ヨガの実践を推奨しております。
それは、ヨガが単なる健康法ではなく、私たちが無意識に背負い込んでしまった重荷を、一つひとつ丁寧に下ろしていくための「引き算の技術」だからです。
私たちは日々、多くの荷物を背負って生きています。
仕事の責任、将来への不安、人間関係のしがらみ。
しかし、それら全ての荷物の中で、最も重く、最も厄介で、そして私たちを最も苦しめている荷物があります。
それが「私」という荷物です。
「私の」人生、「私の」成功、「私の」評価、「私の」痛み。
現代社会において、すべての文脈の主語は「私(I)」であることが求められます。
しかし、ヨガの深淵な教えは、そのベクトルを静かに逆転させます。
主語を「私」から離していくこと。
「私」という強固な殻を溶かしていくこと。
今日は、この少し難解ですが、人生を劇的に軽くするための智慧について、縁側で茶を啜るような静けさの中でお話ししたいと思います。
もくじ.
現代社会が強要する「私」という病
私たちは、「何者かにならなければならない」という強迫観念の中に生きています。
幼い頃から、「あなたの夢は?」「個性は何?」「自己実現をしましょう」と問われ続けます。
SNSを開けば、きらびやかな「私」を演出する競争が繰り広げられ、プロフィール欄には自分が何者であるかを証明するための言葉が並びます。
これは、いわば全員が「株式会社・私」の社長となり、その株価を上げるために奔走しているような状態です。
しかし、これはとてつもなく疲れることではないでしょうか。
なぜなら、主語が「私」である限り、世界で起こるすべての出来事が「自分への評価」や「自分への攻撃」として変換されてしまうからです。
誰かが不機嫌なのは、「私」が何かしたからかもしれない。
仕事がうまくいかないのは、「私」に能力がないからだ。
あの人が幸せそうなのは、「私」が負けているからだ。
「私」というフィルターを通すことで、世界は途端に敵対的な場所へと変わります。
現代人が抱える慢性的な疲労感や孤独感の正体は、この肥大化した自意識、つまり「エゴ(自我)」の重さにあると言っても過言ではありません。
資本主義は、このエゴを刺激することでモノを売りますが、ヨガはそのエゴを鎮めることで安らぎを得ようとします。
アハンカーラ(我慢)の罠に気づく
ヨガ哲学には、「アハンカーラ(Ahamkara)」という言葉があります。
これは「私を作るもの」、すなわち「自我意識」や「エゴ」を指します。
アハンカーラ自体が悪者というわけではありません。私たちが個体として社会生活を営む上では、必要な機能です。
しかし問題は、私たちがこのアハンカーラと完全に同一化してしまい、「これが本当の自分だ」と信じ込んでしまっていることです。
海に浮かぶ波を想像してみてください。
波は、海そのものです。しかし、ある一つの波が「私は他とは違う、独立した波だ!」「あの波よりも高くありたい!」「消えてなくなりたくない!」と思い込んだとしたらどうでしょう。
その波は、他の波と競争し、いずれ海岸で砕け散ることに恐怖を感じ、苦しみ続けることになります。
自分が「海そのものである」という事実を忘れているからです。
私たちも同じです。
本来、生命という大きな流れの一部であるにもかかわらず、「私」という小さな枠組みに固執することで、全体からの分離感(孤独)を生み出しています。
ヨガが目指す「結合(Union)」とは、この勘違いから目覚め、自分が海の一部であったことを思い出すプロセスなのです。
「行為」はあるが、「行為者」はいない
では、具体的にどうすれば「私」を手放せるのでしょうか。
そのヒントは、日々の行動の「文法」を変えることにあります。
私たちは通常、「私が、呼吸をする」「私が、歩く」「私が、仕事をする」と考えます。
しかし、深く観察してみてください。
呼吸は、「私」が意志を持ってコントロールしているものでしょうか?
