雲は互いに「あの形の方が立派だ」とか「あいつの方が速く流れている」と競い合うことはありません。ただ、風に任せて流れているだけです。
しかし、私たち人間の世界に目を向けると、そこには絶え間ない「比較」と、そこから生まれる「嫉妬」の風が吹き荒れています。
SNSを開けば、誰かの煌びやかな生活、成功、美貌が飛び込んできます。
テレビをつければ、政治家への揶揄や、他者の失態を喜ぶような冷笑的な空気が流れています。
物が溢れ、情報が過多になった現代において、私たちは無意識のうちに「他人の幸福」を「自分の不幸」と錯覚してしまう病に侵されているのかもしれません。
今日は、そんな現代を生きる私たちが、嫉妬という重たい荷物を下ろし、最も軽やかに、そして確実に幸せになるための古(いにしえ)の智慧、「随喜功徳(ずいきくどく)」についてお話ししましょう。
もくじ.
比較という地獄、嫉妬という名の檻
私たちは、なぜこれほどまでに他人と自分を比べてしまうのでしょうか。
容貌、職業、学校、住まい、車、パートナー……。
リストアップすればきりがないほど、比較の種は日常に転がっています。
現代思想的な視点で見れば、資本主義社会そのものが「他者が欲しがるものを欲しがる」という構造で成り立っているからかもしれません。
「あの人が持っているから、私も欲しい」
「あの人が賞賛されているから、私もされたい」
この比較の先にあるのは、決して満たされることのない渇望です。
そして、自分より優れている(ように見える)他者に対して、「引け目」を感じ、それがやがて「恨み」や「妬み」へと発酵していきます。
この感情が行き過ぎたとき、それは憎悪や敵意となり、ネット上の誹謗中傷や、政治的な足の引っ張り合いのような醜い争いへと発展してしまうのです。
嫉妬心は、他人の輝きを見て、自分の心の灯火を消そうとする行為に他なりません。
それは、自ら進んで暗い檻の中に入るようなものです。
お釈迦様が残した最強のメソッド「随喜功徳」
では、この苦しい檻から抜け出すにはどうすればよいのでしょうか。
ただ「嫉妬してはいけない」と自分を戒めるのは、なかなか骨の折れる作業です。抑圧すればするほど、影は濃くなるものですから。
そこで紹介したいのが、仏教の経典にも登場し、小林正観さんも著書『こころの宝島』などで提唱された「随喜功徳(ずいきくどく)」という概念です。
文字を見てみましょう。
「随」って、従うこと、ついていくこと。
「喜」ぶこと。
つまり、「人が喜んでいるときに、その波に乗っかって、自分も心の底から一緒に喜んでしまうこと」。
これが、徳を積む(功徳)ことになるという教えです。
仏教やヨガの文脈では、他者の幸福を喜ぶ心を「ムディター(Mudita・喜)」と呼びます。
誰かが成功したとき、誰かが幸せになったとき。
「ちぇっ、面白くないな」と舌打ちするのではなく、「ああ、よかったねぇ!素晴らしいねぇ!」と、まるで自分のことのように喜ぶ。
これだけでいいのです。
苦しい修行も、滝行も必要ありません。
ただ、他者の喜びのエネルギーに同調するだけで、あなたは莫大な「徳」を積んだことになると、お釈迦様は言うのです。
なんとコストパフォーマンスの良い修行でしょうか。
なぜ、私たちは素直に喜べないのか?
「頭ではわかるけれど、それが難しいんだよ」
そう感じる方も多いでしょう。
友人の結婚、同僚の出世、ライバルの成功。
心の奥でチクリと痛むものがある。
この「随喜」を邪魔している正体は一体何なのでしょうか。
それは、ヨガ哲学で言うところの「アハンカーラ(自我意識)」、つまり「エゴ」です。
エゴは常に「分離」を前提としています。
「私」と「あなた」は別の存在であり、幸福というパイは限られている、とエゴは信じ込んでいます。
だから、誰かが幸福のパイを手に入れると、自分の取り分が減ったように感じてしまうのです。
「あいつが評価されたということは、私が評価されていないということだ」
「自分の方が正しい努力をしているはずだ」
「自分の方が優れているはずだ」
嫉妬心を感じるとき、私たちの内側ではエゴが暴れています。
そして、相手の欠点を探したり、成功を「運が良かっただけだ」と矮小化したりして、自分の嫉妬心を「正当化」しようとします。
この「正当化」こそが、私たちの心を濁らせ、表情を険しくさせている元凶なのです。
随喜功徳で一番幸せになるのは「私」
しかし、ここで視点を少し変えてみましょう。
随喜功徳を行うことで、誰が一番得をするのでしょうか。
相手でしょうか?
いいえ、実は「あなた自身」です。
嫉妬心という感情は、毒のようなものです。
誰かを妬んでいるとき、私たちの身体は緊張し、呼吸は浅くなり、眉間には皺が寄り、血液はドロドロとしています。
嫉妬のエネルギーは重く、収縮し、私たちを冷たくさせます。
一方で、「随喜」のエネルギーはどうでしょう。
「おめでとう!」「よかったね!」と心から喜んでいるとき。
私たちの胸は開き、呼吸は深くなり、身体は温かくなり、表情は緩んでいます。
脳内には幸せホルモンが分泌され、波動は高まります。
つまり、他人の幸せを喜ぶということは、その他人の幸せエネルギーを「お裾分け」してもらい、自分自身のエネルギー状態を最高レベルに引き上げる行為なのです。
相手のために喜ぶのではありません。
自分の人生を心地よくするために、相手の喜びを利用させてもらうのです。
そう考えると、少しやりやすくなりませんか?
嫉妬の沼から抜け出す魔法の言葉
現代人は、「分を知り、足るを知る(サントーシャ)」という奥ゆかしさを忘れがちです。
外側の情報に煽られ、終わりのない競争の海で溺れかけています。
もし、あなたの心に嫉妬心が芽生えたら。
それは恥ずかしいことでも、悪いことでもありません。人間として自然な反応です。
ただ、「ああ、今、私のエゴが分離の夢を見ているな」と気づいてあげてください。
そして、エゴの暴走を鎮め、随喜のスイッチを入れるための、魔法の言葉を唱えてみましょう。
「あなたはとても素晴らしい。私もとても素晴らしい。」
相手を下げるのでもなく、自分を卑下するのでもない。
相手の光を認め、同時に自分の光も認める。
両者は比較対象ではなく、ただ異なる輝きを持つ、尊い存在同士なのです。
人の成功を喜べば喜ぶほど、あなたの潜在意識は「成功=喜び」と認識し、あなた自身の人生にも同じような幸福を引き寄せ始めます。
嫉妬とは「成功=あいつのもの=悔しい」という刷り込みを強化する行為です。
どちらの未来を選びたいかは、明白ではないでしょうか。
人と比較せず、自らの道を往き、人の喜びを、心から我が喜びとする。
そんな「随喜」の達人になったとき、あなたの人生は、嫉妬という嵐が去った後の、静かで美しい凪(なぎ)のような幸福に満たされることでしょう。
縁側で飲むお茶が、今日も美味しいように。
他人の幸せを味わえる心こそが、何よりの宝物なのです。


