「正しさ」という鎧を着込んで、息苦しくなってはいませんか?
世の中には「正しい人」がたくさんいます。
ニュースを見ても、SNSを見ても、職場でも、家庭でも。
論理的で、道徳的で、ルールを守り、一分の隙もない正論を述べる人たちです。
しかし、不思議なことに、「正しい人」の周りに人が集まるとは限りません。
むしろ、その正しさが鋭い刃物となって、周囲を緊張させ、時には傷つけてしまうことさえあります。
一方で、「楽しい人」がいます。
決してふざけているわけではありません。
でも、その人がいるだけで場の空気がふっと緩み、なぜか物事がスムーズに進んでいく。
私たちは本能的に、正しい人よりも、楽しい人のそばにいたいと願うものです。
今日は、私たちが目指すべき「ヨガ的な在り方」として、正しさという重荷を下ろし、楽しさという軽やかさを纏うことについて書いてみたいと思います。
ただし、ここで一つ釘を刺しておかねばなりません。
「楽しい人」になることは、「わがままになること」とは全く違うのです。
「正しさ」は、身体を硬直させる
まず、ご自身の身体の感覚に問いかけてみてください。
「私は正しい。相手が間違っている」
そう強く思ったとき、あなたの肩は上がっていませんか?
奥歯を噛み締め、呼吸が浅くなっていませんか?
「正しさ」とは、多くの場合「境界線を引く行為」です。
ここまでは白、ここからは黒。私はこちら側、あなたはあちら側。
正義を振りかざすとき、私たちは自分と他者を分断し、対立構造を作り出します。
これはヨガで言う「分離(ヴィヨーガ)」の状態です。
もちろん、社会生活においてルールやマナーは必要です。
しかし、正しさに「固執」し始めると、それはエゴの餌になります。
「べき論」で自分を縛り、他人を裁く。
その時、私たちの身体は石のように硬くなり、プラーナ(生命エネルギー)の流れは滞ってしまいます。
正しいけれど、どこか冷たく、血が通っていない。
そんな状態に陥ってしまうのです。
「わがまま」は、幼稚なエゴの暴走
では、「正しくなくていいなら、好き勝手にやればいいのか?」というと、それは大きな間違いです。
ここを履き違えてはいけません。
「楽しい人」と「わがままな人」は、似て非なるものです。
わがままとは、自分の「欲(ラガ)」を他人に押し付ける行為です。
「私がこうしたいから、お前が合わせろ」
「私が気分がいいから、迷惑をかけてもいい」
これは、正しさへの固執と同じくらい、あるいはそれ以上に、周囲との不調和(アンバランス)を生み出します。
わがままな人は、一見自由に見えるかもしれません。
しかし、その実態は「自分の感情や欲望」に振り回されている奴隷のような状態です。
周りの状況が見えていない。相手の呼吸を感じ取れていない。
そこには「調和」がありません。
ヨガが目指すのは「自由」ですが、それは欲望のままに振る舞う放縦ではなく、自らを律した先にある、調和の取れた自由なのです。
「楽しい人」とは、音楽のような人
では、「正しい人」でもなく、「わがままな人」でもない、「楽しい人」とはどういう存在でしょうか。
それは、「響き合う人」です。
楽しい人は、自分の機嫌を自分で取ることができます。
彼らは、状況が良いから楽しいのではありません。
どんな状況であっても、その中から「面白がり方」を見つける天才なのです。
例えば、予期せぬトラブルが起きたとき。
正しい人は「誰の責任だ!」「ルール通りじゃなかった!」と怒ります。
わがままな人は「嫌だ!やりたくない!」と不貞腐れます。
楽しい人は、「さて、この難局をどう乗り切るか、ゲームのようにやってみようか」と、軽やかに視点を切り替えます。
この「軽やかさ」こそが、周囲に伝播するのです。
楽しい人の周りでは、気が巡ります。
滞っていた空気が動き出し、強張っていたみんなの表情が緩む。
それはまるで、美しい音楽が流れているかのようです。
彼らは自分のエゴを通すことよりも、その場のハーモニー(調和)を大切にします。
だから、わがままにはなりません。
相手を尊重しながら、ユーモアという潤滑油を使って、摩擦を減らしていくのです。
ヨガとは、人生を「遊ぶ」練習
古代インドの思想に「リーラ(Lila)」という言葉があります。
「神の遊び」という意味です。
この宇宙は、神様が遊ぶようにして創造したものであり、人生とは深刻なドラマではなく、壮大な遊びである、という考え方です。
私たちは、人生を深刻に捉えすぎています。
絶対に失敗してはいけない。正しくあらねばならない。
そうやって眉間に皺を寄せて生きることを、誠実さだと勘違いしています。
しかし、本当の誠実さとは、与えられたこの命、この身体を、最大限に謳歌することではないでしょうか。
深刻になるのではなく、真剣に遊ぶこと。
正しさを証明するために戦うのではなく、楽しさを共有するために手を取り合うこと。
「楽しい人」になるための第一歩は、自分の中の「正しさの物差し」を少し短くすることです。
「まぁ、そういう考え方もあるか」
「計画通りじゃないけど、こっちの道も景色が良いな」
そうやって、許容範囲を広げていくこと。
それは、ヨガマットの上で、ポーズの完成度に執着せず、その日の身体の声を聞いて動く練習と同じです。
膝が曲がっていてもいい。ふらついてもいい。
その不完全さを笑って楽しめる余裕が生まれたとき、あなたはもう「正しい人」から「楽しい人」へと変容を始めています。
正しい人は、尊敬されるかもしれませんが、孤独になることがあります。
わがままな人は、一時的に得をするかもしれませんが、人は離れていきます。
楽しい人は、ただそこにいるだけで、周りを照らす陽だまりになります。
どちらの人生を選びたいか。
答えは、あなたの身体が一番よく知っているはずです。
肩の力を抜いて、口角を少し上げて。
正しさよりも、心地よさを選んでいきましょう。
ではまた。