寝ている間も、意識がない間も、呼吸は「起こって」います。
心臓の鼓動も、血液の循環も、消化活動も、すべては自然の摂理によって「行われて」いるものです。
「私がやっている」と思っていることの99%は、実は「生命の働きによってなされている」ことなのです。
ヨガの聖典『バガヴァッド・ギータ』では、これを「カルマ・ヨガ(行為のヨガ)」として説いています。
結果に執着せず、行為そのものに没頭すること。
それは、「私がやった」という所有権を放棄することです。
「私が部下を育てた」ではなく、「成長のプロセスが起こった」。
「私が作品を作った」ではなく、「私という管を通して作品が生まれた」。
主語を「私」から「現象」や「自然」、「神(あるいはサムシング・グレート)」へと明け渡していくのです。
すると、成功した時の傲慢さも、失敗した時の自己否定も、入り込む隙間がなくなります。
ただ、純粋な行為だけが残ります。
トランサーフィン的な「重要性」の解放
現代的な視点、あるいは量子力学的な視点からも見てみましょう。
「私が絶対にこれを成功させなければならない」と強く思う時、そこには過剰なエネルギーの偏り、すなわち「過剰ポテンシャル」が生まれます。
「私」の重要度が高すぎるのです。
世界はバランスを取り戻そうとするため、逆に物事がうまくいかないような力が働きます(平衡力)。
「私」という主語を薄くすることは、この過剰ポテンシャルを解消することに繋がります。
「どうしても私が幸せになりたい」と願うのではなく、「世界はもともと豊かな場所であり、私はその流れの中にいる」と信頼すること。
コントロールしようと必死に握りしめている手を、ふっと緩めること。
すると、皮肉なことに、今まで必死に追いかけても手に入らなかったものが、向こうから滑り込んでくるようになります。
これを「委ねる(サレンダー)」と言います。
諦めるのではありません。
川の流れに逆らって泳ぐのをやめ、流れに乗って進むことに決めるのです。
「私」という小さなボートのオールを捨てて、大きな流れに身を任せる勇気を持つことです。
透明なパイプになる練習
スピリチュアルなアドバイスとして、一つ提案があります。
自分自身を「透明なパイプ」だとイメージして生活してみてください。
良いアイデアが浮かんだら、「私がすごい」と思うのではなく、「パイプを通ってアイデアが降りてきた」と捉える。
誰かに親切にできたら、「私が優しい」のではなく、「パイプを通って愛が流れた」と捉える。
嫌なことを言われたら、パイプの中をただ風が通り抜けるように、その言葉をスルーさせる。
パイプには、何も詰まりません。
賞賛も批判も、成功も失敗も、すべては通り過ぎていく景色です。
ただ、そのパイプをいつも綺麗に掃除しておくこと(心身を整えておくこと)だけが、私たちの務めです。
「私」を主張し、何かをせき止めようとするから、苦しみが生まれます。
空っぽの竹のように、中を空洞にしておくのです。
すると、そこには良い風が吹き、美しい音が鳴り響きます。
最後に:あなたは世界そのものである
「私」という主語を手放していくと、自分が消えてなくなってしまうような恐怖を感じるかもしれません。
しかし、逆です。
小さな「私」という檻から出たとき、あなたは世界全体と繋がります。
他人の喜びが自分の喜びのように感じられ、木々の揺らぎや鳥の声が、自分の内側の出来事のように感じられるようになります。
それが、ヨガが教える「ワンネス(一元性)」の実感です。
あなたは、孤独な点ではありません。
全体という織物の中に織り込まれた、かけがえのない糸です。
肩の力を抜いてください。
「私」を証明しようとしなくて大丈夫です。
ただ、ここに在る。呼吸をしている。
それだけで、生命は完璧にその役割を果たしています。
その静かな安らぎの中で、今日という一日を過ごしてみませんか。
縁側から見える空は、今日も主語を持たずに、ただ青く広がっています。


