、根源的な「分離感」が消え去り、万物への愛と慈しみが生まれます。他者も、動物も、植物も、山や川でさえも、すべてがブラフマンという一つの実在の現れであり、自分自身と本質において同じであると知るならば、そこに憎しみや対立が生じる余地はありません。他者を傷つけることは、自分自身を傷つけることと同じになるのです。
この「梵我一如」の体得は、私たちの世界の見え方を、文字通り根底から覆します。それは、まるでモノクロの世界が突如として極彩色の世界に変わるような、あるいは、自分が舞台上の役者だと思っていたら、実は舞台そのものであり、観客であり、脚本家でもあったと知るような、衝撃的なパラダイムシフトです。
私たちが普段「私」と呼んでいるものは、大海の表面で一時的に形作られた「波」に過ぎません。その波としての個性を楽しみ、人生という舞台を演じることは素晴らしいことです。しかし、ウパニシャッドの叡智は、私たちがその波であると同時に、波を生み出している大海そのものであることを思い出させてくれます。この気づきを得たとき、波としての儚さや無力感は消え去り、大海としての永遠性、無限性、そして絶対的な安心感に包まれるのです。
この究極の自己知、「汝自身を知る」ことこそが、ウパニシャッド哲学が指し示す最高のゴールであり、輪廻の苦しみから解放される「解脱(モークシャ)」に他なりません。それは、どこか遠い場所へ行くことではなく、失われた何かを取り戻すことでもありません。それは、ただ、今ここにある本来の自己に目覚めること。そのための道筋を、ウパニ’シャッドの後の思想、特に次章で詳しく探求するヨガの実践が、より具体的に示していくことになるのです。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


