やりたいことがわからない「これじゃない、あれじゃない」を解消する東洋哲学と引き算の智慧

365days

「今の仕事や生き方は、どうもこれじゃない気がする。かといって、あれをやってみても何かが違う」

こうした漠然とした違和感や焦燥感を抱え、立ち止まってしまう人は現代社会において決して少なくありません。何をやっても心の底からの満足が得られず、「本当のやりたいこと」を探し求めてセミナールームを訪ねたり、自己啓発本を読み漁ったりする旅が続きます。しかし、どれほど外側の情報を集めても、喉の渇きが根本から癒えることはないのではないでしょうか。

この堂々巡りの正体は、あなたの意志の弱さや能力不足によるものではありません。その本質は、近代社会が巧みに作り出した「記号の消費」と「他人の欲望の模倣」の罠に、無意識のうちに巻き込まれている点にあります。

そして驚くべきことに、東洋思想の深遠な歴史を紐解けば、「これじゃない、あれじゃない」という葛藤そのものが、真の目覚めへの入り口であることが見えてくるのです。

 

「これじゃない、あれじゃない」と彷徨ってしまう根本原因

なぜ私たちは、どれほど新しい体験に飛び込んでも「これじゃない」と感じてしまうのでしょうか。その最大の原因は、「やりたいこと」という形のある正解が、世界のどこかに最初から転がっているという思い込みに起因しています。

私たちの脳内では、常に自動的なおしゃべり(思考のループ)が休むことなく続いています。この頭の声は、常に「現状の不足」を見つけ出し、「未来のどこか」に完璧な理想郷を投影する習性を持っているのです。

「あの資格を取れば満たされるはずだ」「あの仕事に就けば自由になれるはずだ」と期待を膨らませ、実際にそれを手にした瞬間、頭は早くも次の不足を探し始めます。これは東洋思想でいう「ラーガ(快楽への執着・渇望)」の果てしない循環に他なりません。

対象に対して「これが私の人生を劇的に変えてくれるはずだ」という過剰な期待や重みづけを置くほど、現実とのギャップに苦しむ結果となるでしょう。外側の現象に過度な幻想を抱いている限り、私たちは永遠に青い鳥を追い続ける旅人であり続けることになります。

 

古代インド哲学「ネーティ・ネーティ」の真実

ここで、今から数千年前に編纂された古代インドの哲学書『ウパニシャッド』に遺された、極めて重要な智恵に目を向けてみます。そこには「ネーティ・ネーティ(Neti Neti)」という、自己探求のための象徴的な教えが存在するのです。

サンスクリット語であるこの言葉は、直訳すると「これでもない、これでもない(あるいは、これにあらず、これにあらず)」という意味を持ちます。古代の探求者たちは、人間の本質である「真我(アートマン)」や宇宙の究極原理は、言葉や概念、目に見える形によって捉えることは不可能だと見抜いていました。

だからこそ彼らは、外側の条件をひとつひとつ否定していく「引き算の修行」を行いました。「身体は私ではない、感情も私ではない、社会的地位も、頭に浮かぶ思考も私ではない」と、偽りの自己を削ぎ落としていったのです。

すべてを否定し尽くした最後に残る、決して消えることのない純粋な意識こそが、本当の自己であると彼らは説きました。この視点に立つと、「これじゃない、あれじゃない」と違和感を抱いて手放す行為は、道に迷っている失敗体験ではありません。

むしろ、魂が余計な夾雑物を脱ぎ捨て、本質へと還ろうとしている神聖な浄化プロセスそのものだと言えるでしょう。

 

他人の欲望を生きる「模倣」から離れるミニマリズム

私たちは日々、知らず知らずのうちに「他人の欲望」を自らのやりたいことだと錯覚して生きがちです。SNSのタイムラインに流れてくる洗練された日常や、世間が称賛する華々しいキャリアという記号を眺め、それを手に入れることが幸福だと信じ込まされているに過ぎません。

他者が欲しがっているものを模倣して手に入れようとする衝動は、あなた自身の内側から湧き出た純粋な情熱ではないのです。それゆえに、苦労してそれを手に入れたとしても、心の奥底で「なんだかこれじゃない」という虚しさが込み上げてくるのは当然の帰結と言えるでしょう。

ミニマリズムの真髄とは、単に家具や衣服を捨てることではなく、こうした「他人の欲望や情報のガラクタ」を精神から削ぎ落とすことにあります。「何かを始めなければ」「何かを見つけなければ」と焦って足し算を重ねる生き方は、すでに満杯のコップにさらに泥水を注ぐような行為に等しいと言わざるを得ません。

本当に必要なのは、徹底的に余計なものを削ぎ落とし、心の中に静かな「余白(スペース)」を取り戻すことです。空白が生まれて初めて、底に沈んでいたあなた自身の微細な本音や、生命のささやきが水面に浮上してくるのではないでしょうか。

 

思考の自動ループから抜け出し、身体感覚へ帰還する

やりたいことが見えなくなる最大の障壁は、意識が完全に「頭(脳内の独り言)」に乗っ取られている状態にあります。過去への後悔や未来への不安を反芻する思考の世界に住んでいるとき、人間は現実をありのままに捉える力を失ってしまうのです。

頭でどれほど「自分の天職は何か」と論理的にこねくり回しても、エゴの損得勘定や恐れが邪魔をして、真実の答えには辿り着けません。この思考の暴走を鎮めるための最も確実な処方箋こそが、身体感覚への回帰に他ならないのです。

古代インドの聖者パタンジャリがまとめた『ヨーガ・スートラ』では、ヨガの目的を「心の働きを静止させること」と定義しました。頭に昇りすぎた過剰なエネルギーを、呼吸や足の裏の接地感、骨盤の重みといったリアルな身体感覚へと降ろしていく技術です。

EngawaYogaにおいて、身体をユルユルに緩めるワークや、ただ静かに在る瞑想(SIQAN)を重んじるのも、まさにこの身体知性の回復を目指しているからと言えます。重力に身を委ね、息を吐ききって全身の強張りをほどいていくと、頭の中の騒音はおのずと静まり返っていくでしょう。

身体が安心の感覚を取り戻したとき、私たちは「何かを焦って見つけ出さねばならない」という緊張状態から自然と解放されるのです。

 

『バガヴァッド・ギーター』に学ぶ自らの本分(スヴァダルマ)

東洋思想を深く学んできた人であれば、世界的な古典である『バガヴァッド・ギーター』における「スヴァダルマ」の教えをご存じかもしれません。スヴァダルマとは、自分自身の本分、あるいは天賦の役割を意味する言葉です。

作中において、主人公アルジュナに対して神クリシュナは、次のような極めて鋭い言葉を投げかけます。「他人のダルマ(義務や生き方)を上手に行うより、不完全であっても自分のダルマを行うほうがはるかに優れている」という教示です。

私たちは往々にして、他人が成功している道や、社会的に評価されやすい生き方を真似ようとして自滅しがちです。しかし、どれほど魅力的に見えても、他人の服を着て生きることは、魂にとって息苦しい苦行にしかなり得ないでしょう。

では、どうすれば自らのスヴァダルマを見出すことができるのでしょうか。その秘訣は、「行動の結果に対する執着(カルマの果実)」を手放すことにあると経典は説いています。

「成功するかどうか」「誰かに褒められるかどうか」という結果への囚われを捨て、今この瞬間に与えられたご縁や役割に全存在を注ぎ込むこと。大きな看板や劇的な使命を探す必要は毛頭ありません。

目の前の小さな掃除や、頼まれた仕事、誰かへのさりげない気配りといった行為そのものに純粋に溶け込むとき、スヴァダルマはおのずと形を現してくるのです。

 

何をするか(Doing)ではなく、どう在るか(Being):サントーシャの境地

現代社会は、私たちに絶え間ない「Doing(何を達成したか、何を持っているか)」を要求してきます。しかし、ヨガの根本思想が目指しているのは、純粋な「Being(いかに在るか)」の豊かさです。

ヨガ八支則の勧戒(ニヤマ)の中に、「サントーシャ(知足・足るを知る)」という教えが含まれているのをご存じでしょうか。サントーシャとは、現状に対する妥協や諦めを意味する言葉ではありません。

それは、「今、この瞬間の自分には、すでに必要なすべてが完璧に備わっている」という、命の源泉への絶対的な信頼を指す概念なのです。「何者かにならなければ愛されない」「何かを成し遂げなければ価値がない」という根深い欠乏感から出発する行動は、どのような成果を上げても心の渇きを癒せません。

なぜなら、欠乏を原動力にした行動は、さらなる欠乏の現実を引き寄せてしまうからです。反対に、足るを知り、いま満ち足りている安心感の中に深く根を下ろしたとき、世界の見え方は一変します。

焦りや恐怖からではなく、内側からあふれ出る余剰のエネルギーとして、純粋な好奇心や喜びが湧き上がってくるのを感じられるはずです。やりたいこととは、血眼になって「探す」対象ではなく、内なる静寂が深まった結果として自然と「あふれ出てしまう」現象と言えるでしょう。

 

終わりに:余計なものを手放した先に見える、静かな生命の衝動

「これじゃない、あれじゃない」と悩み苦しんできたこれまでの道のりは、決して無駄な寄り道ではありませんでした。それは、あなたが偽りの欲望や世間の刷り込みをひとつずつ脱ぎ捨て、魂の純粋な中心へと回帰するために必要なプロセスだったのです。

もはや、自分を何かで飾ろうとする足し算の旅を続ける必要はありません。いま手の中にあるスマートフォンを置き、背筋を優しく伸ばし、ふうっと深く息を吐き出してみてください。

頭の中でざわめいていた独り言がふっと途切れたとき、そこには微動だにしない静けさが横たわっていることに気づくはずです。その静寂の中に身を浸し、日々の生活を丁寧に味わうことから、すべてを新しく始めてみましょう。

あなたが何者かになろうとする緊張を手放した瞬間、生命本来の濁りのない衝動が、あなたという存在を軽やかに動かし始めてくれるに違いありません。